まこの時間

毎日の生活の中の小さな癒しと、笑いを求めて。

夫婦の形

2017-09-04 | 暮らし

以前、弓道の女子会でお酒を飲んだ時、大柄な先輩が言った。「もう、この年になったら、指一本ふれんわ。」と、豪快に笑った。先輩夫婦は仲がいい。もう誰も勝てないと思う。長い間寄り添って生きてきて、男と女を越えた夫婦には神聖なものすら感じられる。

母が父を見舞う時、父はわがままを言う。わたしには飛び切りの笑顔を見せるが、母の前では不機嫌になる。これが夫婦なんだと思う。父と母の間には、娘でも太刀打ちできないものがある。

殿の最後の時も、一秒も病室を離れられなかった。わたしがいないと目で探しているのが分かると娘たちは言った。最後の一秒まで寄り添えるのは夫婦なのだ。そこには、好きだとか、愛しているとかいう言葉を超えた何かがある。

大恋愛の末結婚しても、40年も過ぎると、会話が少なくなって、綾小路きみまろではないが、「あれから30年・・・」と、言う状況になるのかもしれないが、それでも孫の前では、夫婦が同じ方向を向いて笑っている。例えば、子どもがいなくても、一緒に食事をして、元気でいることのしあわせを当たり前に感じている。当たり前に家にいることで、みんな少し油断している。

そういうことがあったなという思い出に感謝して、大切に生きていくのも役割かもしれない。ちょっと寂しい時、暗い歌が心地よいのだそうだ。そして、暗い歌を知っている人は優しい。心が少し病んでいる人は愛おしい。寂しい人のそばにいたいと思う。わたしと姑が仲がいいのは、そういうことかもしれない。


後出しジャンケン

2017-09-02 | 暮らし

「後出し 勝ちじゃん じゃんけんぽん。」

「後出し 負けじゃん じゃんけんぽん。」

普通のジャンケンではなく、先に出した人に対して後出しして、指示通りにだすのである。孫たちに教わった。反射神経が問われるのである。

寝たきりの父を見舞いに行き、後出しジャンケンを教えて、ゆっくりやってみると、ちゃんと反応するのである。話を一生懸命しようとする。ジャンケンがうまくいくと「凄い!!」と、言うと、お腹をふるわせるほど、顔もくしゃくしゃにして笑う。

しかし、今日は寝ていて、肩をとんとんたたいても、少し口を開けていて意識があるようでない。弱っていく姿を見るのがつらい。

母を実家まで送ってお茶を飲みながら、しみじみ話した。寝たきりになって意識がはっきりしていることのほうが辛いのではないか、まどろんでいるような状態の方が、本人は幸せなのではなかろうかと。母は「もう、よう頑張ったし、お迎えが来てもいいと思うわ・・」と、言う。

宗教が本当に必要なのは、死んであの世に行った時ではなく、このまどろんでいる状態にお釈迦様が見えるか見えないか、それを見守るわたしたちに、それを信じることができるかどうかなのだと思うと泣けてきた。

大切な人を、徐々に失っていく時の辛さを、また体験しなくてはならない。ここは母を守ってもうひと踏ん張りしなくてはならない。わたしの強みは元気であること。西方浄土に殿と爺ちゃんがいることをわたしは本当に信じてはいない。もし、信じてしまったら、早くそこへ行きたいと思ってしまうからだ。まだまだやらなくてはならないことがある。

 

 

 

 


サイレントピリオド

2017-09-02 | 弓道

山中の道場へ行って先輩とT君と、ビクについての検証をした。わたしもT君も、今一つ肘が浮いているような感じがする。似ているというので、お互いを検証する。しっかり肘を収めなくてはならないが、それが出来ないために縮んでしまう。あるいは、上半身に力が入っている。

サイレントピリオドかもしれない。Y先生がいう。

筋肉の生理的反応で、伸張反射であるという。どういうことかというと、一瞬脱力してその直後に筋肉が収縮するという。要するに、引いている力から、離れに移行するときに、筋肉がゼロの状態になると、持っていかれてビクが来る?

ゴルフや、野球のパフォーマンスが高い選手に「サイレントピリオド」が、起こっているという。そういう説明となると、少し違う気がする。ビクがくると力が抜けて離れが出ることがある。でも、なんか違うなあ。

どちらかというと、イップスのような心理的現象ではなかろうか。緊張過剰によってスムーズな動きができなくなるという。

どちらにしろ、若い時にはなかったので悩むのである。T君はわたしよりずっと若いので、年のせいではない。パソコンに向かって悩んでいる暇があったら稽古、稽古。