Straphangers’ Room2022

旧Straphangers' Eyeや習志野原の掲示板の管理人の書きなぐりです

忘れられた?マナー

2012-06-28 22:39:00 | ノンジャンル
新入社員も配属されてしばらく経ち、そろそろいろいろなしきたりを身体で覚える頃ですが、そうしたしきたりの一つに、お客様を優先する、というものがあります。
会社のエレベーターや通路での「お作法」であり、お客様を押しのけて、と言うことのないようにするのは基本中の基本です。

なぜそういう話をヤブから棒に、というと、最近そういった「お作法」が忘れられていることが多いと感じるからです。

特にどうなのかな、と思うのが、「業者」の行動で、まあ例によって交通の世界ですが、駅構内で売店や清曹ネどいろいろな業者の人が作業をしているのは当然として、混み合う構内で作業は仕方がないとしても、では作業場所への行き来で通路の真ん中を堂々と歩くのはどうかと思うのです。
それも2人で並んで談笑しながら、と言うのを見ると、何か違うのでは、と思います。

駅なんかでは乗務員もコンコースを歩くことが多いですが、これも乗務員詰所への職員用通路があるのにコンコースを通ったり、エスカレーターで止まっていたり(止まるのが「正当」とはいえ、乗客の大半が歩いているところではどうでしょうか)、上記の業者の人のようなケースもあるわけで、気になる部分です。

このあたりは客商売としてもっと厳しいはずのスーパーでも最近は目立ち、まあ営業時間の拡大で本来開店前、閉店後に行うべき清曹竢、品の入れ替え、補充が営業時間内に行わざるを得なくなったと言う事情はありますが、通路を塞いで台車を持ち込んで作業をするケースを目にすることが増えており、バックヤードとの分離がなくなっている感じです。

そこまで客は偉いのか、と言われそうですが、客の邪魔にならないようにする、と言うのは基本的なマナーのはずですし、そうせざるを得ないのなら一言断るとか、それなりの作法があるわけです。スーパーでもそのあたりが厳しかった「名残」としてか、お客用のトイレに「このトイレは従業員も利用させて頂いております」と掲示しているわけです。

まあそういう流儀がおかしかったと言われればそれまでですが...


記録に何の不都合が

2012-06-28 22:37:00 | 時事
テレビ番組を国会図書館で保存することにメディアが反対しています。事後検閲に当たるという理由を振りかざしていますが、そのために貴重な放送記録が散逸してしまう危険性が高く、文化の保存と言う意味で、紙メディアに対する意識の低さが目立ちます。

そもそも事後検閲というのであれば、出版物も同じであり、なぜ放送のみ特別扱いが必要なのか。
そう考えた時、紙メディアは発表=「記録」ですが、放送は録音、録画と言う行為を経なければ「記録」出来ないと言う特性があるわけで、逆に言えば、そこに抵抗するということは、「記録」されることに何か不都合があるということになります。

有り体にいえば、紙メディアのように「記録に残る」と言う前提がないことを「利用」(「悪用」?)した番組作りがなされていると疑う余地が大きいわけで、その効果としては紙メディアのように内容を「検証」されないことがあります。

つまり、言い方は悪いですが、「口から出まかせ」であってもこれまでは検証不可能だったものが、保存されることでそれが出来なくなる。それを恐れているのでしょう。
そういう意味では、紙メディアならそうした編集スタンスのものもありますが、それに対する評価は低いわけですが、放送メディアもそうした評価を社会から受けるべきところ、それから逃げていると言うことができます。

改正著作権法で「違法アップロード、ダウンロード」への規制が強化されましたが、これが動画サイトへの番組内容のアップを完全に抑制する方向に働くことから、メディアが社会の批判から回避できるから今回の改正を大きく報じない、と言う批判があるわけです。

そして国会図書館での保存への反対とあわせると見えてくるものは「やりたいほうだい」です。
本来メディアに対する「報道の自由」は、国民の「知る権利」へ奉仕するツールとして与えられたものです。ですから「知る権利」に寄与しているかを国民が検証することは当然の権利であり、メディアはその義務を負うといえますが、現実は自分たちの権利だけ最大限に享受して、義務を無視していると言えます。

やはり下がるボーダーライン

2012-06-28 22:35:00 | 時事
生活保護を巡る問題は、やはりこうなるわけです。
25日の産経が「スクープ」と称して東大阪市職員の親族約30人が生活保護を受けていた、と報じ、平均年収700万円台で扶養義務を果たさないのはケシカラン、と噛み付きました。

こういうときだけ「日本人の美徳」を持ち出すいやらしさもさることながら、お笑い倹lだとパンチ不足と見るや、世間の賛同を得やすいお得意の公務員叩きを絡めて来ました。
そして年収700万円台でケシカラン、ときたわけで、あとはどんどんハードルが下がるんでしょうね。そして扶養義務者は不動産どころか動産もどんどん処分して限界まで支援しろ、となるのは時間の問題です。

前にも書きましたし、世間でも一部の評論では気付いていますが、今回の「ナマメv叩きに酔いしれて扶養義務の強化を受け入れることでどうなるか。
ちょうど自分たちが一番余裕がなくなる中高年の時期に老親の「扶養義務」が圧し鰍ゥってくる、「ナマヮ梃タ爆弾」が炸裂するのです。

平均年収700万円台のくせに、という批判があるでしょうが、ではその収支はどうなっているのか。金融資産が世界一、と言いながら、負債側に多額の住宅ローンがあったりするわけで、年収700万円台にしても、そこから教育費やローンの返済など一番余裕がない世代の話です。

民間の平均はもっと低い、と言う批判もあるでしょうが、低いほうに合わせてどうする、と言う部分です。所得が低い場合、持ち家は無理ですし、子供に高等教育を受けさせる選択肢も狭まります。所得が多いからこそ可能な選択肢を「ぜいたく」として、扶養義務を優先させると言うことは、それこそ今回の問題にご執心の議員や、安月給とはいえ世間比で見れば高給のメディアは関係ないけど、本来国の根幹となるべき中流層をどんどん下流に叩き込むことになるわけで、二極分化が加速します。余談ですが、まさか産経の従業員の身内に生活保護受給者はいませんよね。それくらい「襟を正して」論じるべき論点です。

こういうと批判を受けるのは覚悟の上で書きますが、年収がそれなりにある人は、それに見合う生活と言うものがあります。もちろん清貧を貫く奇特な人もいますが、家を買い、子供にその能力を最大限に伸ばす高等教育を受けさせることが「平均」ということです。その「平均」の生活は、年収に見合う支出と負債から成立しており、年収だけで「余裕がある」と談じることは無意味であり有害です。

低所得だと持ち家などの資産はそもそも持てませんからローンはありません。賃貸の費用は「家賃並みのローン支払いで買えます」と勧誘するくらいですから通常はローンより軽いですし。
また高等教育と所得に明確な相関があるというデータがあるように、子供の教育にも金をかけないので、見鰍ッの金回りはいい、だから扶養義務も果たせると言う見方も出来ます。

年収700万台でありながら、年収400万円台クラスの生活に切り詰めれば扶養義務も果たせるでしょうが、それぞれのステータスに見合わない生活を持ち出されても困ります。足下の議論はまさにそうやってレベルを下げれば出来るだろ、と言う議論です。

ちなみにローンの元利支払が年150万として(月あたり10万円台前半が平均的な数字です)、私立に通わせるとなんだかんだで年間100万円くらいは軽くかかります。子供1人でそれだけで250万円、2人いれば350万円。この数字は額面ではなく手取り収入から消えていく数字です。年収額面が700万円台なら手取りは550万円強といったところでしょう。

この時点で残額200万円台で、生活費その他一切を賄います。「私は月の食費が1万円で出来るから余裕綽々じゃないですか」という特殊なケースで批判する人が必ず出てきますが、そんな話を相手にする暇はありません。費目には食費の他水道光熱費に被服費もありますし、持ち家なら固定資産税など租税公課もありますし、一切の娯楽も出来ないような生活はありえません。

批判するのなら、きちんとこうした収支を考えているのか。それが見えない批判が罷り通り、どんどんボーダーが下がってきていることは非常に危険です。
東大阪市に続き堺市でも「発覚」していますが、これが公務員だけではなく「正社員」ならケシカランとなるのも時間の問題になった感じです。

そもそも受給者のほうは、本人とは別の生計で社会保障の原資として安くない税金を納めているのです。いざと言う時に保障を受ける権利は当然あるのに、なぜかそこに「扶養義務」と称して出し渋り、一族連座で貧乏にする国の制度が正しいのか。次代を担う子供を作らず、親が早死にしたら勝ち組という社会ですよ。

「アリとキリギリス」じゃないですが、キリギリスが永遠の勝ち組になり、アリのように齷齪と働くことが無意味になりますし、中途半端に収入が増えても暮らしの向上に回せず扶養義務が課される、というのなら、それこそ働くより生活保護のほうがマシ、という風潮と相似形になります。

今回の記事は「日本人の美徳」を謳いながら、中流層という日本の社会の根幹を破壊するベクトルを持つ悪質さを持っているといえます。