老いの途中で・・・

人生という“旅”は自分でゴールを設定できない旅。
“老い”を身近に感じつつ、近況や色々な思いを記します。

マルタ旅行記⑪ ~首都圏で見かけた路地やベランダなど~

2024年04月27日 19時34分30秒 | 旅行/色々な風景

首都であるヴァレッタやその東側にあるスリーシティーズ地区は、何れも海に面して頑丈な擁壁に囲まれた要塞都市なので、都市部にある路地は海に面して坂道になっている所が殆どですし、またこ地区特有の素晴らしいベランダも目立ちました。これらの様子をお知らせします。(まさ)

<ヴァレッタの路地とベランダ> 
ベランダ 8ヶ所
















路地 9ヶ所



















<セングレアの路地とベランダ>
べランダ 3ヶ所




路地 6ヶ所










<ヴィットリオーザの路地とベランダ>
ベランダ 1ヶ所


路地 8ヶ所


















マルタ旅行記⑩ ~スリーシティーズ~ 

2024年04月26日 19時09分54秒 | 旅行/色々な風景

 マルタの首都圏は複雑な地形でリアス式海岸のように入江が入り組んで半島が続いているような感じですが、ヴァレッタとグランドハーバーという内海を隔てた東側にあるスリーシティーズと呼ばれる地区も同様です。

 この地域は、マルタ騎士団が最初に砦や住居を建設した場所で、ヴァレッタ同様に城壁に囲まれていますが、より昔の面影を残していると言えるでしょう。(まさ)

<セングレア地区>

城門に向かって歩く

城門

勝利の女神教会

同上

同上内部

同上 ドームにはマルタ騎士団の紋章が


静かなグランドハーバーを挟んで対岸のヴィットリオーザの先端にある聖アンジェロ砦
マルタ騎士団の最初の本拠地です

こちらは同じくグランドハーバーを挟んで対岸ヴァレッタの先端にあるシージベルが見えます

MSCの大型客船が改装中のようです

先端にある監視塔ヴェデッテ

監視塔には眼と耳が装飾されています


元の英軍士官用の住居跡のようです

半島の根元からは、ヨットハーバーを挟んで対岸のヴィットリオーザの聖ローレンス教会などが良く見えます

<ヴィットリオーザ地区>

ここもまた頑丈な城壁に囲まれています

城内へ

空堀

重い甲冑を身につけても上がれるように段差が低い階段

宗教裁判官の宮殿

第2次大戦に於ける空襲の跡形


館のドアノッカー イルカです

同上 いかにも古いという感じのドアノッカー

同上 タツノオトシゴとイルカ


新しいもののようですが面白いドアの模様  漫画風

同上 デザイン化されたアマルタ騎士団の紋章

同上 絵画風


家の入口 3重の戸になっています


聖ローレンス教会

広場

聖ローレンス教会

同上


マルタ旅行記⑨ ~ヴァレッタ市内~

2024年04月25日 19時28分35秒 | 旅行/色々な風景

 市内は観光客で溢れていますが、ホテルからは徒歩で10分も掛からず、市内全域に色々な史跡があるという感じで、自由行動時間を含めてあちこち回れましたので首都ヴァレッタの様子をお知らせします。

 海岸部は全て頑強な城壁で囲まれ、行政部や史跡などは殆ど小高い中心部に集中しているため、海岸部に向けては急な坂道となっていて、歩くのは少し大変ですが、路地好きな私にはワクワクする街歩きでした。(まさ)


戦争争記念塔(プロリアナ地区) 一番上はタカです

独立記念碑

噴水(トリトンの泉)

観光用馬車

城壁

城壁の前には空堀があり、城壁は高いです

ロイヤルオペラ劇場跡 第2次大戦で破壊されたようです

ヴァレッタ像

至る所に城壁跡

首相官邸 ここは元ポルトガルとカステーリャ出身の騎士団員の館だったようです

<以下7枚はアッパーバラック公園の写真です>

城壁跡の素敵な空間です

グランドハーバーを見下ろす 対岸は映画ロケに良く使われる場所らしいです

ヴィットリオーザの先端にある聖アンジェロ砦 入江と半島が入り組んでいます

こちらはセングレアの監視塔

大砲の手入れ中

柵にもマルタ騎士団の紋章

この公園はネコの聖地です



聖ヨハネ広場

トレイン

聖ヨハネ准司教座聖堂の時計 時刻だけでなく日にちと曜日も判ります

セントジョージ広場



ヴィクトリア門 自由行動時間にここから出て海沿いの道を半島の先のエルモ砦の方まで歩きました

目の前にヴィットリオーザの先端にある聖アンジェロ砦

この砦にはマルタ騎士団員が1名常駐していて、マルタ国旗と共にマルタ騎士団の国旗も揚がっています


海沿いの高い城壁の上がヴァレッタ市街です

ロウアーバラックガーデン

すぐ前にあるシージベル(第二次世界大戦中にマルタのために戦って亡くなっていった兵士、民間人など多くの人々を称える記念碑で、マルタ国民がイギリスからジョージクロスを受け取った1942年から50周年を迎えたことを記念して、1992年にエリザベス女王2世の発案で建てられました。)


エルモ砦 大きすぎてこちら側からははっきり見えません。後日船で海側から見ました。

市内で見かけたポスト 日本のものとそっくりですが、少し大きいように思えました

ハイスティングス庭園から見た城壁 高さだけでなく幅も立派です


マルタ旅行記⑧ ~マルタ騎士団について その② マルタにおける足跡~

2024年04月24日 19時20分32秒 | 旅行/色々な風景

 以上見てきたように、マルタとマルタ騎士団は切り離せなく、至る所でその足跡が見られるのですが、その中でマルタ騎士団と特に密接な足跡が首都ヴァレッタにありますので紹介しましょう。

「騎士団長の宮殿」と「聖ヨハネ大聖堂」です。(まさ)

<騎士団長の宮殿>
歴代の騎士団長の公邸で、現在は大統領府として使用されていますがその一部や武器庫などが公開されています。

入口

8つのグループの旗(騎士団は各地からの出身者がいるので、騎士間の意思疎通を図るために出身地/言語などを考慮し8つのグループに分けられていました。
プロヴァンス(仏・東南部)/オーベルニュ(仏・中南部)/フランス/イタリア/アラゴン(スペイン南東部)/カスティーリャ(スペイン西部)・ポルトガル/イングランド/ドイツです。

甲冑など

儀礼用の甲冑

<聖ヨハネ大聖堂>
聖ヨハネに捧げられた騎士団の私的修道会教会堂で、立派な祭壇、油絵の天井画/立派な壁装飾やグループごとの控室などがありますが、中でも有名なのは付属美術館にあるイタリアが誇る天才画家、ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(1571-1610)の作品です。

天才にしてならず者、或いは光と闇の画家と言われるカラヴァッジョはローマで殺人事件を犯したが、当時の騎士団長に呼ばれてマルタに逃げてきて、騎士団員になると同時に画家として更なる力を発揮したということです。


入口 非常に質素です

大聖堂内部 天井画は油絵とのことです

同上

祭壇

天井画

壁面にはマルタ騎士団の紋章が

同上


側壁 立体的なキリスト像聖

同上 天使像が持つ笛が枠をはみ出しいます


グループ毎のブース

同上

床面は400もある墓標です

同上

同上


付属美術館 工事中の為、絵画に近づくことは出来ませんでした

同上

カラバッジョ作「聖ヨハネの斬首」下の方に彼の作品唯一の署名があるらしいのですが見えませんでした

カラバッジョ作「聖ヒエロニムス」

建物の出口


マルタ旅行記⑦ ~マルタ騎士団について その① 歴史など~

2024年04月23日 19時16分52秒 | 旅行/色々な風景

(散歩中の風景や、いとこ会などで少し間が空きましたが、マルタ旅行記に戻ります)

 マルタについて欠くことのできないのは「マルタ騎士団」でしょう。

 私も、学生時代の世界史の時間に簡単に習って名前を記憶している程度でしたが、今回のマルタ訪問を機に調べてみると、単にマルタ単独のことではなく、ヨーローッパ全体とりわけ地中海を巡る歴史を知らねば理解できないことが判り、80歳を超えてからの思いもかけない歴史勉強となりました。

 これも国内外を問わず、旅行する場合に付いて回る必訪問先を理解のための、ある意味では楽しい欠かせない事項だと思っています。

 

 少し長くなりますが、マルタ騎士団のことを纏めてみますと、

★正式な名前は、「エルサレム、ロードス及びマルタにおける聖ヨハネ主権軍事病院騎士修道会」というようです。

★少し長くなりますが、その歴史は

・11世紀の末から始まり、約200年間続いたヨーロッパのキリスト教徒による、イスラム勢力下に置かれたエルサレム奪回のための十字軍遠征とも深く関わっています。
1048年頃に聖地エルサレム巡礼者の宿泊と医療に奉仕するため、西欧カトリック諸国の貴族がエルサレムに設立した聖ヨハネ病院にその起源を持つとされ、第1回十字軍において、多くの騎士により信仰や人種を問わず治療を行い、彼らは病院騎士(ナイト・ホスピタラー)と呼ばれたが、その後イスラム教徒に対する聖戦の実行者として次第に軍事的性質も強めていった。

・1113年、聖ヨハネ病院は正式に騎士修道会(聖ヨハネ騎士団)として認可されたが、十字軍勢力がパレスチナから追われた後はまずキプロス島、次いで1309年にロドス島を本拠とした。

・1522年オスマン帝国との第二次ロドス島包囲戦に敗れるとシチリア島に撤退していたが、1530年に神聖ローマ帝国でありスペイン国王であったカルロス1世が、自分の支配下にあったマルタ島を与えたので、聖ヨハネ騎士団はマルタに拠点を移し、マルタ騎士団と呼ばれるようになった。

 騎士団は内陸部にあった首都イムディーナではなく、海に面したヴィットリオーザ先端部に要塞都市聖アンジェロ砦を築き、1565年のオスマン帝国とのマルタ包囲戦(グレート・シージ)において、総長ジャン・ド・ヴァレットに率いられた騎士団は島を守り抜いた。その後も騎士団は軍事集団として、異教徒との戦いにおいて重要な役割を果たした。

・その後、騎士団は首都をヴァレッタに移し、宮殿や教会、新しい防衛砦や庭園を建設するとともに、商業や貿易にも力を入れるとともに、当時の西洋世界で最大規模であった大病院と、解剖学、外科学の学院を設立しマルタ島を大きく変貌させた。

1798年ナポレオン・ボナパルトに侵攻されたマルタ騎士団は、キリスト教徒に対し武器を取ることを禁じる掟によりマルタ島を離れることを余儀なくされた。領土を失ったマルタ騎士団はその後もマルタ島への復帰を国際社会に働きかけたものの、遂にその悲願が叶うことはなかった。

1822年、ヴェローナ会議において領土喪失後もマルタ騎士団が国家主権を維持していることが承認され、国際法上の「主権実体」としての地位を確立した。1834年マルタ騎士団はその本拠地をローマへと移すことを決定する。以降、マルタ騎士団は軍事的任務から離れ、国際慈善活動に注力するようになるが、国旗・国章だけでなく、独自のパスポートもあるようです。

・ということで、マルタ騎士団というのは過去の遺物なのではなく、現在でも主権実体として存在していて、中央政府を置くローマのマルタ宮殿と、マルタ島の聖アンジェロ砦の一部には治外法権が与えられています。

 このマルタ騎士団を承認して外交関係を有する国が112カ国あり。国際連合ならびに欧州連合(EU)にオブザーバーとしても参加しているし、国際連合では総会オブザーバーの待遇を受けるが、「政府間組織以外の実体」として、国際赤十字や国際オリンピック委員会などの非政府組織と同じ扱いとなっているし、ロシアによるウクライナ侵攻が始まった際にも直後に救助隊を派遣した。

・ローマにある本部には、騎士団長で元首にあたる総長、総監4人、騎士代表6人からなる内閣を中心とした中央政府がおかれていて、マルタ騎士団の活動には全世界で1万3,500名の騎士、9万5,000名のボランティア、5万2,000名の有給職員が携わっている。

 これら関係者のうち、騎士のみがマルタ騎士団員と呼ばれるが、騎士団員としての絶対資格はカトリック教徒であることで、男女は問わない。また、有給職員は、その殆どが専門職である医師または医療従事者である。

 因みに、2022年に九州大准教授の武田秀太郎さん(33)が日本人としておよそ90年ぶりに騎士に選ばれた由です。(まさ)

マルタ騎士団の国旗  紋章

  国旗           紋章