Straphangers’ Room2022

旧Straphangers' Eyeや習志野原の掲示板の管理人の書きなぐりです

やはり下がるボーダーライン

2012-06-28 22:35:00 | 時事
生活保護を巡る問題は、やはりこうなるわけです。
25日の産経が「スクープ」と称して東大阪市職員の親族約30人が生活保護を受けていた、と報じ、平均年収700万円台で扶養義務を果たさないのはケシカラン、と噛み付きました。

こういうときだけ「日本人の美徳」を持ち出すいやらしさもさることながら、お笑い倹lだとパンチ不足と見るや、世間の賛同を得やすいお得意の公務員叩きを絡めて来ました。
そして年収700万円台でケシカラン、ときたわけで、あとはどんどんハードルが下がるんでしょうね。そして扶養義務者は不動産どころか動産もどんどん処分して限界まで支援しろ、となるのは時間の問題です。

前にも書きましたし、世間でも一部の評論では気付いていますが、今回の「ナマメv叩きに酔いしれて扶養義務の強化を受け入れることでどうなるか。
ちょうど自分たちが一番余裕がなくなる中高年の時期に老親の「扶養義務」が圧し鰍ゥってくる、「ナマヮ梃タ爆弾」が炸裂するのです。

平均年収700万円台のくせに、という批判があるでしょうが、ではその収支はどうなっているのか。金融資産が世界一、と言いながら、負債側に多額の住宅ローンがあったりするわけで、年収700万円台にしても、そこから教育費やローンの返済など一番余裕がない世代の話です。

民間の平均はもっと低い、と言う批判もあるでしょうが、低いほうに合わせてどうする、と言う部分です。所得が低い場合、持ち家は無理ですし、子供に高等教育を受けさせる選択肢も狭まります。所得が多いからこそ可能な選択肢を「ぜいたく」として、扶養義務を優先させると言うことは、それこそ今回の問題にご執心の議員や、安月給とはいえ世間比で見れば高給のメディアは関係ないけど、本来国の根幹となるべき中流層をどんどん下流に叩き込むことになるわけで、二極分化が加速します。余談ですが、まさか産経の従業員の身内に生活保護受給者はいませんよね。それくらい「襟を正して」論じるべき論点です。

こういうと批判を受けるのは覚悟の上で書きますが、年収がそれなりにある人は、それに見合う生活と言うものがあります。もちろん清貧を貫く奇特な人もいますが、家を買い、子供にその能力を最大限に伸ばす高等教育を受けさせることが「平均」ということです。その「平均」の生活は、年収に見合う支出と負債から成立しており、年収だけで「余裕がある」と談じることは無意味であり有害です。

低所得だと持ち家などの資産はそもそも持てませんからローンはありません。賃貸の費用は「家賃並みのローン支払いで買えます」と勧誘するくらいですから通常はローンより軽いですし。
また高等教育と所得に明確な相関があるというデータがあるように、子供の教育にも金をかけないので、見鰍ッの金回りはいい、だから扶養義務も果たせると言う見方も出来ます。

年収700万台でありながら、年収400万円台クラスの生活に切り詰めれば扶養義務も果たせるでしょうが、それぞれのステータスに見合わない生活を持ち出されても困ります。足下の議論はまさにそうやってレベルを下げれば出来るだろ、と言う議論です。

ちなみにローンの元利支払が年150万として(月あたり10万円台前半が平均的な数字です)、私立に通わせるとなんだかんだで年間100万円くらいは軽くかかります。子供1人でそれだけで250万円、2人いれば350万円。この数字は額面ではなく手取り収入から消えていく数字です。年収額面が700万円台なら手取りは550万円強といったところでしょう。

この時点で残額200万円台で、生活費その他一切を賄います。「私は月の食費が1万円で出来るから余裕綽々じゃないですか」という特殊なケースで批判する人が必ず出てきますが、そんな話を相手にする暇はありません。費目には食費の他水道光熱費に被服費もありますし、持ち家なら固定資産税など租税公課もありますし、一切の娯楽も出来ないような生活はありえません。

批判するのなら、きちんとこうした収支を考えているのか。それが見えない批判が罷り通り、どんどんボーダーが下がってきていることは非常に危険です。
東大阪市に続き堺市でも「発覚」していますが、これが公務員だけではなく「正社員」ならケシカランとなるのも時間の問題になった感じです。

そもそも受給者のほうは、本人とは別の生計で社会保障の原資として安くない税金を納めているのです。いざと言う時に保障を受ける権利は当然あるのに、なぜかそこに「扶養義務」と称して出し渋り、一族連座で貧乏にする国の制度が正しいのか。次代を担う子供を作らず、親が早死にしたら勝ち組という社会ですよ。

「アリとキリギリス」じゃないですが、キリギリスが永遠の勝ち組になり、アリのように齷齪と働くことが無意味になりますし、中途半端に収入が増えても暮らしの向上に回せず扶養義務が課される、というのなら、それこそ働くより生活保護のほうがマシ、という風潮と相似形になります。

今回の記事は「日本人の美徳」を謳いながら、中流層という日本の社会の根幹を破壊するベクトルを持つ悪質さを持っているといえます。


近鉄ナローは残すべきか

2012-06-22 01:36:00 | 交通
去る6月15日の朝日三重版は、近鉄のナロー線区である内部・八王子線の廃止問題に対応するために四日市市議会が存続策を検討する特別委員会の設置を決めたことを報じ、同線の廃止問題がにわかにクローズアップされました。

同線に対して四日市市は2011年度以降、車両更新費と駅整備費用の補助を決めており、車両更新も2013年度以降に実施される予定でした。

ところが近鉄がここにきて設備投資補助だけでなく、営業赤字への補助を求めてきたため、このままだと近鉄が事業廃止を持ち出しかねないと危機感を持ったと考えられます。

四日市市も何が何でも補助は出さないというわけではなく、設備投資については補助を出すことを決めていますが、営業赤字の補填となると性格が全然異なりますので、市も同線のあり方そのものから考える必要を感じたようです。


(近鉄四日市・2000年)

近鉄のナロー線区と言うと北勢線がありましたが、一足早く2003年に三岐鉄道に事業譲渡されいます。
三岐移管に伴い輸送人員、営業収入も好転したことは事実ですが、それでも赤字体質からの脱却は出来ず、累損が当初想定を上回る状態にあるなか、当初予定の10年間の期限を来春に控え、以降の経営形態について地元自治体との協議が続いています。

北勢線の時もそうでしたが、ナローと言う特殊な規格ゆえ中古車が無く、車両新造、更新のコストが割高であるため、結局車両の更新が縁の切れ目、というか、過去の経営主体は1回までは置き換えをしているが、2回目は出来ない、と言う状況です。
つまり、三重鉄道が電化時に投入した車両を近鉄が1回置き換えして終わった格好であり、北勢線は1970年代後半の置き換え車両を大規模更新し、内部・八王子線は1980年代前半の置き換え車両の置き換えとなる今般に存廃問題となったわけです。


(西日野・2000年)

車両の規格が小さく、北勢線では床置き式を設置して冷房化されましたが、近鉄では未だ非冷房という状況では鉄道として維持する必要性をまず検討すべきでしょう。
一方で近鉄の運営姿勢は相当杜撰と言うか、無人駅での集札等をほとんど行っていないので、相当な運賃徴収漏れがあることが想定され(北勢線が三岐に移管されたのち、輸送人員は近鉄時代に届かないのに、収入は大きく上回っていることもその証左でしょう)、こうした「基本」の徹底でまず対応すべきとも言えます。

北勢線の三岐移管で輸送人員や収入が好転したことから、鉄道での維持を訴える声が高いですが、県や地元自治体が20年間の赤字補助で20億円、設備投資で48億円を補助するほか、各種近代化工事に対するスキーム外の補助を含めると、国費も含めて100億円程度が投入されています。

営業赤字を出している状況ではこの投資効果は計算のしようが無いわけで、ここまでの「ドーピング」でも累損が積み上がる状況と言うのは、やはりモード選択が間違っていたとしか言えません。


(なんちゃってBRTの鹿島鉄道跡地。狭軌単線が転じた専用道はけっこう余裕)

バス転換ではなく鉄道を選んだことで、並行バスが縮小に追い込まれて、バスの利用者にとっての利便性を損ねる半面、鉄道は確かに便利になりましたが、累損の積み上げでは、誰も得をしていない状況です。


(専用道に連接バスを組み合わせれば...)

今回四日市市が営業赤字への補助に慎重なのも、あれだけやってもなお、という北勢線の「10年間」を見ているからでしょう。10年経って三岐鉄道が期間満了で退出するしないで自治体ともめていることも、累損が積み上がる状況で自治体が総ての責任とリスクを負うことが求められる危険性として認識されているのかもしれません。



融通返上が先でないのか

2012-06-22 00:23:00 | 時事
大飯原発の再稼働で節電目標が緩和されるそうですが、よく見ると大きな疑問があります。

関電管内が15%から10%に緩和とあり、やはり原発の影響は大きい、と思いきや、中部電、北陸電、中国電も「緩和」されています。
要は関電への融通に備えた節電目標が「緩和」されるのですが、それぞれ5%の目標が4%(中国電は3%)に「緩和」というのはどういうことでしょうか。

なんで本来足りている3電力管内の節電目標を残したまま関電管内を緩和するのか。
大飯再稼働による電源確保分はまず3電力管内の節電目標の解除に充てるべきでしょう。融通規模から見ても、大飯再稼働分の「枠」は関電管内に多く割り当てられており、よそにお願いしている枠を返さずに自分たちに多めに、と言うのは筋が通りません。

関電管内にもメリットが無いと再稼働の理解が得られない、と言うつもりかもしれませんが、15%の目標ですらビビった関西の首長は、それ以前の問題として3電力管内に本来必要でない節電を強いて電気を融通してもらってようやく15%に留めている、という基本的事項を忘れたのでしょうか。

自分達の節電目標を下げるよりも先に、3電力管内に対する「借入」を返済する、と言う当然の義務が見えていないのでは困ります。

ジャーナル2012年7月号

2012-06-20 23:12:00 | 書評
ほぼ月遅れですが、ジャーナル7月号です。

特集は先月に続いてJR25周年ですが、それを夜行列車の変遷から振り返るという仕立てです。もともとジャーナルはこの時期か10月号に夜行列車特集を打つことが多かったので、その変形とも言えます。

ただこのご時勢、夜行列車自体が絶滅危惧種だけに一歩間違えると企画唐黷ニなるわけですし、特集を打つたびに同じ面々、という状態になっています。
結局「北斗星」「あけぼの」「きたぐに」と、「ブルー」トレインとして最後に残った2列車を豪華に使い、あとは3月改正で臨時化されたものをフォローと言う内容です。

「北斗星」はロイヤル試乗ですが、四半世紀近く経つとさすがに疲れが見える、と言う趣獅ェ貫かれた感じですが、函館車掌区の昔話を見ると、結局はサービスの出し手が乗客のツボにはまったサービスを出せるかどうかであり、その工夫を常に怠らないで来れたか、と言う結果が今日の状況と言えます。
アコモにしても、「2段ハネ」や「シンデラ」に比べればロイヤルは破格でしたが、シャワー、トイレ付と言っても狭いシャワー室に引き出し式のトイレでは湯気と雫の残るところで用を足す気にもならない代物で、ならばホテルのパブリックスペースクラスのしっかりした共用トイレのほうがマシで、どうもズレが目立ちます。


(ロイヤル車内・1989年の乗車時)

グランシャリオにしてもそう。登場当時は「皆様の日本食堂」による在り来たりの食堂車とかけ離れたサービスが確かに話題を呼びましたが、「食堂車」そのものがこうした「豪華列車」しかない状況になれば、市中のレストランとの比較にならざるを得ず、そうなるとこのレベルで7000円も取ると言うのが信じられない、となるわけです。

今日びこのレベルのディナーがいくらで食べられるか。「豪華列車」を謳えば謳うほど舌の肥えた客層が集まると言うのに、中途半端な状態をダラダラ続けているといえます。
ルモナは何とか褒めていますが、さすがに朝食の1600円は疑問を呈しているとはいえ、誌面に出ているメニューを見ると、これでこの値段はひどいです。

特に和食がひどく、ディナーの揚物に見え隠れするビニール袋入りの調味料らしきものは何か。天つゆくらい別容器で出せないのか。向付も貧相で、箱膳に座る八寸の蟹味噌の料理のほうが立派です。
朝食は論外で、プレートではなく和食器を使うといっても、中皿盛り込みでは興醒めですし、内容も安い旅館のレベル。さらにパックのわさび漬けというのは1600円の料理として冗談にも程があります。

要は厨房で手を鰍ッられない、ということでしょう。狭い車内ですからやむを得ない部分があるのはわかりますが、それでも黄金時代の食堂車と比べたら「手抜き」以外の表現が思いつきませんし、「豪華列車」に期待する客層には完全にそこの浅さを見透かされるレベルです。だいたい、これなら最近のNREの弁当のほうが気が利いています。

「北斗星」でこのほか気になったのは、EF510に置き換わる前のEF81について、JREのそれは確かに40年選手でしたが、EF81自体はJR発足後の増備グループがおり、1989~1991年が最終増備です。

「あけぼの」は、今月から始まった「日本縦断ローカル線」の筆者の手によるものですが、両方ともチープな文学表現に辟易します。あれこれ凝った表現を使って、鉄道に詳しくない人が乗ってみた、と言う雰囲気を出そうとしていますが、その割に座学で書いたデータが散りばめられるのは興醒めですし、携帯のGPS云々にこだわるように、内向きの感情がこもった印象も受けます。

「きたぐに」は臨時化されてGWの運転時の状況ですが、全車寝台化で、北陸や新潟県上越地方の利用を半ばオミットするなど、不便にして「ご利用が少なく...」を狙っていることがありありと言う状況です。
ふらっと乗れる需要はバスで十分、と結論付けていますが、「きたぐに」の価値をどこに見出すかとなると、それは座席車の連結であり、特に上りの対大阪、対関空の利用を切り捨てた影響はどう出るのか。関西の地盤沈下が一因と言うのは的を射てますが。


(定期時代の「きたぐに」・2007年12月)

総括記事は2008年の再録編集と言うのはドッチラケです。
1年365日満遍なく利用率がよくなければ存在価値はない、という高いハードルを夜行列車に対して殊更に課す傾向がありますが、ややもするとダブルスタンダードともいえる評価は、「儲からない」ではなく「儲けが薄い」列車を切り捨てることを後押ししてきたわけです。

JR25周年を振り返り、夜行需要は減少の一歩で、というのであれば、ツアーバスの急成長に代表されるように、夜行利用の総需要が伸びてきたことはどう説明するのか。首都圏♀ヨ西圏で見たら、JR発足からの20年で路線の高速バスだけで便数で20倍になっているなど(昼特急を除けば17倍程度)、需要の減少と片付けることは失当でしょう。
1970年代後半から編集部の取材時にビジネス需要が見られないことが、というくだりも、ビジネス需要が乗りづらい列車(東京発夕刻の九州特急など)を殊更に選んでいたわけで、利用しづらい列車を見て「利用が少なく...」では鉄道会社の安楽死政策と変わりません。

特集以外では国鉄車両の解説として115系の記事。103系で味噌を付けた格好ですが、今回もどうなんでしょうね。広島地区への投入はセノハチの制約があることは明白ですが、それまでは優等列車こそ181系や165系での対応がありましたが、115系で置き換えるべき対象は80系、153系であり、出来る出来ないと言うよりも、運転扱いを容易にする流れと言えます。
また、300番台の説明で、113系0番台と違い新番台を付与した理由がほしいですし、特徴としてはユニット窓化ということがありますが書かれていません。

類似の記事として中央東線の山スカのグラフ記事。東海道線から転出した211系による115系淘汰を推測していますが、確か幕張から捻出される211系が山スカを置き換えるという話のはずで、そこはどうなのか。


(原形を残す山スカ編成・2010年)

最後に、このところ「副菜」が弱いとぼやいているわけですが、今月は「本格焼酎紀行」の寸評をして見ましょう。
鹿児島中央駅のアンテナショップ?を取り上げていますが、飲み方を総て「前割」で、冷で出すか燗で出すか、ということです。前割はいいんですが、羽釜で燗を付けるのなら、なんで「(黒)千代香」で出さないのかな、と素朴な疑問です。
ディスプレイなど小道具に凝るのなら、まずはこれでしょうに。


不明瞭な改正法

2012-06-20 23:02:00 | 時事
改正著作権法は呆気なく参院も通過して成立しました。
しかしネットであれこれ見てもどうもはっきりしません。
文科省の法案を説明するサイトでも、条文そのものを見ても分からないのです。

法律ではCDもDVDも「レコード」の定義の範疇にあるということ。技術的保護手段の回避に関しては「記録又は送信の方式の変換に伴う技術的制約にいる除去又は改変」が適用除外となっているが、これが何を意味するのかがよくわからないこと。

これは改正前からこの表現ですが、であれば今回DVDが対象であってCDは対象にならない、とは言い切れません。一方で「再生」における記憶媒体の経由などの技術的問題はこれで適用除外になるかということもわかりませんから、再生の際にいわゆるリッピングを自動的に伴うケースの黒白が分からないのです。

しかも業法のように政令や主務官庁の省令に具体的内容を委任する規定もないことから、この漠然とした内容で黒白を決めるという、罰則を伴う法律としては「罪刑法定主義」の観点から見て信じられない状態と言えます。

今回の改正は音楽、映像業界(厳密には著作権管理業界)の意向が強く反映されていることは火を見るより明らかですが、改正案のようなあまりにも曖昧な規定では、一方当事者である「業界」が勝手な解釈を押し付けてしまう危険性が高いです。

そうではないといっても、「事件」になって裁判所の有権解釈を仰ぐまでは言い切れないわけですし、一般市民にとっては訴訟自体にリスクがあるわけで、そうなったら「業界」の思う壺です。
そうならないためにも、主務官庁がきちんとガイドラインを発信すべきです。

そもそも今回の件は、立法府に伝手のある一方当事者が「ごり押し」した側面が強い上に、審議する立法府にこの分野に関する知識が決定的に欠けているという面があります。
ただし知識の欠如については、馴染みがないという理由で片付けて済むものではなく、単なる「勉強不足」と指弾すべき話です。


さて、本件で一番悩ましいのがレンタルCDを巡る問題でしょう。
レンタルレコードが世に出て以来、「業界」の不倶戴天の敵といえる業種ですが、1980年の第1号以来既に32年も経ち、社会に定着したビジネスモデルであり、著作権における「貸与権」の概念を生み出し、「業界」もそれに基づく権利金を徴収することで「共存」しています。

しかしそこには32年間グレーゾーンとなっている部分があるわけです。
つまり、借りたレコード、CDからの「録音」です。
この部分はもともと著作権法の私的複製の規定に従う部分でありますが、貸与権によるレンタルの事実上の合法化により、「借りてきて複製する」という一連の行為が「合法」になったわけで、これによりレンタル料金+テープ代でレコード、CDが入手できることになりました。

これもテープへのダビングが必然的に質の劣化を伴ううちはよかったのですが、デジタル機器の普及で、事実上「コピー」になると「業界」も黙ってはいられないようです。
しかしCCCDなる「新兵器」もユーザー、そして機器メーカーからのダメ出しで事実上の撤退を余儀なくされるなど、有効な手立てを打てないまま今日に至ったわけで、今回の改正を機に巻き返しに出る可能性が指摘できます。

このあたり、「合法」としましたが、「合わせ技一本」に見える反面、「定価」で購入せずに事実上入手できるスキームを正面切って合法とも言いづらいわけで、パチンコのいわゆる「3店方式」で貸し玉の換金が事実上出来ている状況や、あくまで女性従業員がいる「風呂」であり、そこで何をやっているかは関知しない、と言う建前のソープランドのような存在とも言えます。

そういう意味では、摘発がその筋の匙加減といえる上記の事例のように、今回の法改正も網羅的に立件することが事実上不可能なことから、恣意的運用が懸念されているだけに、どうなるのか。
このビジネスモデルは「私的複製」と不可分であり、そのあたりが視聴するだけで返却することも多いDVDとの差異と言えますが、恣意的運用に伴う摘発リスクが存在するとなったら、社会を揺るがすと言ったら大袈裟ですが、影響が大きすぎます。

少なくとも「業界」はレンタルはおろか、購入したソフトに対する私的複製すら認めないと言うスタンスを見せているわけです。1つの機器に1つのCDを、と言ってのける「業界」の「大御所」がいるやに聞いていますし、そういう流れを突き詰めると、それこそ昔の「流し」のように音楽は1曲聞くごとに支払いを、という時代の発想ではないのか、と思うこともあります。

こうしたせめぎあいの中でグレーゾーンは運用に任せるような法律ではたまりません。レンタル店がパチンコ屋や風俗店のように「その筋」との関係を深めていくのか、という懸念もありますし、何よりもユーザーの萎縮も心配です。

携帯用機器への対応ならダウンロード販売で大丈夫とはいえ、同じ曲でも機器ごとに支払うことになるわけですし、いったん削除してしまったら同じ機器でも再び支払いが生じます。
そもそもダウンロード販売の音質への疑義があるわけで、これではレンタルをダビングしていた時代が劣化コピーだからOKとされていたことの意趣返しのように、そもそも劣化している商品を都度販売という、今度はユーザーにとって踏んだり蹴ったりの時代が来るのかもしれません。

もしそうなったら、音楽を聴くということに対するアプローチがコペルニクス的転換を遂げるわけですが、その際に音楽というものがこれまでのように身近なものであり続けるのか、大いに疑問です。