Straphangers’ Room2022

旧Straphangers' Eyeや習志野原の掲示板の管理人の書きなぐりです

「何でも反対」への回帰とは

2016-06-06 22:46:00 | 時事
消費税率の改訂が見送りになったことで、「アベノミクス」は失敗だと政府の責任を問う声が野党から上がっています。
上げれば上げたで「庶民」の声を聞け、と批判するのでしょうから身勝手な物言いですし、じゃあ野党だったらうまくいったか、というと絶対にありえない話なので、批判するだけでご飯が食べられるなんてうらやましい話ですね。

もちろん選挙目当ての「毛鉤」という面は見え見えですが、それでも経済政策そのものを「失敗」と断じるような状態ではないでしょう。そもそも「リーマン級」という基準を持ち出してきたのは胡散臭いとはいえ、外部環境を理由にしているわけで、それを為政者の責に負わせるのはお門違いでしょう。

今回の「見送り」に対する批判の出元を見ると、呉越同舟感がひどいです。
野党に財務省、国際エコノミストに朝日新聞と、各界総スカンでもないのにこれだけバラバラな勢力が一堂に会して?いるわけですが、そうした勢力が持ち出すのが財政規律です。

プライマリーバランスが大切、と増税見送りによる収支の悪化を説くのが常套手段ですが、消費税率だけを変数にして、増税分の歳入を失うから借金が増えて危機的水準に、というのですが、そうした図表をよく見ると、経済成長は固定値(消費税率の変動に左右されない)となっていたりするので話になりません。

消費税率の改訂が議論になるのは、8%への見直しが経済成長の腰を折ったからでしょう。
ですから税率が上がれば税収が増える、という単純な話ではなく、景気の冷え込みによる消費税や法人税などの減収が発生するわけで、足下の「見込み違い」もそこから発生しています。
逆に改訂時期を先送りする、さらには中止する、といったアナウンスにより、景気が盛り返せば、税率を乗じる元本が増えるのですから、その効きしろは小さくありません。

まあこうした具体論を戦わせるのであればまだしも、なんでも反対の伝統撃ノ回帰してしまった民進党は、議論の土俵にすら上がっていません。野党統一戦線、といいながら共産党におんぶにだっこの状態で、政権奪還どころか政権担当能力のかけらすらないことが露呈している状況では、来月の参院選、さらには近い将来の総選挙でどうなるのか。

「おたかさんブーム」で参院では逆転、衆院でも前回300議席の自民党を大きく切り崩して自民党の半分まで議席を回復した社会党(当時)の隆盛とその後の坂道を転げ落ちるような衰退が繰り返されるのでしょう。
あの時も消費税への反対、「ダメなものはダメ」で人気を博したものの、万年反対野党では先がなく、分裂もあったとはいえ、ピークの1990年の3年後の総選挙で半減、さらに3年後にはその1/4以下となった惨状が、民進党に繰り返されない保証はありません。





言論への妨害が問われぬ危機的状況

2016-06-06 22:20:00 | 時事
「ヘイトスピーチ」が疑われるデモを反対派が妨害したケースが川崎で起きましたが、反対派を支持する左派系メディアは妨害されて当然、というスタンスを隠しません。
一方で保守系メディアも「デモ現場で混乱」というにとどまり、今回のケースの問題点が完全に隠されています。これはデモの内容が保守派ですら受け入れ難いもの、ということもあり、デモへの支持と誤解されることを恐れての話で、結果として左派系メディアの大騒ぎに右派系が沈黙して結果として追認する最悪の結果になっています。

特に「ヘイトスピーチ」の前科がある川崎はともかく、同様に反対派による「妨害」が発生した渋谷のデモはヘイトスピーチの出る幕もなかった極めて政治的な主張を実力行使で「妨害」したことはいかなる言い訳もできないはずの事態なのに、メディアが事実上スルーしたというのは非常に問題です。

既にいろいろなところで言われている通り、今回の問題はまず第一に、デモという「言論」を実力行使で阻止したという「言論封殺」です。デモが「正しくない内容」としても、言論の自由は尊重しなければならない、という前提がまず共有できていないことがまず問題であり、少なくとも右派系は、左派系のデモに対して「批判」することはあっても「妨害」「阻止」するという発想がないだけに、その異質さが際立っています。

いやいや、欧米においてもネオナチなど特定の勢力に対しては自由を容認しないわけで、ヘイトスピーチもまた然りであり、それに自由を認めるほうがおかしい、と言われるでしょう。しかし、そのジャンルに対する「制約」、つまり自由の「否定」が国民的コンセンサスを得ているのか。その理由とされるのがナチスによる蛮行であり、今日なお根強く残る人種差別ですが、積極的に封殺することで叩き潰す、というスタンスは、必ずしもコンセンサスを得ていない政策的なものであり、自由に制約をはめるものとして根強い批判もあることを忘れてはいけません。

ちょっと前に左派系ジャーナリストたちが「政権による報道への圧力」を外国人記者クラブで訴えて、何をぬるい話を、と鼻で笑われたことがありましたが、自由への束縛、否定が何をもたらすかを十分理解していないから、軽々に自由の否定を肯定するのでしょう。その意味では欧米における「否定」は、その勢力による「自由の否定」のほうが重大な侵害であり、それを防ぐためなら、という軽重論でもあるわけで、今回我が国において「問題」になっているレベルのヘイトスピーチは、「解消」を促すことはあっても、積極的に否定していいのか、よく考えたいものです。

今回さらに問題だったのは、渋谷でも同じような「妨害」がありましたが、相手の名目は特定の政治活動に対する批判であり、反対派が「ヘイトスピーチ」のレッテルを貼ってデモを妨害したことでしょう。
立場の違いがあり、激しく対立することはあっても、それは言論のジャンルで実施されるべき話であり、政府や与党に反対するデモもその範疇で実施されているはずですし、政治家というものはとりわけ厳しい批判にさらされるのが商売と自覚すべき存在です。

それが「反ヘイト」の名目で阻止活動に出たわけです。気に入らない言動に対し、絶対的な悪のレッテルを貼って言論を封殺する、という冤罪ともいうべき行動が発生し、しかもそれをメディアが追認した格好です。「お前は悪魔だ」とレッテルを貼って火あぶりにした中世の魔女狩り、「反革命だ」とレッテルを貼って粛清した文革に代表される共産圏の人民裁判、それとどこが違うのか。

今回特に許しがたいのは、国会議員が阻止活動に参加したことでしょう。
国会で演説を遮って批判させなかったら、その議員はその瞬間に議員生命どころか政治家生命を失うでしょう。それに等しいことをしているのです。