Straphangers’ Room2022

旧Straphangers' Eyeや習志野原の掲示板の管理人の書きなぐりです

桶屋も驚く司法の常識

2012-06-08 00:28:00 | 時事
前に「風が吹けば桶屋が儲かる」式の判決と指弾した、今治市の小学生が校庭から誤って蹴り出したボールのせいで転唐オたバイクを運転していた老人が、直接の怪我ではなく入院生活で痴呆症を発症し、誤嚥を起こして死亡した事件。
まさかの責任認定に呆れ果てたのですが、二審の大阪高裁が若干の過失相殺を認めたものの、一審を支持した判決を出しました。

前も書きましたが、なぜ今治の事件で大阪地裁の管轄なのか、という根本的な問題があるのですが、それにしても高裁までが「風が吹けば桶屋が儲かる」も真っ青なクモの糸のような因果関係を容認したのか。裁判員裁判の定着で明るみに出てきた「裁判官の常識は世間の非常識」の象徴のような事例と言えます。

いろいろな記録を見ても、老人の側に斟酌すべき事情や、小学生の側に大きな落ち度があるようには見えませんし、こうした「妙な」ケースでは往々にして囁かれる「裏事情」もないだけに、純粋な因果関係論や過失認定に根本的な問題がある、つまり、裁判所の側に問題があるとしか思えません。

あとは小学生の側の弁護士がよほど無能か、弁護士を付けずに裁判をしたか、といったところでしょうが、裁判記録を見る限り、常識的な主張と立証はしており、証拠がないので援用できない、という敗訴ではなく、裁判官の判断が総てと言えます。

行為があって結果があれば足りる、という行為論から、相当因果関係論になり、いままた客観的帰属論となって、「どの結果を行為に帰属させることが妥当か」という論理攻勢が主流のようですが、判例としてはどうも未だに行為論に拠ると思われる面があります。

刑法を勉強したことがある人だとお馴染みの判例で、加害者が被害者の目を蹴って傷害を負わせたところ、傷自体はたいしたことがなかったのに、被害者には脳梅毒の病変があり、脳の組織が崩壊して死に至った事例で傷害致死を認めたケースが1967年にありましたが、今回もそれに勝るとも劣らない、というか、複合的な因果を総てつないだと言う点では「画期的な」判決ともいえます。

上記の判例から言えることは、人の頭部を殴ったり蹴ったりして10日程度の怪我を負わせたら、外部からは窺い知る事の出来ない病変があって死に至り、過失致死を問われると言う想定を常にしないといけないわけですが、そもそもそれが社会通念上妥当かどうか。

世の中にはよく見るとこの手のトンデモ判例があるわけで、それを金科玉条のようにしている「業界」に対し、社会通念という視点からどう見直していくかも、司法の市民参加の大きな意義と言えます。

ちなみに今回の判決は、「加害者」に対しては社会通念上ありえないと断定していい結果予見性を総て認めた反面、「被害者」に対しては社会通念上十分に期待しうる結果予見性を排除しているという、著しく公平性を欠いたものといえます。

つまり、小学校の周辺ではボールはおろか子供だって飛び出してくる、という注意を払うのは「子供飛び出し注意」の看板や、「ボールを追って子供が飛び出してくる」という教習所や免許更新時などで繰り返される注意事項を例に挙げるまでもなく、免許を持って運転する人間には「義務」の範疇です。

この不自然なまでのダブルスタンダードが罷り通る判決と言うのはどういう論理構成なのか。
今回は二審までこのトンデモ理論を支持したのですが、以前福岡市であった酒酔い運転のクルマに追突されて海に転落して子供が犠牲になった事故でも、福岡地裁では酒に酔って10秒以上脇見をして運転しても危険運転ではない、と断定したわけで、司法が公平な法の運用をしているということを疑ってかかったほうがいいかもしれません。


「おしい!」名産品

2012-06-08 00:25:00 | ノンジャンル
広島県が展開している「おしい!広島県」のキャンペーン。
確かにインパクトはありますが、そこで売り込まずに「そうだよな...」と納得してしまいそうな「おしい!」県民性だけに、うまく売り込めるかどうか。

その一環で、先日三原市の一行が明石市に乗り込んで三原のタコを売り込んできたそうです。
明石といえばタコもタイも全国区ですが、明石海峡の急流育ちに対し、のんびりした瀬戸内のタコでどう立ち向かうのか、と思いきや、リップサービスでしょうが、互角の判定だったそうです。

三原のタコは昔から地元特産で、重工三原そばにある古浜橋などの漁港ではタコツボが所狭しと積まれており、神戸の淡路屋が売り出す遥か前から三原(糸崎)の浜吉は「たこめし」を名物駅弁として販売してきました。(明石もジェノバの桟橋からタコツボが並ぶのを見れます)

最近ではタコ入りもみじまんじゅうという際物も出てきていますが、やはりいくつかある専門店でいろいろなタコ料理を味わいたいですね。タコの刺身一つ取ってみても、新鮮なタコをいろいろな部位で違う味わいを体験できます。

でも知名度は格段の差があるわけで、私みたいな三原に縁がある人間だと、三原名物(名産)といえば例のクリームパンなんかよりも「タコ」と即答するのですが、そこが「おしい!」ところです。

さらに「おしい!」のが、震災で大きな被害を受けた南三陸町が実はタコの名産地。
「志津川タコ」のブランドで売り出しているわけですが、これがマダコ、水ダコと絶品で、皮肉にも震災で知名度が上がった「南三陸」ということもあり、三原にとっては高い壁となっています。

3箇所とも食べ比べていますが、「おしい!」ことに、南三陸が一番で、次いで地元贔屓もあって三原、タッチの差で明石という感じでした。


露に電力依存の亡国論

2012-06-08 00:22:00 | 時事
大飯原発を巡る再稼動問題も先送り名人の首相がようやく動いたことで大詰めの様相ですが、その陰でお願いする関西の自治体側が高飛車では地元がへそを曲げるのも当然でしょう。
自分たちが必要な時だけ動かしてリスクを負ってくれ、という発想自体が奇怪であり、既に批判を受けているように、原発は「冷やし中華始めました」的な稼動が可能だと思い込んでいる痛さとあわせて、事態をこじらせているのが誰なのかがどんどん明白になっています。
それと、地元に頭を下げるのと同時に、「停電テロ」と公人が言ってのけた件はどうするのでしょうね。相手が「テロ」ならもっと居丈高になっていいはずなのに、中途半端とはいえ下手に出ているということは、非はどちらにあるのか、ということです。

連携線でつながっているのに地元が首を縦に振らなければ再稼動できず、電気は来ない、という事態については、国益に属する事項を1自治体が自治体、集落レベルの感情で左右していいのか、と批判しましたが、今回はさすがに地元の肩を持ちますね。

しかし、こうしたやり取りを見ていると、エネルギーにおける消費地と生産地が違う「リスク」をもっと広い目で見て自覚する必要があると痛感します。
つまり、稼動と消費の意思決定が違う決定権者に属すると、相手を説得しないと自分の事情だけではどうにもならないのです。
それでも消費する側が購入しないと(生産側が送電しないと)収入が途絶えて困る、という互恵関係にあるのならいいのですが、それが構築出来ていなければ、一方的に生産側有利になります。

今回この話をしたのは、先週末の朝日が、ロシアの電力輸出を賞賛していたからです。
中国が極東地域のロシア領内で大規模電源開発を行い、黒龍江省などに輸入していると言う話ですが、ロシア極東は日本の輸入に秋波を送っているともありました。

原油に頼ることによる中東リスクをヘッジできる、と言っていますが、そもそも「電力」という貯蔵できない「製品」そのものを輸入することがどれだけ危険か。
送電線が張り巡らされているから止まらない、と信じているのかもしれませんが、国内だって電力会社の境界では何箇所かの開閉所で管理しているわけで、ましてや四方が海に囲まれている我が国の場合は、限定された海底ケーブル経由になるわけです。

こんな文字通り「スイッチ一つ」で止められるようなエネルギーに依存することがどれほど危険か。
中国のようにロシアと戦争も辞さないだけの覚悟と脅威があればロシアもヤンチャはしないでしょうが、そういう覚悟や脅威もないウクライナは天然ガスのパイプラインの元栓片手にしたロシアの外交に手玉に取られているのです。

生産地の福井県を説得しないと関西に電気が来ない、という状況に直面しながら、我が国の論理や法体系、政治統制が働かない他国に電力を依存すればいい、というのはどういうことか。
ロシアを説得しないと日本全国が停電する、いや、ロシアのいうことを聞かないと日本全国が停電する、という悲惨な状況は、中東リスクの比ではない重大なリスクであり、それを低リスクと広めるのは、まさに亡国の論といえます。