「未曾有と想定外 東日本大震災に学ぶ」 畑村洋太郎・著、講談社現代新書2117、2011年7月20日
p.15 未曾有という言葉は「個人的に未体験」という意味で使うような言葉ではありません。それこそ「歴史上いまだかつてない」というような意味で使う言葉です。
p.17 自然ほど伝統に忠実なものはない
p.25 そもそも津波は「波」ではありません。河田惠昭関西大学教授の『津波災害』(岩波新書、2010年)にも、津波は「『高い波』という表現より、『速い流れ』と考えた方が正しい」と書かれています。
p.31 今回は「対抗する」という考え方で行われたものの多くは打ち破られていることが確認できました。それは実際にやってきた津波が、対抗策が想定していたよりはるかに巨大だったからにほかなりません。その一方で、「備える」という考え方に従い、津波警報が発せられたときにすぐに逃げた人は、ほとんどの人が助かっています。そのことは避難所にいた人たちも口を揃えていっていました。
p.36 「リスク・ホメオスタシス理論」 安全になったゆえに高まるリスクがあるという考え方
どんなに進歩した安全装置を自動車に装備しても、またどんなに道路を改良して交通違反の取り締まりを強化しても「事故率は変わらない」といいます。それは技術の進歩の方向がおかしいとか、安全対策がうまくないということではなく、安全になったために生じる新たな危険というものがあるからです。 #RM
p.72-3 私はここで「防潮堤は必要ない」といった暴論を主張するつもりはありません。それどころか津波対策には、防潮提は不可欠であると考えています。私がいいたいのは、防潮提にすべて依存するような考え方をやめなければいけない、ということです。防潮提の意味合いを見直し、完璧に水の浸入をふせぐためのものではなく、水の勢いを弱めたり、避難のための時間を稼ぐために利用する、という発送で津波対策を見直さなければならないといっているのです。
p.77 完璧な「防災」は不可能でも、致命的な被害にはいたらない「減災」は可能です。これからの対策が目指す道はそこだと思います。 #RM
p.77 完全な高所移転は、今回も実現しないと私は見ています。当初は実現しますが、局所的か、一時的なものになるでしょう。欲得や便利さを求める気持ちが、恐れの気持ちに勝るということは、どの時代のどの場所でも起こっています。これは別にいいとか悪いとかいった問題ではありません。もともと人間はそういう性質を持っているので、判断の方向が最後はどうしてもそちらに流れてしまいがちになるのです。
p.88 彼ら(原子力に携わっている人たち)はこの事故のことを述べるときに「想定内」という言葉をよく使っていましたが、これは津波の話の冒頭に触れた「未曾有」とまったく同じです。曖昧さの中に、物事の本質を隠してしまう危険性のある言葉なのです。
p.91 それは「原子力の専門家」といわれている人たちにもいえます。もともと社会が彼らに期待していたのは、今回のような事故を想定することです。想定するのが専門家の責務だったのです。
p.92 社会がもともと東電に期待していたのは、国の基準をただ守ればいいというものではありませんでした。たとえ規制や基準が及ばない問題が起こったときでも、きちんと対処をして原発を安全に運営することだったのです。 #RM
p.96-7 想定外の事態に対応できるのは、日頃から想定の訓練をしている人だけです。想定内のことだけを考えてきた人には、とうてい対処はできません。
もちろん「基準や規則、マニュアルに従っているからいいんだ」という態度でいたら、想定外のことが起こったときにきちんと対応できる能力は身につくはずもありません。
p.100 昨今「コンプライアンス」という言葉がよく聞かれますが、じつは「社会の要求に柔軟に対応する」というのが本来の意味です。ところが日本ではなぜか「コンプライアンス」が法令順守と訳されています。私はこれを“意図的誤訳”だと思っています。
本来、社会が企業に要求していることは、「法令さえ守っていればいい」ということではないのです。
p.102 私は「マニュアルは悪だ」といっているのではありません。マニュアルは作業や製品、サービスなどの質を一定以上のレベルにするのに欠かせないものであると考えています。私がいっているのは、そのマニュアルに極端に依存している状態が危険だということです。それは想定していることにまじめに取り組む一方で、想定外のことは一切考えなくなるので、実際に想定外の問題が起こったときになにもできなくなってしまうからです。 #RM
p.102-3 環境・条件はいつも変化しています。マニュアルをつねに柔軟につくり直すくらいのつもりでいないと、その変化に対応できません。しかし与えられたマニュアルを守ることしか頭にない人には「マニュアルを変える」という発想がありません。そのため想定している中身が実態に合っていなくても従来どおりのやり方が続けられ、大きなトラブルや事故に発展するのです。
こういう問題が起こる背景には、やはり人間の性質があります。それは「忘れっぽさ」によく似たもので、「見たくないものは見えない」「聞きたくないことは聞こえない」「考えたくないことは考えない」というものです。
p.104 これは先ほどの「聞きたくないことは聞こえない」とは正反対の「聞きたいことが聞こえる」という例です。機長がミスをしたのは集中を欠いていたからではなく、むしろ集中しすぎていたことが原因だと思われます。「このタイミングで飛ばないと出発が遅れて乗客に多大な迷惑をかけることになる」というプレッシャーを感じる中で、自分にとって都合のいい方向へと判断が来るってしまったのです。
p.105 大事故というのは、機長のミスに、なぜか副操縦士も管制官も気がつかずに事態が進行することによって起こります。だからこそ大事故を防ぐには、こういう人間の性質に起因する小さな失敗の情報にもあえて注目することが大切だと私は考えています。
p.113 今回のような大きな事故のケースでは、事故の種になるような複数の要因が、現場の個人、ルール、経営、風土、文化など、いくつかの層にわたって存在しています。そうした要因が複雑に絡んで事故が起こるのです。こうした事故を組織事故といいます。
p.116 どんなシステムでもそうですが、このようにふつうは多重の防護によって、トラブルは起きません。ところが運悪く、たまたまこの多重防護が機能しないことが稀にあるのです。こうしたことはバックアップ機能が弱い組織で起こりがちですが、これは必ずしも個人の努力とは比例しません。一人ひとりは与条件、すなわち与えられた想定内(考えの枠内)で活動を行っているからです。
p.118 しかも周りには「なにがなんでも反対」と主張する原発反対派がいたので、「共通の敵」と「共通の利益」によって共同体の結びつきはどんどん強固になっていきました。共同体の利益にならないことをすると、たとえメンバーであっても、たちまち「村八分」になるような、そんな雰囲気さえあったようです。
そして「絶対安全」というおかしな考え方は、この中でつくられていきました。その中では想定していることと現実にギャップがあることがわかったとしても、簡単に想定を変えることが許されない雰囲気があったと推察されます。
私は、原子力村の中の人間でも、「このままでは本当は危ないんじゃないか」と思った人もいただろうと思います。しかし結局そういった人が声をあげることはなかったのではないでしょうか。もしくは黙殺されたのかもしれません。彼らから見ると、危ないという声をあげること自体、原発反対派を利することになり、村の利益に反することになるからです。こうなってくると、危ないことを想定して、いろいろ準備することさえできなくなります。
p.133 想定というのは、環境の変化だけでなく、視点を変えるだけでも簡単に変わります。想定が変化してもなお安全なものにするには、「ここまでやったからもういい」とするのではなく、終わりのない努力を続けなければならないのです。
p.141-2 もともと原発には「本質安全」の思想が決定的に欠けていました。本質安全というのは、仮に事故やトラブルが起こるようなことがあっても、あらかじめ機械の働きをどんなときでも安全の側に向かうようにしておくことで安全を担保するという考え方です。
p.142-3 制御安全というのは、機械やシステムがおかしな動きをしないようにセンサーで監視し、あらかじめ設定してある閾値を超えた場合に危険を回避するための行動をするように指示する仕組みをいいます。
制御技術に支えられている制御安全そのものは、もちろん悪でもなんでもありません。事故やトラブルを回避するためには、制御技術のようなものは不可欠です。問題なのは、それを「絶対的なもの」と過信して扱っていることです。このような態度でいるかぎり、社会の中に潜んでいる危険を排除することはできません。
p.189 自然は人間にとっていいことと悪いことの両方を与えてくれます。それがいいことだったら恩恵、悪いことだったら災害です。残念ですが、恩恵だけを受け取るのは無理なのです。だから、災害はうまく「すかす」しかありません。
p.15 未曾有という言葉は「個人的に未体験」という意味で使うような言葉ではありません。それこそ「歴史上いまだかつてない」というような意味で使う言葉です。
p.17 自然ほど伝統に忠実なものはない
p.25 そもそも津波は「波」ではありません。河田惠昭関西大学教授の『津波災害』(岩波新書、2010年)にも、津波は「『高い波』という表現より、『速い流れ』と考えた方が正しい」と書かれています。
p.31 今回は「対抗する」という考え方で行われたものの多くは打ち破られていることが確認できました。それは実際にやってきた津波が、対抗策が想定していたよりはるかに巨大だったからにほかなりません。その一方で、「備える」という考え方に従い、津波警報が発せられたときにすぐに逃げた人は、ほとんどの人が助かっています。そのことは避難所にいた人たちも口を揃えていっていました。
p.36 「リスク・ホメオスタシス理論」 安全になったゆえに高まるリスクがあるという考え方
どんなに進歩した安全装置を自動車に装備しても、またどんなに道路を改良して交通違反の取り締まりを強化しても「事故率は変わらない」といいます。それは技術の進歩の方向がおかしいとか、安全対策がうまくないということではなく、安全になったために生じる新たな危険というものがあるからです。 #RM
p.72-3 私はここで「防潮堤は必要ない」といった暴論を主張するつもりはありません。それどころか津波対策には、防潮提は不可欠であると考えています。私がいいたいのは、防潮提にすべて依存するような考え方をやめなければいけない、ということです。防潮提の意味合いを見直し、完璧に水の浸入をふせぐためのものではなく、水の勢いを弱めたり、避難のための時間を稼ぐために利用する、という発送で津波対策を見直さなければならないといっているのです。
p.77 完璧な「防災」は不可能でも、致命的な被害にはいたらない「減災」は可能です。これからの対策が目指す道はそこだと思います。 #RM
p.77 完全な高所移転は、今回も実現しないと私は見ています。当初は実現しますが、局所的か、一時的なものになるでしょう。欲得や便利さを求める気持ちが、恐れの気持ちに勝るということは、どの時代のどの場所でも起こっています。これは別にいいとか悪いとかいった問題ではありません。もともと人間はそういう性質を持っているので、判断の方向が最後はどうしてもそちらに流れてしまいがちになるのです。
p.88 彼ら(原子力に携わっている人たち)はこの事故のことを述べるときに「想定内」という言葉をよく使っていましたが、これは津波の話の冒頭に触れた「未曾有」とまったく同じです。曖昧さの中に、物事の本質を隠してしまう危険性のある言葉なのです。
p.91 それは「原子力の専門家」といわれている人たちにもいえます。もともと社会が彼らに期待していたのは、今回のような事故を想定することです。想定するのが専門家の責務だったのです。
p.92 社会がもともと東電に期待していたのは、国の基準をただ守ればいいというものではありませんでした。たとえ規制や基準が及ばない問題が起こったときでも、きちんと対処をして原発を安全に運営することだったのです。 #RM
p.96-7 想定外の事態に対応できるのは、日頃から想定の訓練をしている人だけです。想定内のことだけを考えてきた人には、とうてい対処はできません。
もちろん「基準や規則、マニュアルに従っているからいいんだ」という態度でいたら、想定外のことが起こったときにきちんと対応できる能力は身につくはずもありません。
p.100 昨今「コンプライアンス」という言葉がよく聞かれますが、じつは「社会の要求に柔軟に対応する」というのが本来の意味です。ところが日本ではなぜか「コンプライアンス」が法令順守と訳されています。私はこれを“意図的誤訳”だと思っています。
本来、社会が企業に要求していることは、「法令さえ守っていればいい」ということではないのです。
p.102 私は「マニュアルは悪だ」といっているのではありません。マニュアルは作業や製品、サービスなどの質を一定以上のレベルにするのに欠かせないものであると考えています。私がいっているのは、そのマニュアルに極端に依存している状態が危険だということです。それは想定していることにまじめに取り組む一方で、想定外のことは一切考えなくなるので、実際に想定外の問題が起こったときになにもできなくなってしまうからです。 #RM
p.102-3 環境・条件はいつも変化しています。マニュアルをつねに柔軟につくり直すくらいのつもりでいないと、その変化に対応できません。しかし与えられたマニュアルを守ることしか頭にない人には「マニュアルを変える」という発想がありません。そのため想定している中身が実態に合っていなくても従来どおりのやり方が続けられ、大きなトラブルや事故に発展するのです。
こういう問題が起こる背景には、やはり人間の性質があります。それは「忘れっぽさ」によく似たもので、「見たくないものは見えない」「聞きたくないことは聞こえない」「考えたくないことは考えない」というものです。
p.104 これは先ほどの「聞きたくないことは聞こえない」とは正反対の「聞きたいことが聞こえる」という例です。機長がミスをしたのは集中を欠いていたからではなく、むしろ集中しすぎていたことが原因だと思われます。「このタイミングで飛ばないと出発が遅れて乗客に多大な迷惑をかけることになる」というプレッシャーを感じる中で、自分にとって都合のいい方向へと判断が来るってしまったのです。
p.105 大事故というのは、機長のミスに、なぜか副操縦士も管制官も気がつかずに事態が進行することによって起こります。だからこそ大事故を防ぐには、こういう人間の性質に起因する小さな失敗の情報にもあえて注目することが大切だと私は考えています。
p.113 今回のような大きな事故のケースでは、事故の種になるような複数の要因が、現場の個人、ルール、経営、風土、文化など、いくつかの層にわたって存在しています。そうした要因が複雑に絡んで事故が起こるのです。こうした事故を組織事故といいます。
p.116 どんなシステムでもそうですが、このようにふつうは多重の防護によって、トラブルは起きません。ところが運悪く、たまたまこの多重防護が機能しないことが稀にあるのです。こうしたことはバックアップ機能が弱い組織で起こりがちですが、これは必ずしも個人の努力とは比例しません。一人ひとりは与条件、すなわち与えられた想定内(考えの枠内)で活動を行っているからです。
p.118 しかも周りには「なにがなんでも反対」と主張する原発反対派がいたので、「共通の敵」と「共通の利益」によって共同体の結びつきはどんどん強固になっていきました。共同体の利益にならないことをすると、たとえメンバーであっても、たちまち「村八分」になるような、そんな雰囲気さえあったようです。
そして「絶対安全」というおかしな考え方は、この中でつくられていきました。その中では想定していることと現実にギャップがあることがわかったとしても、簡単に想定を変えることが許されない雰囲気があったと推察されます。
私は、原子力村の中の人間でも、「このままでは本当は危ないんじゃないか」と思った人もいただろうと思います。しかし結局そういった人が声をあげることはなかったのではないでしょうか。もしくは黙殺されたのかもしれません。彼らから見ると、危ないという声をあげること自体、原発反対派を利することになり、村の利益に反することになるからです。こうなってくると、危ないことを想定して、いろいろ準備することさえできなくなります。
p.133 想定というのは、環境の変化だけでなく、視点を変えるだけでも簡単に変わります。想定が変化してもなお安全なものにするには、「ここまでやったからもういい」とするのではなく、終わりのない努力を続けなければならないのです。
p.141-2 もともと原発には「本質安全」の思想が決定的に欠けていました。本質安全というのは、仮に事故やトラブルが起こるようなことがあっても、あらかじめ機械の働きをどんなときでも安全の側に向かうようにしておくことで安全を担保するという考え方です。
p.142-3 制御安全というのは、機械やシステムがおかしな動きをしないようにセンサーで監視し、あらかじめ設定してある閾値を超えた場合に危険を回避するための行動をするように指示する仕組みをいいます。
制御技術に支えられている制御安全そのものは、もちろん悪でもなんでもありません。事故やトラブルを回避するためには、制御技術のようなものは不可欠です。問題なのは、それを「絶対的なもの」と過信して扱っていることです。このような態度でいるかぎり、社会の中に潜んでいる危険を排除することはできません。
p.189 自然は人間にとっていいことと悪いことの両方を与えてくれます。それがいいことだったら恩恵、悪いことだったら災害です。残念ですが、恩恵だけを受け取るのは無理なのです。だから、災害はうまく「すかす」しかありません。