老いの途中で・・・

人生という“旅”は自分でゴールを設定できない旅。
“老い”を身近に感じつつ、近況や色々な思いを記します。

福島第1原発凍土遮水壁の効果は出ているの? 

2018年07月31日 19時54分17秒 | 原発関係
福 島第1原発事故に伴う、汚染水の発生抑制の「切り札」として鳴り物入り建設が始った原発1~4号機の凍土遮水壁工事は、昨年11月に全周の工事が終了し使用が開始されたとの発表があったとの記憶があるのですが、その効果についてはどうなっているのでしょうか?

 この工事は、2020年東京五輪の招致活動が山場を迎えつつあった2013年5月に政府が前面に立って汚染水対策にあたっていることをアピールする必要があり、その効果を疑問視されつつも世界で例のない長さ1.5キロもの凍土遮水壁の建設に345億円という巨額の税金を投入したもので、更にこの凍土遮水壁の維持稼動には今後も年間十数億円かかるとされていたと思います。

 この工事の効果については、今年の3月1日に東電が「遮水効果は5割になる」との評価結果を公表したようですが(3月3日付毎日新聞)、その後の評価などは一切ニュースとして報道されていません。
確かに、汚染水量について降雨量などでも違うでしょうし、原子炉建屋周辺などから地下水をくみ上げていることによる効果の方が大きいともされており、ここら辺も含めて、もう少し詳しい評価数字を示すべきでしょう。

 少しでも関心のある人は、この異常ともいえる酷暑の中で上手く稼動しているのか気になるでしょうし、マスコミも当初の問題投げかけだけでなくもう少し継続した報道をすべきではないでしょうか?(まさ)

台風・月食・火星

2018年07月30日 19時57分46秒 | その他
台風12号は心配したほどの雨もなかったようで、何とか無事に終わったという感じでホットしていますが、それにしてもこの台風の進路には驚かされました。
地球の自転方向に逆らって、東から日本を直撃し、瀬戸内海に沿うように西進した後、福岡からは鹿児島の方に向かって方向転換という、通常の台風とは全く逆の進路でしたね。

 最近は地球規模の異常高温と局地的豪雨の頻発もあり、地球の気候が明らかに転換期に遭遇している様な気がします。

◆7月28日は今年2回目の皆既月食の日でした。
1月の月食が、大阪では曇り空の為に観察できなかったので、今度こそはと思っていたのですが、残念ながら台風12号襲来と重なり、残念ながら今回も大阪では観察することができなかったです。
次回は2021年という事ですので、頑張りましょう!

◆現在15年振りの火星大接近中ということで、月食と一緒に見ることを愉しみにしていましたが、残念ながらそれは叶いませんでした。
最接近は7月31日とのことで、この日の火星は“スーパーマーズ”と呼ばれるそうですが、この日だけでなく相当の期間は接近状態が続く様です。
昨夜も月齢16の丸いお月さんの近くで、赤っぽい大きな星が見えましたが、残念ながら私のカメラではそれほどはっきりした写真は撮れませんでした。(まさ)


月齢16のお月さんと火星(右のほうに小さく見えます)

お月さんアップ

火星アップ

同上。(バイキング1号からの写真。WIKIPEDIAより)

面白い語源の言葉 その⑯   阿弥衆(または同朋衆)

2018年07月29日 20時12分10秒 | 面白い言葉や語源など
 五木寛之著「宗教都市と前衛都市」(ちくま文庫)」を読んでいると、日本の能・茶・花などの技能を業(ナリワイ)とする人達の中に「〇阿弥」と称する呼び方が多い事について触れておられ、興味を持ったのでいつもの癖で調べてみました。

◆室町時代以降、将軍・大名に近侍して雑務や諸芸能をつかさどった僧体の者たちが居て、阿弥衆(アミシュウ)<或いは同朋衆(ドウボウシュウ)童坊(ドウボウ)>と呼ばれていたようです。
江戸時代には幕府の役職の一つとなったが、1866年(慶応2年)に廃止されました。

◆一遍上人(1239-1289)の起した浄土宗の時衆(後に時宗と呼ばれる)教団の遊行(※)は、室町幕府から関所自由通過を許されていたが、時衆の僧は特に頭を剃ったり特定の寺に属する必要がなかった上に、時衆に加わる手続きも簡単だったため芸能を生活の手段とする人々が時衆集団に加わるようになった。
   ※ 遊行(ユギョウ):仏教の僧侶が布教や修行のために各地を巡り歩くことで、空海、
行基、空也、一遍などが有名です。

 更に時衆はこれらの人に、時衆が出家者に主に与えた法号・法名の後半部分“阿弥”の称号を名乗ることを認めたために、時衆の僧ではないものも阿弥号を名乗ることができ、これらの人が、“阿弥衆”と呼ばれるようになった。
 浄土真宗の隆盛と共に、同宗派の“同業同朋”という言葉から“同朋衆”とも呼ばれるようになったようです。

◆なぜ、このような集団が出来たのかを調べてみると、面白い経過が判ります。
江戸期までの日本は階級社会・身分社会であったため、芸人や技術者は生産にたずさわらなかったので差別的な待遇を受ける階層であり、直接将軍や貴族が面会したり話したりすることが難しかったが、“阿弥”を名乗ることで階級社会の外にいるという「体裁」を整えて、出家(仏僧)の形を取って将軍や貴族に接することができるようにしたということです。

主な“阿弥”を調べてみると、
  ・猿能楽に関わる 世阿弥/観阿弥の他、
  ・花に関わる 立阿弥
  ・作庭に関わる 善阿弥
  ・画と茶に関わる 能阿弥/芸阿弥/相阿弥
  ・刀鑑定に関わる 本阿弥
  ・お茶に関わる 千阿弥 (千利休の祖父)など、色々な分野に亘っています。(まさ)

(この項は、五木寛之著「宗教都市と前衛都市」<ちくま文庫>の他、WEBLIO辞書、コトバンク、YAHOO知恵袋、WIKIPEDIAなどを参考にさせていただきました)

面白い語源の言葉 その⑮  瘋癲(ふうてん、フーテン)

2018年07月28日 19時14分55秒 | 面白い言葉や語源など
 映画『男はつらいよ』でお馴染みの、車寅次郎の通称は“フーテンの寅さん”ですが、その“フーテン”が何語なのか、又正式な意味は?

 “フーテン”は、もともとは「瘋癲(ふうてん)」という漢字がある、立派な日本語で、
1) 精神の状態が正常でないこと。また、その人。
2) 通常の社会生活からはみ出して、ぶらぶらと日を送っている人。
を指しました。(Goo辞書)

 しかし学生運動が活発だった1967年の夏に、長髪にラッパズボン、更に妙なデザインのサングラスといった格好で新宿東口などに集まり、定職にも就かずブラブラしている無気力な若者集団をフーテン族と呼ぶようになりました。

 このように、元々は「瘋癲」という漢字だったのが、丁度この頃にアメリカで流行り出した“ヒッピー”に近いイメージから、カタカナ表記の“フーテン”が使われ出したようです。

 また、1968年には“フーテンの寅さん”でお馴染みの「男はつらいよ」がTVドラマでスタートしたこともあり、“フーテン”というカタカナ表示が一般化したようです。

 尚、ヒップホップの楽曲を中心とした“フーテン”という名のバンドがあるようです。(まさ)

(この項は、五木寛之著「サンカの民と被差別の世界」<ちくま文庫>や、Goo辞書、WIKIPEDIAなどを参考にさせていただきました)

“死して朽(く)ちず”と、岐阜県岩村

2018年07月27日 19時52分19秒 | その他
 以前にこのブログでも紹介したように、小泉純一郎元首相は最近“脱原発”論者で、この立場での講演も重ねられているようです。

 かって首相時代には原発推進論者であったこととの矛盾を問われると、当時は原発推進論者の「安全・クリーン・安い」という意見を受け入れていたが、福島原発の事故を目の当たりにして今まで原発推進論者に騙されていたことに気付き、論語の「過ちては改むるに憚ること勿れ」、「過ちて改めざる是を過ちと謂う」を引用して自分の立場を説明されています。

 福島原発事故以前は、殆どの日本人が原発推進論に与していたことを考えると、首相という重い立場での過ちを認めて、逆な側の活動に寄与したいという選択が、その通りなら評価したいと思います。

 また、小泉元首相は論語だけでなく、江戸末期の儒学者である佐藤一斎(1772~1859)の言志も好きなようで、首相時代の平成13年に教育改革関連基本法案を議論している衆議院で、“少(わか)くして学べば、則(すなわ)ち壮にして為(な)すこと有り。壮にして学べば、則ち老いて衰(おとろ)えず。老(お)いて学べば、則ち死して朽(く)ちず”という言葉を引用されているようですし、最近の「毎日21世紀フォーラム」でもこの言葉を引用されてお話しされたようです。

 残念ながら私はこの言葉を知らなかったのですが、後期高齢者になった最近の心境として“老いて学べば、則ち死して朽ちず”という言葉に惹かれて少し調べてみました。


 佐藤一斎は岩村藩(現在の恵那市)出身の儒学者で、江戸幕府直轄の教学機関・施設「昌平坂学問所(しょうへいざかがくもんじょ)」の塾長として多くの門弟の指導に当たった人物であり、一斎から育った弟子には幕末に活躍した人材たちが多く、佐久間象山、山田方谷、横井小楠、渡辺崋山などそうそうたる人たちがいます。

 更に、佐藤一斎の有名な著書には『言志四録』(「言志録」「言志後録」「言志晩録」「言志耋録」の4書の総称)があり、学問、精神、志、健康法、関わり方など本当に様々な教訓が書かれていて、儒教精神に基づく日本人に対する人生の教訓、行動の指針等の教えとなったようです。
幕末維新の多くの志士達がこれに学んだと言われていますが、特に西郷隆盛はこの書を座右の書とし、全1133条の中から101条を抜粋抄録して『南洲手抄言志録』にまとめたようです。

 私はまだこの書を読むまでには至っていませんが、色々調べて行く中で興味をもったのが、佐藤一斎が生まれたのが恵那市の岩村という地であることでした。


 私は、岐阜県とは余り関係がないのですが、社会人になった頃に色々な天産物を担当していましたが、寒天は製品を東南アジアやヨーロッパに輸出したり、原料となるテングサやオゴノリなどの海草を輸入したりという仕事もありました。
 
 その寒天メーカーの工場が恵那市から山奥に入った岩村という町にあったので、寒天の製造現場を見がてら、寒天製造期である厳寒の2月に足を運びました。

 ご存知のように、寒天は海草を炊いてトコロテン状にしたものを、厳寒期に屋外の棚の上に並べて、夜間の凍結と昼間の日当たりによる解凍での水分除去を繰り返すのですが、冷え込みのきつい山間部の2月の寒さは半端なものではありませんでした。

 早々に現場視察を終え、岩村にある日本旅館で熱い風呂を愉しむと共に、ハチノコなどの地元の珍味を愉しみました。

 また偶々(というか上手く?)週末に行ったので、翌朝は4時過ぎに起床し、まだ暗い中を山に入り山小屋で囲炉裏を囲んで夜明けを待ちました。
夜明け頃になると山中に張ったカスミ網に掛った渡り鳥のツグミが持ち込まれ(多分この猟法は違反だったと思います)、炉端で焼きながら味わうのですがその美味しかったことは今でも覚えています。
更に、その後恵那湖に行き、天然の氷の上で恐る恐るのスケートをしたことも、初めての挑戦でした。

 儒学者佐藤一斎の大事な教訓から、同氏が恵那市岩村の出身ということで、随分と飛躍した私の想い出話になってしまいました。

 同氏の教訓の一つに“春風を以て人に接し、秋霜以て自ら粛(つつし)む”というのもあるようなので、春風の心でご容赦頂くことをお願いするとともに、私も今後の短い生活を秋霜を覚悟しつつ無様な生き様を晒さないようにしたいと思っています。(まさ)
(この項は「WEB歴史街道」などを参考にさせていただきました)