Straphangers’ Room2022

旧Straphangers' Eyeや習志野原の掲示板の管理人の書きなぐりです

「運動」の底

2016-06-15 23:51:00 | ノンジャンル
諏訪の御柱祭を安全対策に問題ありと差し止め申請をした弁護士がいるという報道がありました。
確かに毎回死傷者が出ることは否めませんが、安全対策はしているわけで、神事そのものにリスクがある場合、いかに伝統行事とはいえそれを否定するのが是なのか。常識的に考えれば答えは自ずから定まるわけで、結局はリスクではなく「神事」を須らく否定するための訴訟と言えます。

そういう「もっともらしい」仮面を強く疑う事例があるわけです。

大阪を代表する祭である天神祭の名物である「ギャルみこし」。
男の出番とされてきた神輿の担ぎ手を女性にした目新しさというか奇抜さが受けて、担ぎ手の応募も集まっていますが、これも冷静に考えれば「ジェンダー」的視点で見たら「問題」のはずです。



女性が担ぎ手になることが一般的でないことが前提にあるわけです。
そして「ギャル」という性を印象付ける言葉が前面に出ているのです。これまでのこういった勢力の主張であれば、批判の対象になるはずなのに、なぜか声が上がっていません。

結局は天神祭の名物を批判したら逆ネジを食う。そういう打算が矛盾した行動になるのでしょう。
そしてそういった批判が見込まれない案件になると、内容がどうであれ批判に出るのです。

この手の勢力が京都市交通局が展開する「地下鉄に乗るっ!」キャンペーンに噛みついていますが、見た目こそ女子高生のキャラを前面に押し出していますが、内容は極めて真面目で、公共交通の利用促進という本獅ムいているのです。



その意味では神輿の担ぎ手を「ギャル」とするよりも真摯な話ですが、反撃が想定されないから噛みついているのでしょうし、そこに運動の底が見えるのです。



辞任の向こう側

2016-06-15 23:00:00 | ノンジャンル
都知事が辞職しましたが、辞職直前になって「違法性がないのになぜ辞職」「メディアスクラムでは」という「擁護論」が出てきています。その理論だと「違法ではないが不適切」どころか「違法性はない、以上!」で済ませるような話ですし、そもそも規正法では使途を問わないという大ザル状態がゆえに「違法ではない」となってしまっているわけで、そこを「違法ではない」と正面切って抗弁されるとねぇ、という話になります。

違法ではないが「不適切」である。法的責任は問えないにしても、「不信任」は問えます。違法でなければ不信任を突きつけることができない、とでもいうんでしょうかね。そういう方々は社会のあちこちで歪みを見せている「グレーゾーン」の濫用事例に対し、「何が悪い?」と堂々と主張して頂きたいし、そうした事例の「被害者」に対しても「クレーマーにすぎない」というくらいの「気概」がほしいですね。もちろんご自身が「被害者」になっても、自発的に受け入れるのは言うまでもない話です。

まあこの段階で「擁護」が出てくるあたり、不信任を9月まで待っていたら、こういった「擁護」に後押しされて、「冷静に見たらそこまで問題ですか?」とか世論が誘導されて続投になる可能性もあるわけで、そのシナリオに期待して、あるいはその援軍がいるからああいう悪あがきを繰り返したのかもしれませんし、それに加担していないをを注意してみていく必要があります。

で、いよいよ選挙戦ですが、展開によっては50億とも100億ともいわれるコストを前に、不信任案提出はやめよう、という声が出てくるような有権者がこういう愚かな知事を選出したわけです。
注目を集める首都の知事であり、膨大な有権者がいることから、著名人を立てる傾向にありますし、それが通ったり、そこそこ健闘するという残念な事実があるだけに、与野党とも知名度優先の候補者選出に走っています。

この辺りは民主主義の弊害、すなわち衆愚政治であり、有権者が変わらないといけない部分ですが、そこは難しいのが現実です。それでも「客寄せパンダ」と「本格派」で前者を選ぶ人はさすがに少ないでしょうし、そうでなければ社会は崩壊しています

。そう信じて「本格派」を立てるべきであり、そういう「責任ある姿勢」は回り回ってあらゆる選挙戦での「評価」につながります。







その因果関係は正しいのか

2016-06-15 00:34:00 | 交通
いすみ鉄道の「噂」を巡り、「鉄道がなくなったら街が衰退する」と言って、社長解任動議を出したとされる沿線自治体を批判する声があります。しかしそもそも鉄道の廃線と町の衰退に因果関係があるのか。ヲタが流布する社会伝説ではないのか。はっきり言えば、数ある要因の一つがたまたま「廃線」であるに過ぎず、廃線=衰退ではないのです。
そういう意味では「ぼくのだいすきなでんしゃ」を守るためにいい加減な風説を流布しているにすぎないわけで、いわんやそれをアカデミズムの衣を被せて語るのは、非科学的なオカルトに類する話です。

もしヲタの主張が正しいとすれば、廃線=衰退であり、若干の例外はあったとしても、基本的には廃線になったら街が衰退するという強い関係が成立するはずです。
しかし現実は廃線で衰退しない例が多数あるわけですし、そもそも鉄道がなくても地域の拠点となって反映する例も少なくないわけで、別の条件、端的に言えば高齢化や地域経済の衰退を原因として衰退した際に、街や地域の規模が鉄道を維持できなくなったが故の廃線という因果関係を正反対に捉えた、原因と結果の取り違えです。

廃線になっても街は衰退しない。それは一部の例外でなく、全国津々浦々に見られる話です。
人口希薄で街の維持が難しい北海道を見ても、鉄道が残っている街でも衰退に歯止めがかからない反面、1984年から1989年にかけて廃止になった特定地方交通線沿線の街を見るとどうでしょうか。オホーツク沿岸の紋別市、道東の中標津町、後志の岩内町を例に挙げてみれば、鉄道の廃止で有意に衰退したとは言えないことがよくわかります。道内各自治体、日本全国の地方に共通する中長期的な人口の流出による衰退に加え、廃線というイベントがそれを加速させたことが証明できないのです。
観光の入込は廃線後にピークを迎えたり、近年も伸び続けるとか、公共交通もバス交通がしっかり維持されている。そういうケースを前にすれば、「鉄道がなくなったら」は絶対条件ではないのです。

そのほか、能登の輪島市、九州の高千穂町、鹿屋市と、旧国鉄時代の廃線、転換した第三セクターの廃線を経験した街はどうなのか。人口動静や観光の入込に廃線が明確に連動しているのか。廃線後に伸びているということはないのか。実態は一般的な人口流出と、景気動向やブームに連動した観光入込の推移が示されています。

ましてや鉄道がない街。有名どころでは兵庫県宍粟市、広島県安訣sc市などの街道(主要国道)沿いに発展した街は、近隣の鉄道沿線の街と比べてどうなのか。観光資源が豊富だけど鉄道はここまで来ていない高知県土佐清水市は消え去っているようなロケーションですが、全国区の知名度ですし、人口流出は止まらないものの、後述する鉄道が新規にできた街と有意な差は認められません。

一方でお隣の宿毛市は1997年に悲願の鉄道が開通しましたが、開通後の2000年代に入って人口流出が止まりません。高知県は2000年前後に鉄道の新規開通が相次ぎましたが、2002年のごめん・なはり線沿線も鉄道開通で衰退に歯止め、という明快な効果が出ているかは甚だ疑問ですが。

確かにいったん廃線になったらその建設コストを考えたら鉄道の復活は極めて困難です。しかしそれは鉄道を維持することへの経済的困難さと一体の話であり、身の丈に合わない公共交通として鉄道を維持することは、地域を経済的に疲弊させます。
数万円、いや、数千円単位の補助金制度を住民が要請しても応えられないような財政状況で、億単位の赤字を垂れ流す「電車ごっこ」が果たして許されるのか。要は「ぼくのだいすきなでんしゃごっこ」を税金で遊びたいがためではないのか。

「鉄道がなくなれば...」という言説にはそうした本音が見え隠れするのです。