その6で、このお経の芯というか、結論めいた部分を少し詳しく見てみました。
それ以下の文章についての詳しい説明はこのブログとしては抜かしますが、仏教に疎い私が読経しながらもその意味が判りにくい、或いは誤解していたような部分を、少しだけ触れておきたいと思います。
舎利子:
その5で触れたように、釈迦の十大弟子の筆頭であるシャーリプトラのことで、このお経が会話形式になっていることから、<舎利子さんよ>と、舎利子に呼び掛けるような捉え方で良い様です。(2か所あります)
色即是空 空即是色: このお経のもっとも有名な部分かも知れません。
・『色』というと、色々なカラーとか、或いは凡人である私たちの大部分は、何か艶めいたイメージを抱きがちですが、これこそ邪魔になる先入観のようです。
色即是空 空即是色: このお経のもっとも有名な部分かも知れません。
・『色』というと、色々なカラーとか、或いは凡人である私たちの大部分は、何か艶めいたイメージを抱きがちですが、これこそ邪魔になる先入観のようです。
その5で触れたように、人間を構成する5つの要素(五蘊)の一つである「物体としての身体」を指します。
・一方『空』も。その6で触れたように、<空っぽ>という意味ではなくて、<常に変化するもので、不変のものはない>です。
・一方『空』も。その6で触れたように、<空っぽ>という意味ではなくて、<常に変化するもので、不変のものはない>です。
・従ってこの段は、<私たちの体は常に変化していくし、同じ状態ではあり得ない>というような意味のようです。
無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法 無眼界 乃至無意識界:
仏教では、私たちが外界や内面の世界を感じる知覚体系を整理して、知覚器官を六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)、知覚器官が担当する対象を六境(色・声・香・味・触・法)、そしてそこから働く心を六識(眼識界・耳識界・鼻識界・舌識界・身識界・意識界)と言います。(※ 「意」は心、「法」は人の心や文章などを言うようです)
この般若心経では、<これらの知覚体系も一切すべてが、絶対的なものではなく絶えず変化するものだから、「無」と考えて、拘らなくても良いのだ>と説いているのです
仏教では、私たちが外界や内面の世界を感じる知覚体系を整理して、知覚器官を六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)、知覚器官が担当する対象を六境(色・声・香・味・触・法)、そしてそこから働く心を六識(眼識界・耳識界・鼻識界・舌識界・身識界・意識界)と言います。(※ 「意」は心、「法」は人の心や文章などを言うようです)
この般若心経では、<これらの知覚体系も一切すべてが、絶対的なものではなく絶えず変化するものだから、「無」と考えて、拘らなくても良いのだ>と説いているのです
無苦集滅道 無智亦無得 以無所得故:
無苦集滅道:
お釈迦様の悟りに一つに、「四諦(したい)」というのがあるようです。
世の中は苦である。それは煩悩が集まって苦になるのだから、煩悩を滅すればよいのだが、その悟りに到るための道(方法)がある。このキーワードである『苦集滅道』が「四諦の教え」と言われているようですが、この般若心経では<この四諦の教えにもこだわる必要はない>と言っています。
というのは、空を知り悟りを開いてしまえば、苦は苦でなくなり、煩悩を滅する必要も、悟りに到る道も必ヨガ何くなるというのです。
更に、無智亦無得<智慧もないし、智慧を得ることもない>、以無所得故<何故なら、得るところがないのだから>とまで言います
要するに、≪その時は「本当」だと思っていても、人は肉体も心も刻々と変化するものだから、そんなことに拘るな≫と言っているようなのです。(まさ)
三世諸仏 依般若波羅蜜多故 得阿耨多羅三藐三菩提:
仏教では過去、現在、未来の三世にわたって、多くの仏さまがいると考えますが、<これらの仏さまは、覚りに至るための智慧を身につけることによって、覚りを開くことができたのです>という意味のようです。
仏教では過去、現在、未来の三世にわたって、多くの仏さまがいると考えますが、<これらの仏さまは、覚りに至るための智慧を身につけることによって、覚りを開くことができたのです>という意味のようです。
※『阿耨多羅三藐三菩提』(アーノクターラーサンミャクサンボダイ)は、梵語の音写で、<仏の悟り。一切の真理をあまねく知った最上の智慧。真理を悟った境地>を指すようです。(まさ)
新しいブログは、https://sin-masa.hatenablog.jp/ 【老いの途中で…(Part 2)】です。
