前に「風が吹けば桶屋が儲かる」式の判決と指弾した、今治市の小学生が校庭から誤って蹴り出したボールのせいで転唐オたバイクを運転していた老人が、直接の怪我ではなく入院生活で痴呆症を発症し、誤嚥を起こして死亡した事件。
まさかの責任認定に呆れ果てたのですが、二審の大阪高裁が若干の過失相殺を認めたものの、一審を支持した判決を出しました。
前も書きましたが、なぜ今治の事件で大阪地裁の管轄なのか、という根本的な問題があるのですが、それにしても高裁までが「風が吹けば桶屋が儲かる」も真っ青なクモの糸のような因果関係を容認したのか。裁判員裁判の定着で明るみに出てきた「裁判官の常識は世間の非常識」の象徴のような事例と言えます。
いろいろな記録を見ても、老人の側に斟酌すべき事情や、小学生の側に大きな落ち度があるようには見えませんし、こうした「妙な」ケースでは往々にして囁かれる「裏事情」もないだけに、純粋な因果関係論や過失認定に根本的な問題がある、つまり、裁判所の側に問題があるとしか思えません。
あとは小学生の側の弁護士がよほど無能か、弁護士を付けずに裁判をしたか、といったところでしょうが、裁判記録を見る限り、常識的な主張と立証はしており、証拠がないので援用できない、という敗訴ではなく、裁判官の判断が総てと言えます。
行為があって結果があれば足りる、という行為論から、相当因果関係論になり、いままた客観的帰属論となって、「どの結果を行為に帰属させることが妥当か」という論理攻勢が主流のようですが、判例としてはどうも未だに行為論に拠ると思われる面があります。
刑法を勉強したことがある人だとお馴染みの判例で、加害者が被害者の目を蹴って傷害を負わせたところ、傷自体はたいしたことがなかったのに、被害者には脳梅毒の病変があり、脳の組織が崩壊して死に至った事例で傷害致死を認めたケースが1967年にありましたが、今回もそれに勝るとも劣らない、というか、複合的な因果を総てつないだと言う点では「画期的な」判決ともいえます。
上記の判例から言えることは、人の頭部を殴ったり蹴ったりして10日程度の怪我を負わせたら、外部からは窺い知る事の出来ない病変があって死に至り、過失致死を問われると言う想定を常にしないといけないわけですが、そもそもそれが社会通念上妥当かどうか。
世の中にはよく見るとこの手のトンデモ判例があるわけで、それを金科玉条のようにしている「業界」に対し、社会通念という視点からどう見直していくかも、司法の市民参加の大きな意義と言えます。
ちなみに今回の判決は、「加害者」に対しては社会通念上ありえないと断定していい結果予見性を総て認めた反面、「被害者」に対しては社会通念上十分に期待しうる結果予見性を排除しているという、著しく公平性を欠いたものといえます。
つまり、小学校の周辺ではボールはおろか子供だって飛び出してくる、という注意を払うのは「子供飛び出し注意」の看板や、「ボールを追って子供が飛び出してくる」という教習所や免許更新時などで繰り返される注意事項を例に挙げるまでもなく、免許を持って運転する人間には「義務」の範疇です。
この不自然なまでのダブルスタンダードが罷り通る判決と言うのはどういう論理構成なのか。
今回は二審までこのトンデモ理論を支持したのですが、以前福岡市であった酒酔い運転のクルマに追突されて海に転落して子供が犠牲になった事故でも、福岡地裁では酒に酔って10秒以上脇見をして運転しても危険運転ではない、と断定したわけで、司法が公平な法の運用をしているということを疑ってかかったほうがいいかもしれません。
まさかの責任認定に呆れ果てたのですが、二審の大阪高裁が若干の過失相殺を認めたものの、一審を支持した判決を出しました。
前も書きましたが、なぜ今治の事件で大阪地裁の管轄なのか、という根本的な問題があるのですが、それにしても高裁までが「風が吹けば桶屋が儲かる」も真っ青なクモの糸のような因果関係を容認したのか。裁判員裁判の定着で明るみに出てきた「裁判官の常識は世間の非常識」の象徴のような事例と言えます。
いろいろな記録を見ても、老人の側に斟酌すべき事情や、小学生の側に大きな落ち度があるようには見えませんし、こうした「妙な」ケースでは往々にして囁かれる「裏事情」もないだけに、純粋な因果関係論や過失認定に根本的な問題がある、つまり、裁判所の側に問題があるとしか思えません。
あとは小学生の側の弁護士がよほど無能か、弁護士を付けずに裁判をしたか、といったところでしょうが、裁判記録を見る限り、常識的な主張と立証はしており、証拠がないので援用できない、という敗訴ではなく、裁判官の判断が総てと言えます。
行為があって結果があれば足りる、という行為論から、相当因果関係論になり、いままた客観的帰属論となって、「どの結果を行為に帰属させることが妥当か」という論理攻勢が主流のようですが、判例としてはどうも未だに行為論に拠ると思われる面があります。
刑法を勉強したことがある人だとお馴染みの判例で、加害者が被害者の目を蹴って傷害を負わせたところ、傷自体はたいしたことがなかったのに、被害者には脳梅毒の病変があり、脳の組織が崩壊して死に至った事例で傷害致死を認めたケースが1967年にありましたが、今回もそれに勝るとも劣らない、というか、複合的な因果を総てつないだと言う点では「画期的な」判決ともいえます。
上記の判例から言えることは、人の頭部を殴ったり蹴ったりして10日程度の怪我を負わせたら、外部からは窺い知る事の出来ない病変があって死に至り、過失致死を問われると言う想定を常にしないといけないわけですが、そもそもそれが社会通念上妥当かどうか。
世の中にはよく見るとこの手のトンデモ判例があるわけで、それを金科玉条のようにしている「業界」に対し、社会通念という視点からどう見直していくかも、司法の市民参加の大きな意義と言えます。
ちなみに今回の判決は、「加害者」に対しては社会通念上ありえないと断定していい結果予見性を総て認めた反面、「被害者」に対しては社会通念上十分に期待しうる結果予見性を排除しているという、著しく公平性を欠いたものといえます。
つまり、小学校の周辺ではボールはおろか子供だって飛び出してくる、という注意を払うのは「子供飛び出し注意」の看板や、「ボールを追って子供が飛び出してくる」という教習所や免許更新時などで繰り返される注意事項を例に挙げるまでもなく、免許を持って運転する人間には「義務」の範疇です。
この不自然なまでのダブルスタンダードが罷り通る判決と言うのはどういう論理構成なのか。
今回は二審までこのトンデモ理論を支持したのですが、以前福岡市であった酒酔い運転のクルマに追突されて海に転落して子供が犠牲になった事故でも、福岡地裁では酒に酔って10秒以上脇見をして運転しても危険運転ではない、と断定したわけで、司法が公平な法の運用をしているということを疑ってかかったほうがいいかもしれません。