木洩れ日通信

政治・社会・文学等への自分の想いを綴る日記です。

「戦争の時代」を清算していない日本と日本人

2008年09月11日 | Weblog

日本国と日本人は60年前の「戦争の時代」を清算していない。
今年2008年も半ば以上過ぎてしまったが、改めてそう感じる年だ。
「沖縄集団自決」での日本軍の関与を削除するよう検定意見のついた歴史教科書問題。沖縄の人々の猛反発を招いたが。
「沖縄集団自決」に関しては、もう一つ、当時日本軍の守備隊長だった男性と、やはり軍将校だった人の遺族が、「軍は直接、住民に自決の命令を出していない」として、『沖縄ノート』の著者である作家の大江健三郎氏等に「名誉を汚された」と訴えていた裁判の判決があった。
判決は、生き残った住民の証言、資料等から両名の関与があったことは充分推認でき、「沖縄ノート」は、これら日本軍幹部への強い批判の表現はあるものの、意見・論評の域を逸脱するものではなく「名誉毀損」にはあたらないとする常識的な判断をしたが。
そして映画『靖国』への国会議員による干渉。
前回のブログにも書いたが、これらの「戦争」の恥部を見ようとしない立場は、沖縄県民及び被害国の周辺アジア諸国には全く通用しない屁理屈だ。
そんな屁理屈を隙あらば持ち出そうとし、政府の権限で教科書から事実を消そうとするのは、国レベルでの清算が終わっていないということなのだろう。
その一方で、おもにNHKだが、最晩年に達した元兵士達の証言シリーズを放映し、淡々と語るその事実の中に、日本軍のこの上はないほどのおろかな「戦争遂行」の実態を、私達に教えてくれていた。
耳を澄ませば、目を開いていれば、だまされるはずはない真実がそこにはあるのだが。
補給なき戦線として歴史にしっかり刻んでおかなくてはならない「インパール作戦」。
新潟高田の58連隊の生き残り兵士の証言だったが、
現場を知らない、見ない上層の官僚軍人の愚かしさは、この連隊4000人のうち、3000人を「白骨街道」と言われたインドの奥地に野ざらしにしたのである。
それも敵の攻撃によってではなく、補給なきがゆえの飢えと病気によってである。
この作戦を強行に主張したのは、牟田口廉也第15軍司令官
この名前は忘れてはなるまい。直接手は下さなくても彼は大量殺人犯なのだ。
そして牟田口の愚かな主張に結局は沈黙してしまった他の軍幹部も共犯である。
日本の敗戦が免れない事態が近づくにつれて、大本営の作戦は、玉砕から持久戦に変わっていく。
国体護持=天皇制維持のために、最後の道を探ろうというのだ。
そのために前線の兵士達は玉砕以上の地獄の苦痛を味わうことになった。
南太平洋上のペリリュー島を死守せよというのが水戸歩兵第二連隊の使命だった。
1944年、サイパン、グァム、テニヤンと米軍に占領され、ペリリューはフィリピンの米軍占領を防ぐ防波堤と位置づけられた。
岩山を手掘りして陣地を構築。艦砲射撃で圧倒し、上陸してきた米軍に対して、日本軍がすることは、ひたすら陣地にこもって、抵抗することでしかなかった。充分な武器があるわけではない。
結局、一万人派遣のうち、34名が生きて投降した。
楽天的な資質と強健な身体、そして強運の者のみが生きて帰れたのだ。
「生きて虜囚の辱めを受けず」の戦陣訓に洗脳された日本軍兵士は、民主的な運営がされていたというオーストラリアのカウラの捕虜収容所で、死ぬためだけの大脱走を試みる。
ここまで書いてきたように、軍隊組織は郷土ごとに編成されていた。
捕虜になることは自分の恥であると同時に家族の恥でもある。郷土ごとに編成された部隊では、たとえ生きて帰っても郷土で「捕虜になった」という不名誉と共に暮らさなくてはならない。
家族も肩身が狭い。「何で名誉の戦死をしてくれなかったのだ」ということになる。
戦地を知らない、それこそ現場を知らない人間のひどい言い分ではあるが。そういう空気の中で生きていればそれが当たり前になってしまう。
末端の兵士がこんなに悩み、追い詰められて死ぬためだけに脱走を試みたりしたのに、上層部はどうだったか、牟田口司令官が責任を感じて自決したということはなかったし、沖縄座間味の守備隊長梅沢裕は、米軍に投降した。そして、人生最後の段階でまだ「自分の名誉」にばかりこだわっている。
人間、組織の上になればなるほど、無責任、恥知らずになるものらしい。





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