何かをすれば何かが変わる

すぐに結論なんて出なくていい、でも考え続ける。流され続けていくのではなくて。
そして行動を起こし、何かを生み出す。

なぜ、かくも卑屈にならなければならないのか

2009-08-07 22:28:17 | Book Reviews
「なぜ、かくも卑屈にならなければならないのか こんな患者-医療者関係でよいわけがない 野笛涼・著、へるす出版新書、2009年1月20日

 帯に「もう、患者さまとは呼びたくない」とあったのが、購入を後押しした。医療への不満に対し、単にある一人の医師が反論している・・・、そうではない雰囲気をそこに感じた。医者の苦しさや見えないところでの頑張りをわかってくれよ・・・、そんな愚痴でもない。

 小気味良い文章に、おそらく多忙であろう中、医療の凝りを見つけて放置することなく考察する・・・、多くの者が感じながらも、それに向き合って来なかったところへ切り込んでいく。読者には爽快感を与えていたのではないだろうか。

 と過去形にしたのは、なんと著者は既に2年ほど前に他界されているというのだ。驚いた。やがて“続編”が出るのではないかと思っていた自分があまりにも脳天気だった。

 ショックだった。それだけに、いい本に巡り合えて、自分は幸せだと思った。読み返すと、後半の話題は、自らの体調を多聞に意識していたようである。しかし、文字にはそれを微塵も感じさせない。


p.79 司法もこの類であろうと勘ぐっている。彼らは将来、患者になることはあっても医療従事者になることはない。患者側の人間が患者対医療者を裁くのである。フェアなわけがない。

p.91 我々(医療者)は、患者が帰ってゆく時、もう二度と彼ら・彼女らと病院で会わないことが最大かつ最高の目標となっているのである。
 客に、来るんじゃないよ、と言う客商売はない。

p.108 実は、「接遇」問題を追求するのは楽なのだ。
 それに比べて、最新の医療の知識や看護技術を学び、習得することは労力が要る。キツイのだ。我々は、楽な道だけを選んでいないか? 接遇の大前提としての最高水準の医療を身につけることの努力に目をつぶっていないか?

p.132 医学生に対する教育は診断学が主体で、治療学に割く時間が少ないから卒後すぐに役に立つ医者ができないのだ、という批判を耳にすることがあるが、これは的外れな話で、診断学は、それだけ時間をかけてもまだ足りないくらい知識(と経験)が要求される分野なのである。

p.177 医療や医療者に完全性を要求することは、場合によってはネガティブなプレッシャー(よい結果を生まない抑圧)になることを意識してほしい。

p.183 劣悪なる労働条件下でも、この職を選んでこの職にあることを我々は誇りに思っている。それが耐える力になっている。

p.184-5 医療は神聖なものである。もっと具体的な言い方にすれば、患者の命や身体は何ものにも替え難い大切なものであり、それを病気から守り病気を克服していく自分の仕事は大切な仕事である。もしかしたら自分より大切である。

p.188 私は、一緒に仕事をしている同僚はドクターであれノン・ドクターであれ、なるべく共通の基盤に立って、医療を行い情報を共有化してチーム医療をしたいと思っている。だからナースにも勉強することを要求する。で、当然、勉強しないナースは嫌いである。

p.198 物事を見たり理解したりするには、具体的に詳細に部分部分を見ていくことも必要だし、大まかに全体像をつかみとることも大切なのだ。この二つの極の間を何度も行ったり来たりすることで、よいものの見方とか深い洞察ができる。

p.203-4 食事が全く摂れて嬉しそうだった、トイレまで歩行ができて笑顔が見られた、(カルテに)そういった記載はされなくなった。数字にならないからである。それよりもCRPが大切だし、「科学的」だし、何しろカルテは患者側からもアクセスされる公文書である、私情を交えていけない。患者の笑顔など、計量できなくて評価もできないものは瑣末で取るに足らぬことなのである。
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする