何かをすれば何かが変わる

すぐに結論なんて出なくていい、でも考え続ける。流され続けていくのではなくて。
そして行動を起こし、何かを生み出す。

顧客満足と職員満足はどちらが先か?

2006-06-30 00:10:50 | よくわからないこと
 昨今、顧客満足が大きなキーワードであることは間違いないと思う。『医療現場の顧客満足と業務改善』(日本リスク・マネジメント協会・編、同友館)では、それをとっくりと説明しており、多々共感するところが多かったのだが、1点、腑に落ちない個所があった。

医療機関は、患者や家族が満足するかどうか、地域社会と調和するかどうかによって来院患者の数が左右されるという考え方を基本として活動すれば、必ず医療従事者の満足につながるはずである」(127ページ)
医療従事者が患者本位の活動を行えば、その結果として患者や家族が満足することに喜びを感じ、この行為によって医療機関の経営の安定と向上に寄与し、結果として医療従事者の待遇改善、適正人員の配置、勤務態制の改善などにつながる。すなわち、患者や家族の満足を得る活動を行うことが医療従事者の満足に結びつくという原則をしっかりと理解すべきである」(127~128ページ)

 なんと、ESは、CSの結果だというのだ。CSの結果、ESが得られるという順序である。ややや、へんだぞ、そんなふうには思えないのだが・・・。

医療スタッフが自分の職場や仕事に対して満足し「職員満足度」が高くならなければ、顧客が満足するようなサービス品質をつくりだすことはできないのです。」(『実践 患者満足度』、前田泉・著、日本評論社、91~92ページ、2005年)

リッツ・カールトン・ホテルには、「従業員は内部顧客である」という考え方が企業哲学(クレド)のなかにあり、(中略)従業員教育の基本的考え方は、「お客様を心からおもてなしをし、満足をしていただくためには、従業員自身が心から満足していなければならない」というポリシーに貫かれています。」(同、93ページ)

 スタッフが組織によって満足のいく環境や施策を受けて、安定した状態があるからこそ、顧客にも満足のいくサービスが提供できるのであって、ESなくしてCSなし、というほうが、十分納得のいく。

 前掲書は、職員は組織が潤ってこそ、その報いとして職員満足が得られるという順序を明確にしており、組織が潤わなければ職員満足は与えられない、まず組織が利益を上げなければいけない、と言わんばかりだ。

 それでは利益を上げるために顧客満足が必要であり、顧客満足が利益の手段化しているようではないか。
 しかし、前掲書の最も素晴らしいのは、「「顧客満足は医療機関が存続していくために必要な手段・方法ではなく、医療機関が存続し社会に貢献していくための基本的理念でなければならない」(86ページ)と述べているところであって、どうか矛盾を感じる。

 ひょっとしたら、ESとCSの部分は、考察不十分で書かれたのかもしれないが 
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ホウレンソウの誤用・悪用・弊害

2006-06-28 10:40:56 | よくわからないこと
 いわゆるホウ・レン・ソウ、緊密な連携、情報共有化などとのたまい、行動規制、締め付け、強制しようとする風潮のいきすぎを感じていたところ、「本来の「ほう・れん・そう」が形骸化し、上司の自己満足になっている」(『成功者に学ぶ時間術』夏川賀央・著、成美文庫、p.137)をみて、あーこういう側面強いよなぁ、とちょっぴり納得した。

 「情報伝達のための報告ではなく、管理手段としての報告になっている」、「部下に徹底的に報告させて、部長はあーだこーだという--要するに教師がテストを出しているようなもの」というのだ。テストとまでは言わないが、自分に自信がないものだから、自分のホウレンソウはせずに、部下の情報を握って優越感に浸っているように思えて仕方がない。

 「もうウンザリする人は、無視して自分の判断で動くようになります。そうすると当然、他の人より売上実績が高くなる。すると、上司に刃向かっている人だけが成績を上げるという変な構造になるわけです。」。そういう結果もヘンであるが、ある意味当然とも言えて、上司にふさわしくない者が上司の座に座っていることが一番の原因なのだと思う。さらにその裏には、ふさわしくない者が座っているほうが都合のよい人も別にいやりして、私利私欲を優先した結果が、体制の矛盾を招いたといえる。そのために、ホウレンソウが踏絵のように使われているだけではないかと思う。

 「TDKの元社長、素野福次郎が、「忠誠心で社員を縛るのはナンセンスだ」と言っている。」(『会社は誰のものか』佐高信・著、角川文庫、p.216)を読んで、その裏づけ性を感じた。

 「「企業内の人間関係を、忠誠心を軸に云々するのは全くのピンぼけ」と直言する素野は、よそから“養子口”がかからないようでは一人前の社員とは言えないと語り、だから社員が他の会社に替わりたいと言えば、祝福して送り出す。
 「社員に一方的に尽くせという経営者と、そんなトップに忠誠心でおもねる社員がくっついたら、その企業の先行きは知れているという素野の言は至言だろう。

 力量がない経営者や上司は、部下を育てたらすぐ抜かれてしまったり、自分の足跡のひどさを露呈させると自覚しているのかどうか、とにかく部下を育てようとしない。成長を認めない。どこまでいっても、部下の実力は自分より下に置く・見るという共通性を持っているようだ。
 たまたまその地位にあるから、その者の見識がすぐれているのではない。判断能力に長けているのでもない。真の実力は誰がもっているか、それは社会や周囲が見れば、すぐわかることだろう。業績や現状を見れば、その者たちの実力もわかるのである 
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夕張市の財政破綻に思う

2006-06-28 08:31:41 | 思いつくまま
 夕張と聞けば、昔は炭鉱、今はメロン。地元の人間じゃないと、そんな程度にしか浮かばない。夕張メロンは、確かに旨い。でも高い。よって、毎年1回ですら口に入ることはない。一部の者だけの、高級品路線を目指していたのだろうか。

 その夕張市が財政再建団体になった。企業で言えば、倒産したようなもんだ。豪華?なメロン博物館やロボットをメインにしたテーマパーク、遊園地などで、税収アップを目論んでいたようだが、外れた。そんなものは、一時的に興味を示すことがあっても、長続きするようなものとは思えず、そのために国の地方交付金にすがりついていたのだから、市側の計画性は甘く、責任は少なくないと思う。

 国は自治体の自立を促す意味で、地方交付金で補助する。ところが受ける側は自分たちではとても賄いきれないので、不足分を補填してもらうような気でいる。
 補填頼みは、自立を阻害し、何も生み出せない現実を肯定し続けるようなものではないか。地方交付金があっても、その存在を正しく認識できていなかったのではないだろうか。

 夕張市に限らず他の地方自治体でも、さらに国レベルでも、収入を上げることが困難だ。安易な増税もできない。地方分権というが、国の衰えは地方の衰えの集合でもあり、国の単位となる地方自治体の困窮を、国は面倒見きれないがための地方分権のようでもある。まるで、その非難の矛先が国に向かないよう、地方自治体を矢面に立たせることが地方分権の奥に秘められた意味であるかのようだ。

 全国的に名の通ったメロンという産物を持っているのだから、もう少し何かできたのではないか、というのはメロンを知らない者の戯言かもしれないが、夕張市の後に続く自治体が名乗りを挙げるのも、そう遠くないのかもしれない 
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プロ意識の有無と「ど素人」

2006-06-25 19:33:29 | 思いつくまま
 福井日銀総裁ともあろう者が、その要職にありながら自らを律する行動がとれず、自分は「ど素人」であると表現し、周囲を唖然とさせた。
 その相手であった村上世彰は、自らを「プロ中のプロ」と認め、その自分が犯した失策だと認めた。
 ジーコジャパンは、予選で1勝もできず、ジーコ監督は日本代表にはプロ意識が足りない、と残念がった。「選手を縛らず、戦術も含めて自ら判断する自由を与えた。さらに上を目指すには、一人一人の自立が欠かせないと考えていたのは間違っていない。しかし、そこまで育たなかった」(朝日新聞 2006.6.24 社説)。日本代表なんだから、その人をおいて右にでる者はいないはずの選手が集合したにもかかわらず、いろいろな意味で能力不足を露呈させた。

 一般的に見てとても素人とは思えないはずの人が、さまざまな反応を見せてくれる。みなさん、プロじゃないんですか? そのみなさんが、それほどまでにプロらしくない行動や結果に至るのは、いったいどうしてなんですか、と問いたい。

 プロって、いったい何が備わっていることを意味するのだろう・・・。単に、その道で給料をもらっていればプロなのか。それだけじゃないのではないか。ましてや、それぞれの分野で頂点を極める人たちは、並みのプロの次元を超えたものを持ち合わせているのではないだろうか。

 中田英寿は、ブラジル戦終了後、しばらくピッチを立てなかった。選手との間の不協和音らしき報道もあった。何が自分たちに欠けていたのか、それを改めて思い知らされたのではないだろうか。またそれは、自分がヨーロッパへの道を切り開き、本場のサッカーを通じて学んだことであり、それこそ一番日本チームに伝えたかったことではなかったのだろうか。チームもふがいなかったが、それを伝授しきれなかった自分が情けなかったのではないだろうか。それがセンターサークルに寝そべらせてしまった原因のように思われた。

 「組織と個人能力は対立軸ではなく、両方備えてこそ、強いチームになる。やっぱり個人能力重視はだめだと、組織頼みに針を戻すようでは、日本サッカーは退行するだけだろう」(朝日新聞 2006.6.24 1面)

 プロかどうかは、自ら判断する部分と、周囲が認める部分とからなるように思えた。技術のみならず、意識やモラルをも備えてこそ、プロだ。プロの反対はアマチュア。発展途上ということか・・・。少なくとも、甘い考え(でもいい)の「アマ」ではないのだろう 
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力づくで従わせようとするのは指導側の敗北

2006-06-18 14:38:15 | 思いつくまま
 権威頼みの「厳格化」は敗北  義家 弘介(元・高校教諭、横浜市教育委員) 朝日新聞 2006.6.17 朝刊
-----転載ここから
 これまで教育は、次々と浮上する子供たちの問題を、モグラたたきのようにつぶすことばかり考えてきた。80年代に校内暴力が深刻化すると、おびただしい校則を作って沈静化させようとした。(中略)

 しかし、力で抑えつけても、子供たちのストレスが癒されるわけではない。その結果、夜のまちに少年社会ができていった。さらに、より巧妙になり、大人の目を盗む形で集団によるいじめが起き、不登校へと問題が複雑化した。(中略)

 高校で初めて担任を持ったとき、半数以上は私と同じ中退者で、どういうクラスになるのか不安だった。不安に思うと、ルールをどんどん増やして適用していくしかなくなる。しかし、それは教育ではなく、矯正である。(中略)

 この世に、教育ほど効率の悪い営みはない。バラバラなゴール(未来)に向かっている一人ひとりと、真剣に向き合うほど効率は悪くなる。教師はコンピューターやクルマをつくっているのではない。効率が悪いほど、いい教育が行われているとさえ思う。(中略)

 教育は5年後とか長いスパンで結果が出るもの。寛容さを失ってどうするのかと思う。
 権威ではなく、情熱と愛情を持った教師集団の力で導くのが教育なのに、こうした教師集団を作らないままルールだけを厳格にしようとしている。これでは教育の敗北だ。
 「ルールだから」という殺伐とした理由だけで処分されては、教育は死んでしまう。(中略)

 教師は感動の伝道師、プロデューサーである。規制の先にある矯正に、あなたは感動しますか。
-----転載ここまで

 教育を、教育研修や人材育成、生徒を社員やスタッフ、教師は上司や教育担当者、権威を権力や権限、ルールを規則や規定、といったものに置き換えて読めば、硬直した組織そのものとも言えるのではないか。

 しばしば役職が上だからとか、決まりだからとか、権限だとかを押し付けている光景がに出くわす。矯正を強制しているにすぎない。えてしてたいした見識も先見性、実績もなく、業績も出せずにいるときに見られる。そのような組織では、改善が進まないどころか、すべて命令で動かすような、従わなければ、気に食わなければ、制裁しますよ、と言っているようですらある。

 物事に説明ができないような状態なのであれば、その役職に留まること自体がふさわしくないことの証しであり、自らその地位を降りるべきではないか。身を引くことしか期待されていないのだから。

 それは教育ならぬ、指導の敗北でもあり、組織崩壊の序章であるかのようだ。
 教えることは十人十色への対応だから、全体的に基本を伝えるとともに個への対応が不可避だ。通知や指示だけで、すべて一律に達成しようという考えそのものが誤りだということだ。効率が悪くても、ひとつずつ片付けていくしか手はないようである。だから短期間で済むことなど、まれだといってもいい。
 焦って従わせなければいけない状況が続いていることは、危険な状態に陥っているといえそうだ 

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ルールは単に守っていればいいか?

2006-06-17 00:00:02 | 思いつくまま
 ニッポン人脈記 秋霜烈日のバッジ14 朝日新聞 2006.6.16 夕刊
-----転載ここから
 (桐蔭横浜大のコンプライアンス研究)センター長の教授、郷原信郎(51)は3月まで検事だった。
「三菱自動車のリコール隠しのように、コンプライアンスに失敗すると死活にかかわる。でも、日本の企業のとりくみはまだ十分とはいえないですね」
 コンプライアンスとはいったい何か。「法令順守」と訳されているが、法律やルールを守ることだけなのだろうか。(中略)

 04年、元上司の引き合わせで、工学院大教授の畑村洋太郎(65)と出会う。畑村は「失敗学」の創始者である。
 失敗から目をそむけるな。分析し、学ぶことから成功への道が見えてくる。「マニュアル通りにやっているからよいと考えたとたん、だめになる」。東大教授として機械工学を教えていたころに書いた「失敗学のすすめ」(講談社)はベストセラー。
 畑村は、軽い沢での勉強会に出た郷原に、ふと言った。「コンプライアンスを法令順守と訳すのはおかしいよ」。そのことばが郷原の目を開く。
 「順守」は単にルールを守っていればいいという考え方になりやすい。企業体質、制度の問題、市場のゆがみ。あらゆる観点から原因を洗い直すことが欠かせない。三菱自動車はそれをおろそかにして失敗した。
 「法令やルールが何のためにあるのかを根本から理解することが大切だ」。(後略)
-----転載ここまで

 自分の周りを見ていると、なぜか思いつきで物事を進めて、ある時、それが違法じゃないかどうか確かめる風潮がしばしばある。思いついたことが、奇抜で優れているような錯覚をしていることに気づかず、いざ実施する直前になって、ひょっとしたら法に触れるかどうかと心配する。

 何の事は無い。思いつきのアイデアは、大抵ろくでもない中身といってもよい。もともと自信なんぞ、あったわけでもない。日頃から温めていたものが土台になっていないからだ。だから、効果があるかどうか、当たれば儲けものくらいのことにすぎず、違法だったらマズイという判断のほうが勝ってしまい、心配が先立つ。自信も確信もあれば、もともと関連法規に抵触するかどうか、当然のこととして心得て、予め考慮されているものだ。

 えてしてそんなつまらぬアイデアは、たいしてコンプライアンスに触れるほどのこともない。しかし、モラルに照らし合わせると、大きく疑問符のつくものであることがしばしばだ。

 法に違反するかどうかは、後ろ向きの確認であることが多い。社会に何を問いかけていこうとしているのか、どのように社会に貢献したいと考えているのか、そういう前向きな精神のもとから出されるものには、法律そのものではなく、法が言わんとする、行間や背景に隠された本質をふまえたものがあるような気がする。

 だから思いつきの、急場ごしらえで考えた程度のアイデアでは「李下に冠を正さず」の考えは欠落しているようなことが多い感じがする。李下にいるかどうか、その自覚もなく思いついたアイデアにすぎないことの証明のようだ 
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安さ優先で入札した罪では

2006-06-14 23:31:40 | ISO9001奥が深いか浅いのか
シ社、安値落札で浸透 「辞退迫れない」自治体戸惑い 朝日新聞 2006.6.14 夕刊
-----転載ここから
東京都港区で高校生が挟まれて死亡したエレベーターの製造元・シンドラー社は、官公庁の入札で同業他社に比べて安値を提示して実績を伸ばしてきた。国内シェアは1%程度とされるが、官公庁に限ればその割合を大きく上回る。「税金を使う以上、より安い方を選ぶのは当然」としてきた自治体は、今回の事故に戸惑いを隠せない。

 東京都はシンドラー社製品の大口ユーザー。石原慎太郎知事は9日の記者会見で怒りをぶちまけた。

 「安かろう悪かろうじゃ困る」
-----転載ここまで

 税金を使う以上、より安いほうを選ぶのは当然かい? エレベータの性能や信頼性、トラブル実績など、安全性が確保されたうえで、その次の選択肢が価格ではないのかな?

 税金を言い訳にして、安さで選んでしまったがために起きたともいえるのではないか。購買先を評価するにあたり、安さがイチバンにしてしまったという、7.4.1の不適合が自治体に見られる。

 シンドラーみたいな会社が、たとえ辞退してくれなくても、評価基準がきちんとしていれば、そこではじくことだって可能だ。自治体の購買担当者は、税金のほうを向いて仕事をしているとしたら、役人のほうを向いていることではないか。そのエレベータを使う真の顧客は、住民だ。そちらを重視した判断基準を設けていれば、事故は避けられた可能性もある。

 金額面だけで入札するのは、確かに透明性の高い方法ではあるだろうが、それだけではやはり不十分だ。入札条件として、事故の記録を提出させるとか、保守テンケンやメンテナンスの基準も設けて、ハードルがクリアしたところだけ、入札ができる方式にしてはどうなのだろう 

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エレベータは縦の鉄道

2006-06-13 21:52:02 | ISO9001奥が深いか浅いのか
原因はブレーキ?安全装置? 特定へ資料分析 警視庁 (朝日新聞) - goo ニュース

 シンドラーエレベータは、事故によって一気に知名度が上がった。事故以来、エレベータに乗るたびに、どこの会社のエレベータか確認するクセがついたが、幸い?同社のものにはお目にかからない。また同社のものでなくても、エレベータで異常らしきものがあると聞くと、ドキッとする。やはり、安全あってのエレベータなのだろう。

 シンドラー社は今回の人身事故に対し、メンテナンスに問題があり、それは他社が行っていたので自社には関係ない、と言っているようであるが、もしこれが車だったら、ディーラーが車検をせず、民間工場が行っていたから、製造メーカーの問題ではない、と言っているようなもので、とても通用するとは思えない。プリンターなどの場合、純正トナーを使わないとトラブルが起きても保証しないと言っているが、それはトナーで売上げを伸ばそうとする魂胆によるものだろう。

 さて、シンドラー社。なんとISO9001を取得していた! 今回の事件で、事故の原因は確定していないものの、推測の範囲内で、いったいどこに不適合があるのか、考えてみたい。
 まず対応のまずさ。シンドラー社のエレベータを知らなかった者にまで、評判を落とした。誰を「顧客」と考えているのかどうか(エレベータの利用者だろうけど)、顧客とのコミュニケーションができていないのか(7.2.3)。
 機械上の設計不良があったとしたら、設計開発の不適合(7.3)。
 全国各地から同様のクレームや事故も報告されていたというから、それを知っていて対策がとられないのなら不適合の管理(8.3)。
 メンテナンス会社が、同社のエレベータのことをよく知らされていなくて、保守が適切にできないでいたのなら、教育研修の不備か(6.2.2)。
 社内で問題がわかっていたのに、いつまでも対策がとられていないようだと、内部のしかるべき部署に情報が届いていないのではないか(5.5.3)。
 売上げや利益優先で、金儲けに走っていたことが原因なら、経営者の不適合(5.1)。

 格安に売り込んで、日本での市場を拡大しようとしていたというから、売上げは強く意識していたことだろう。その一方、安全も同時に提供できる態勢だったのだろうか。契約がとれて、建物に設置すればそれで一件落着と思っていたことはないだろうか。

内部監査脳を鍛える

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熊本県立美術館に行く

2006-06-11 22:55:49 | いいものはいい
 先日、熊本出張のついでに、熊本県立美術館に立ち寄った。美術にはさっぱり疎いのだが、見たいのは絵画や彫刻などの作品ではなく、美術館そのもの、つまり建物だった。建築に対しても素人なのだが、同美術館は、以前NHKで前川國男さんという建築家が立てた“作品”のひとつだということで、もしチャンスがあれば・・・と思っていたのだった。

 熊本城跡の一角にあるそれは、新緑の中、斜面に深く入り込むような形で作られていた。玄関脇に、確かに前川さんが建てたことが記されている。

 建築といっても、何でも建造物を作ればいい、ってもんじゃない。一度作れば、老朽化するとか、それなりの事情が無い限り、何年もその場にありつづけるのが建築物だ。建てるにあたり、建築家にはプロデュースする責任がある。売れさえすれば、どんな建物でもいいなんてことはない。

 美術館であろうと、オフィスであろうと、マンションであろうと、建築物であれば外してはならない、建物として備えるべき、果たすべき、不易なものがあるのだという。経済優先の考え方が、その基本をないがしろにし、蝕む動きを見せることに対して、「もう黙っていられない」と、自らがお手本を示し、建築ってそんなものじゃない、と訴えていたようである。前川さんにしてみれば、その場しのぎで建てた程度のものは建物じゃないということのようだ。

 その建物を使う人、住む人、訪れる人、それらの人々へ愛情を注ぎ、「人を幸福にする建築」を目指した・・・といった番組だったように思う。そのような思いは、無形の力として、さぞかし周囲に訴えるものが大きかったに違いない。
 昨今の耐震偽造問題で問われる人たちは、前川さんのことなど知らないのだろうか。自分が建築家として世に残す建造物に、愛着を感じないのだろうか。そこに住む人たち、利用する人たちに思いをはせ、豊かさを演出することにやりがいを見いだせなかったのだろうか。

 今回、熊本では時間がなくてゆっくり見ることができなかったが、またチャンスがあれば行って見ることにしよう。美術作品も、一層の輝きを見せて、そこに展示されていることを、さぞかし光栄に思っているのではないだろうか 
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すかいらーく、上場廃止

2006-06-08 23:21:21 | 思いつくまま
すかいらーく株非公開へ 経営陣が2700億円で取得 (朝日新聞) - goo ニュース

-----転載ここから
 東京証券取引所第1部に上場しているファミリーレストラン大手「すかいらーく」は8日、経営陣が自社株をすべて買い取り(マネジメント・バイアウト=MBO)、株式を非公開にすると発表した。全株取得に必要な資金は約2718億円になり、MBOとしては、昨年のアパレル大手「ワールド」の2080億円を上回り国内最大規模となる。今後進めていく事業構造改革に、既存株主の理解を得るのが難しいと判断したため。敵対的買収を防ぐ狙いもあるとみられる。

 創業者の横川竟(きわむ)会長兼最高経営責任者(CEO)ら経営陣が、特別目的会社(SPC)を設立し、自社株を公開買い付け(TOB)する。資金は、野村証券グループの投資会社などが出資する。

 買い付け価格は、ここ6カ月の平均株価を27.4%上回る1株あたり2500円。9日から7月10日までの期間で、議決権ベースで66.67%にあたる約7247万株の買い取りを目指す。買い取り予定数を超える応募があった場合にはすべてを買い取る。すかいらーくと、株式を持つ横川会長ら創業者の4兄弟は買い付けに同意している。

 9月下旬に株式交換も実施し、すかいらーくを完全子会社化後、上場廃止。来年1月にSPCとすかいらーくが合併し、新生すかいらーくが誕生する予定だ。経営は引き続き横川会長らがあたるほか、SPCに出資するファンドも取締役を出す。

 8日、会見した横川会長は「成長力に陰りが出てきており、抜本的な改革が必要。しかしその過程を株主に理解してもらうことは困難」と話し、MBOを決断したという。改革期間は3~4年を想定。その後の再上場は「選択肢の一つ」(横川会長)としている。
-----転載ここまで

 上場廃止って、けっしてできないことじゃないじゃない。生産性をもたないまま、公開し続けるということは、株主を欺くとこになりはしないか、と考えたのだろうか。
 細々かもしれないが、現状のまま回復を目指そうとする動きもあったことと思う。いったん、非上場の身に降りることは、名のある会社だけに、乗っ取り防止をもおそれたとはいえ、勇気ある決断だと思う。
 どこかの、全く生産性に乏しい状態を放置したまま、上場しようとしている会社があれば、改めて考え直してもらいたいものだ。おそらく、これまで強引に推し進めてきた姿勢を自ら否定できないだろうから、強弁を繰り返すのだろうが 
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金を儲けてもいいけど、まずすべきことをしてから

2006-06-07 22:17:11 | よくわからないこと
村上代表「金もうけ、悪いことですか」 つきまとう酷評 (朝日新聞) - goo ニュース

-----転載ここから
「もうけようと思ったのではない」

 5日午前。突然開いた記者会見で、数時間後に容疑者となる村上ファンドの村上世彰代表は、ニッポン放送株の取得がインサイダー取引にあたることを認めて謝罪しつつ、こう釈明した。

 だが、会見が熱を帯びるにつれ、相矛盾するような言葉が飛び出す。

 「金もうけ、悪いことですか

(中略)

 大阪・梅田の不動産売却を求められた阪神電気鉄道。統合を決めた阪急側の関係者は「売却で巨額の配当や株の値上がり益を得られれば、投資家の利回りは上がるが、企業はやがてぼろぼろになる」と、村上手法に冷ややかな目を向ける。

 05年秋には、株を大量保有したTBSに「共同経営」をちらつかせて株の買い取りを求める一方、楽天など新興企業にも水面下で購入を勧め、株価が上がった時点で売り抜けた。株式の大量保有情報の開示義務が緩いなど、ファンドへの特例制度を巧みに使って株を買い集め、突然大株主として要求を突きつける手法にも批判がある。

 「会社乗取り」などの著作がある経済評論家の佐藤朝泰氏は「全株主のためと言いながら、やり口は昔ながらの乗っ取り屋と変わらない」と指摘する。村上代表の主張と高利回りに引かれ、運用を委託した大手企業は最近、「乗っ取り屋のイメージが強くなった」として契約を解除した。

 「日本を良くするなんてNGO(非政府組織)ででもやってくれ。調子にのるな」。東京スタイルの委任状争いで負けた後、投資家からこう罵倒(ばとう)され「利益追求こそがファンドマネジャーとしての自分の職業と決意した」。村上代表は最近、周辺に語ったという。

 高邁(こうまい)な理念と利益最優先の行動。自らのファンドが巨大化するなか理念が薄らいだのか。元々理念は手段に過ぎなかったのか。事件で証券市場からの「退場」を宣言した男の真実は見えないままだ。
-----ここまで転載

 会社は株主のためのものだ、ということがひと頃、そういう考えもあるのか、と思った。しかし今となっては、そういう自分が恥ずかしい思いがする。
 会社は誰のものか? そういう本が話題になった。同名の書籍は、それぞれ別の著者によって書かれている。誰のものでもない、という本もある。

 村上氏でなくても、株主の一般投資家とは、株価の上昇機運に合わせての金儲けが目的ではないのか。本当にその組織を良くしようと思うのだろうか。その組織が苦しんでいても、自分の論理は曲げずに、自分さえ良ければいい、といった株主が多いのではないか。

 会社設立の経緯もいろいろあって、確かに設立した個人の物であった時代もあろうし、社会の公器として共有財産的になっていることもあろうし、社長などの私物に近い状態のこともあろう。

 金がすべての物事を支配するのは好かない。少なくとも、医療機関は、医療提供施設は、健康を守る使命がある以上、株主のものであろうはずがない、と確信する。株式会社たる医療機関、薬局など、自己矛盾だと考える 
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国民や社会が薬局に求めること(2)

2006-06-05 19:29:54 | くすり雑感
 薬局に来る患者さんと、薬局・薬剤師側のすれ違い状態の考察(続き)である。自分の健康問題に向き合ってほしい患者さんと、一方的なインタビューや的を得ない指導をして自己満足している薬局の原因に関する「なぜなぜ分析」である。

なぜ患者さんは薬さえもらえば薬局には用はないと思うのか?

―> 患者さんは、薬局とは薬をもらうところであって、薬物治療(経過)管理をするところだとは認識していないから

なぜそのように認識しているのか?

―> 薬物治療とはいえ、経過管理は医者の領分であって、薬剤師は医者の指示に基づく薬剤交付が仕事だと思っているから

なぜそのように思っているのか?

―> 薬物治療が適切に進められるうえで、薬剤師が服薬が患者さんに及ぼす影響や、服薬が患者さん側の環境や条件から受ける要素について、注意していることが理解されていないから

なぜ理解されていないのか?

―> これまでの活動に接し、そのようなことをやってもらっているとは思ったことがないし、医者でもないのにできるとは思っていないから

なぜそう思われてしまったのか?

―> 服薬指導をすることに目や意識を奪われすぎていて、本来の責務である服薬管理がおろそかになっていたから

なぜおろそかになっていたのか?

―> 自分たち(=薬剤師)の仕事について、患者さんの安全確保に係るということが最大の仕事であると位置づけられていなかったから


 まだ続ける? なぜ位置づけられていないのか?>別のものが位置づけられていたから それは何?>フィー算定 なぜフィー算定?>売上や利益といった経営優先姿勢があるから・・・

 いきつくところ、薬局や薬剤師として当たり前のことができていなかった、基本的なことに応えられていなかった、ということではないだろうか。

 カンタンな薬効と飲み方さえ伝えながら薬を渡していた時代、その肥大化した状態がいわば「調剤バブル」期、分業率向上がいきつくところにまで来て、質に目が向けられているにもかかわらず、そこへの投資が遅れている状態、それが今なのではないだろうか。

 昨今の医療費抑制で、薬局経営は例年以上の危機にあるとはいえ、やはりそれを乗り切るのは薬局の原点を見失わず、どこまでも愚直かつ忠実に実行していくことではないかと思う。何をすれば薬局経営が好転するか、どうか目先のことばかりに目が行き過ぎているのが、昨今の薬局業界のように思われる。

 何をするか、すればよいかの前に、どのような方針、姿勢で薬局を行うのか、その土台となるところを再確認し、本末転倒の薬局経営にならないように願うばかりだ。背に腹は変えられずとばかり、品も何もあったものではなく、¥がすべてと言わんばかりの薬局には、消費者がNoを突きつけて欲しいと思う 
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国民や社会が薬局に求めること(1)

2006-06-05 19:05:45 | くすり雑感
 ある研究会(学会)で、患者さんは薬局に対して専門性より利便性を求めている、という発表があった。薬剤師は、まじめに仕事をしようとしているが、どうも自分たちの活動が患者さんに受け入れられていないようだ。すれ違い状態にも思える。

 しかし、このことは以前からその傾向は見られていた。
・薬局窓口で説明なんかいらないから早く薬を渡して欲しい
・薬局窓口で、いろいろ聞かれるのはイヤだ
・医者に話したことと同じことを、再度薬局に来て話すのは面倒だ

 などの反応である。薬さえもらえば、それでよいと言わんばかりだ。

 しかし、毎回、必ずしもそうではなく、聞きたい時は聞きたいし、ときに相談したい案件がないわけじゃない。つまり患者さん側が必要とするときだけ、つきあってくれればいい、ということのようである。

 以前にも述べたように、国民や社会は、薬局の存在理由について、「健康問題を解決するための薬物治療を進めるうえで、安全確保に寄与し、安心を得る」ことがあると思う。すべては、そのための活動ではないかと思う。

 そのために、
・困ったことがあれば、解決するよう、相談に乗ってほしい
・薬物治療を進めるうえで、危険な目に合わないよう、見ていてほしい
・もし危険に合うおそれがあるのであれば、予め教えてほしい

 といった要望を、いちいち口には出さないまでも持っているのではないかと思う。
 にもかかわらず、このすれ違いである。
 ここには、大きく2つ、薬局・薬剤師側の想いと、患者側の想いとの角度から考えてみることにする。

 まず、薬局・薬剤師側の想いを、「なぜなぜ分析」で辿ってみることにする。

なぜ患者さんは薬局窓口での会話を快く思わず、ときに不要だと考えるのか

---> 薬局はいろいろ話かけてくるが、それは患者側にとって必要性や関心がなく、自分たちの求めるものに応えていないと思うから

なぜ薬局は患者さんの問題に向き合わず、一方的な確認や指導に終始してしまうのだろうか

---> 自分たちの仕事は、特指算定内容を満たすための確認であるとか、疾患や処方薬から自ずと決まる薬学的管理だと思っているから(まさに売り手中心の発想だ!)

なぜ患者さんの想いを話題の中心とせず、また自分たちの行動をおかしいと思わないのか

---> 組織内でフィー算定が課せられていたり、それが薬局経営の糧だと考えるから(つまり、算定目的の仕事をしている!、というわけか・・・)

 では次項で、患者側の想いについて、考察してみる 
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往生際のタイミング

2006-06-05 12:33:57 | 思いつくまま
 盗作疑惑のゲージュツ家が、盗作を認めた。

芸術選奨「返上したい」和田氏、盗作事実上認める (読売新聞) - goo ニュース

 小児殺害疑惑の主婦が、事実を認めた。

秋田県警、彩香ちゃんの母逮捕 「豪憲君遺棄」認める 秋田男児殺人事件 (産経新聞) - goo ニュース

 渦中の村上氏が、インサイダー取引を認めた。

インサイダー取引認める 村上氏、一線から退く意向 (共同通信) - goo ニュース

 どこまでも知らぬ存ぜぬを押し通す人がいる一方、観念したのかどうか、事実関係を認める人もいる。よーく報道を読んでみると、事実はそうかもしれないが、自分はそのように解釈していないといった、見解の相違に争点をもっていくようでもある。そういう意味では、完全な自白とは趣きが異なる。限りなく黒に近いグレーにもかかわらず、見ようによっては明らかなグレーと言い張るのは、その後の自分の存在や位置づけを心配してのことだろうか。

 誰かどこかで、途中で、警告を発してあげる人は、周りにいなかったのだろうか。ここまでなってしまう代償の大きさを考えたら、ある一線を越えたとしても、それ以上、泥沼にハマるのを自主的に思いとどまらせるべく、勇気ある決断を促すことができたら、済んでしまった結果はともかく、更なる傷がつかなくて済んだかもしれない。

 社保庁の年金問題も本丸に迫ることができるかどうか。昨今、偽装、粉飾といったモラルの有無が表裏一体となっているものが多い。それだけ、世の中は明らかな違法とレッテルを貼られなければ、何をやってもいいような風潮のようだ。
 法律は文章で示される。そのものズバリの事例を示してなくても、その意図するところを十分汲んで、当事者やトップ自らが品格を持つべきではないだろうか。

 品格といえば、『国家の品格』(藤原正彦)、『仕事の品格』(山崎武也)などの本が、ちょうど“今が旬”のようだ。格差がつき、貧富の差がつき二極化する昨今、貧しくても襟を正すことを見直す流れがきているように思った 
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業務で数字を求めることを止めよう

2006-06-02 09:45:51 | 薬局経営
 社会保険事務局等による国民年金の納付率アップに伴う組織的な「分母減らし」では、納付率という数字を求めることが、粉飾とも言われる不正操作を招いた。民間企業ならこのような不祥事により、業務停止や信頼失墜等による顧客離れ、業績低下、場合によっては廃業に追い込まれることだろう。

 都道府県によって、生活環境や住民の生活状況など異なるわけで、分子を上げることにエネルギーを注がず、分母に手心を加えるというのは、売上を上げるのに、営業努力をしないで、内部処理で楽して済ませよう、ということと似ている。

 都道府県によって諸状況が異なるというのに、他県と比べてもっと上げろなどというのは(表彰までしていた)、意味あることなのだろうか。その多寡が職員の努力と単純に比例しているのか。
 どうしても数字で客観的に知りたいのであれば、同じ県で年次推移のようなもののほうが、まだ参考になるのではないだろうか。

 さて、薬局でも似たような構図がある。算定率向上を強く求めていることだ。チェーン薬局で見られるもので、店舗間の比較をして、ときに表彰をして、算定率アップに異常なまでに固執する。チェーンは会社であって、儲けること、利益を上げることは当然だ、という考えが根底にある。薬局は手段にすぎないのだ。

 払う側の患者は、薬局に期待するのは、自分にとってどこまで薬局が意味があるかどうかだ。健康問題を解決し、支え、安全を確保し、安心して生活が送れるかどうか、そこに薬局がどこまで寄与してくれるかどうかだ。それが叶えられる薬局をかかりつけにするだけのことだ。

 なぜ経営者は算定率を上げろ、としか言えないのだろうか。服薬指導加算の算定率だけが薬局のすべきことではないだろうに。それを求められているわけじゃないだろうに。
 なぜ薬局として社会の期待に応える活動をしようとか、より一層の信頼を得る活動をしよう、と言えないのだろうか。
 そんなことはきれいごとだ、理想すぎる、今年度の目先につきつけられたものを達成するにはそんなことは言ってられない、そういうことか?

 数字を求めることは、国民年金問題にあるように、容易に不正を生む。発覚して大きなものを失う。算定率アップを求めることも、同様にあらぬ方向に進む可能性は多聞にある。算定率は結果だ。薬局や薬剤師の使命や責務を果たそう、と言い続けることが大切だ。算定率は薬局サービスのトータルが評価された、その結果にすぎないのだろう 
 
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