老いの途中で・・・

人生という“旅”は自分でゴールを設定できない旅。
“老い”を身近に感じつつ、近況や色々な思いを記します。

京街道を行く⑫  第6回  八幡~墨染  (その1)八幡~淀地区

2019年11月16日 22時06分33秒 | 旅行/色々な風景
 第6回目は、今年一番の冷え込みとなりましたが、好天に恵まれ二人の都合と体調の良い15日(金)とし、京都府八幡市の石清水八幡宮駅からのスタートでした。

 11月8日のこのブログで「八幡市駅」と書き込みましたが、今年10月から「石清水八幡宮駅」と駅名が変更になったそうです。前回この駅に立ち寄ったのは6月でしたが、その時はまだ変更されていなかったので、「八幡市駅」とばかり思い込んでいましたが、駅に降りてビックリしました。

 先ずは、駅から北に向い木津川と宇治川を越えるのですが、ここは両川の合流点近くで二つの橋はひっついており名前は共に御幸橋というのですが、この京の呼び方は「ごこうばし」の様です。

 二つの川を渡ると京都市の伏見区に入り、暫く旧街道の雰囲気が僅かに残っている地域を通り、淀地区に入ります。

 その後、宇治川の右岸沿いの堤防の上の単調な道を歩き、三栖の閘門や中書島を経て、伏見の酒蔵が並ぶ地域を通り、桃山駅や丹波橋の近くを通りながら京阪の墨染駅まで着きました。

 ツレアイの体調が良く、この日は何と京阪電車の駅で言えば5つ程も歩いたことになります。


 京阪の淀駅には降りたこともなかったのですが、見所も多く近くの淀城跡や、昔の淀の跡をゆっくりと回りましたので、今回は八幡市~淀地区と、淀地区~墨染までの2回に分けてお知らせします。


 は、桂川・宇治川・木津川が合流する水辺に形成された人々で賑わう場所で、かっては与等津(よどつ)と呼ばれ、岩清水八幡宮への参拝や奈良・大坂に通じる重要な水陸交通の中継地として発展していきました。

 京阪の駅の直ぐ近くに與杼(よど)神社があり、それに隣接する淀城跡公園の中に昔の淀城の石垣や天守台が残っています。かっては、電車の中から石垣や濠の一部が見えた様に記憶していますが、現在では淀城の名残は極めて少なくなったようです。

 所で、淀城と言えば、豊臣秀吉が側室茶々の産所として築かせた城とばかり思っていたのですが、その城(区別するため、古淀城と呼ばれるようです)は現在の位置より北へ約500メートルの位置にあったが、豊臣秀次が謀反の疑いを掛けられて廃城とされ、現在では跡は残っておらず、現在淀城と呼んでいるのは江戸時代に徳川秀忠の命により松平定綱が築いた城との由です。


また、この淀にある史跡を紹介しますと、

◆淀の水車モニュメント
 京阪淀駅前に、「淀の水車」のモニュメントがあります。
その昔、城の庭園に水を引くために水車が設けられていて、水車は淀城の象徴として知られていたようです。

◆唐人雁木旧跡
 かって、朝鮮通信使が上陸した船着き場のあったところとされています。
使節が下りた場所は羽を広げた雁のような形の石段だったので、唐人雁木と呼ばれていたようです。

◆淀小橋旧跡
かって淀城への北の入口として、宇治川に架かっていた「淀小橋」の跡のようです。

 また、ここは戊辰戦争時の激戦地区だった様で、少し離れた所にその石碑がありました。(まさ)


木津川に架かる御幸橋

同上より、京阪電車の古い鉄橋を眺める。丁度特急が通過中

同上の橋碑「ごかうばし」となっています

宇治川に架かる御幸橋。(宇治川ではなく「淀川」となっています)

同上から見た風景。 色々な橋が架かっています

こちらは、漢字で御幸橋となっています。

京都市の伏見区に入ったようで、淀美豆街付近で

<淀>

與杼(よど)神社本殿

淀城跡公園の石垣

同所で見かけた3つの石碑。左から「淀城之故跡」「淀小橋旧跡 従西南大坂至」「唐人雁木旧跡」と読めますが、後の二つは別の場所にあります。

真中の石碑の側面には、「京都街道」の文字も見えます

京阪の駅前にある水車のモニュメント

「納所(のうそ)」の地名。ここは唐人雁木旧跡があったようです

「唐人雁木旧跡」の石碑

「淀小橋旧跡」の石碑

戊辰戦争の碑。「戊辰戦争東軍戦死者埋骨地」とあります

横には、「戊辰戦争東軍西軍激戦之碑」ともあります