Straphangers’ Room2022

旧Straphangers' Eyeや習志野原の掲示板の管理人の書きなぐりです

どの口で「逆コース」

2012-06-18 22:28:00 | 時事
大飯の再稼動が決まりましたが、反原発系のメディアなどの恨み節というか繰り言が連日紙面を飾っています。
誰もが問題が完璧に解決されているとは思っていないし、稼動しないリスクと災害のリスクを天秤にかけての苦渋の選択なのに、それすら受け入れられないようです。

特に朝日は連日1面に編集委員の「ご高説」を垂れ流しているわけですが、その骨子は「脱原発(依存)はどうなったのか」「災害対策が出来ていないじゃないか」というものです。
もっともらしく語ってはいますが、中長期的課題としての脱原発(依存)は目指すべきでも、そこまでのエネルギー確保として原発を慎重に動かさないといけない、それと今回の決定はなんら矛盾しませんし、現実に夏の計画停電が不可避となってようやく覚悟を決めたわけです。

ここまでの無駄な議論をする間があったら、原発は順次復帰します、と化石燃料需要が減ることをマーケットにアナウンスし、下がった調達コストで災害対策を賄えたわけですし、粛々と各種テストの段取りも決まったでしょうから、無駄な議論で何から何まで時間を空費したのです。

世論調査を見ても、「苦渋の選択」としての容認のほうが多いわけで、ならばその選択の重さを噛み締めながら運転を再開していくべき、というべきなのに、何か世論に反して強行したが如き印象操作を図るあたり、自分好みの意見に非ずんば正義に非ずという主観主義が露骨です。

このあたりはメディアの宿唖というか、自民党政権時代の総選挙で、毎度の如く自民党が勝ち、メディア好みの社会党や共産党が低迷する結果が繰り返されたのですが、その時に決まって社説で思いっきり「ウエメセ」になって、「国民の意見を踏まえた政治運営を」と注文を付けるのが常でした。

全く有権者、国民を馬鹿にした話であり、有権者、つまり国民の権利行使の結果としての総選挙の結果なのに、それが「国民の意見」を踏まえていないと言う認識です。
今回の再稼動に際しての「ご高説」もその類で、「国民」の声を騙っているのではないでしょうか。

さらにどうよ、と思うのが、朝日の「逆コース」論です。
敗戦後、GHQの中のGS(民政局)による民主化政策が冷戦の勃興、深度化に伴い反故にされる流れを「逆コース」と称するわけですが、いかにも朝日が好きそうな名前で今回の事態を語っているわけです。(「逆コース」の言葉自体は実は読売が言い出しっぺ)

左派勢力からしたら、あと少しで実質的な社会主義的政策の浸透が確立したのにそれが叶わなかった恨み節としての「逆コース」ですが、いまの反原発派にとっても同じ境遇といえるし、政治的スタンスが同じと言うこともあっての用法と言えます。

しかし「逆コース」というあたりで語るに落ちるというか、東欧、中欧諸国のように社会主義体制の選択(実際にはチェコに代表されるようにソ連による「強制」だが)により、冷戦終結までの40年余り、繁栄に背を向けた歩みを強いられたことを「正」としてしまっています。

そして「逆コース」を歩んだ日本がその後朝鮮戦争特需をきっかけに高度成長期を経て、先進国の一員として経済的繁栄を謳歌したことを考えると、「逆コース上等」ともいえますし、経済への影響を回避すべき、と言う今回の再稼動の決断を「逆コース」というのなら、まさに社会主義的政策を排除して西側の一員として繁栄の足がかりをつかんだ「逆コース」の再来といえます。

ついでに言えば、「逆コース」とまで言うのであれば、昨今の反原発メディアの主張はまさに戦中のメディアなどの対応そのものであり、戦後社会から見ればそれこそ「逆コース」でしょう。
「欲しがりません勝つまでは」「贅沢は敵だ」と物資不足、資源不足の根本的な解決にはならない精神論で国民を煽り、縛ってきたのは、それこそ朝日新聞をはじめとするメディアと、「はだしのゲン」に出てきた町内会長や、「国防婦人会」といった官製とはいえ「民間団体」でした。

足下の「節電すればなんとかなる」「もっと節電を」と煽り、縛っているのもメディアや「市民団体」であり、エネルギー不足の根本的な解決に程遠いと言う状況も戦争中と瓜二つです。
そうしてみると、「逆コース」と再稼動を批判するほうこそ「逆コース」であり、戦争中と同じ愚を国民に強いて、そして破滅への道を歩ませていると言えます。