老いの途中で・・・

人生という“旅”は自分でゴールを設定できない旅。
“老い”を身近に感じつつ、近況や色々な思いを記します。

京街道を行く⑩  第5回  御殿山~八幡

2019年11月08日 20時26分47秒 | 旅行/色々な風景
 ツレアイは2日ほど前から少し咳き込んでいたのですが、11月6日(水)は早朝から好天気。ツレアイの咳も収まっていて外出したそうなので、思い切って京街道歩きの続きに出かけました。

 今回は、前回引き返した京阪の御殿場駅から京都の方に向って歩くコースです。
広い道路や京阪電車に添った所が多くて、余り変化のないコースなのですが、京阪電車の駅と駅の間の距離が短かくて、次までの目標が立てやすいのが大きなメリットでした。

 そして、ツレアイの調子も良く、この日は京阪電車の駅で言えば、御殿山から4つ先の八幡市駅まで辿りつき、そこから電車で引き返しました。

 樟葉から橋本の途中で、大阪府と京都府の境を越えたのですが、どうもその境界点を見落としたのか、知らない間に京都府に入っていたという感じでした。


 所々に残る街道の雰囲気や、道標などは写真でお知らせしますが、このコースで最大のポイントは枚方市の北端にある国史跡樟葉台場跡でしょう。
いつも京阪電車の車窓から見ているのですが、実際に足を運ぶのは初めてなのでこの樟葉台場跡について少し調べて見ました。

 この台場(砲台)ができた経緯は、嘉永7年(1854年)にロシア帝国の軍艦「ディアナ号」が大阪湾に現れたことにより、文久3年(1863年)に京都守護職である会津藩主松平容保が、外国船が淀川を遡って京都に攻め込んで来ないように淀川の両岸に台場を建築することを建白し、勝海舟が奉行となって建設を始め慶応元年(1865年)に完成しました。

 西洋式の稜堡式砲台で、面積は約38,000平方Kmであり、火薬庫の他大砲を3門備えていましたが、南側から攻め上ってくる船や軍に向けて造られたので、南側だけが稜堡式の形式となっていたようです。


 また、この台場の役目は、長州藩などの反幕府側の人物や過激派を京に入れさせないための関門であり、要塞であり、京街道を付け替えて台場の中を通るようにしており、そのための番所も設けられた。隣接して淀川の通航監視のため船番所も設けられました。
慶応4年(1868年)に勃発した戊辰戦争の鳥羽・伏見の戦いで、江戸幕府軍は薩摩藩・長州藩の新政府軍に敗北し、この台場も新政府軍に占領されました。
その理由は、前述通りにこの台場はそもそも”淀川を遡ってくる敵”を想定して作られており、京都方面である上流の北側から、それも陸路から攻められた場合を想定した造りとなっておらず、防御陣地としては役に立たなかったということにあるようです。

 尚、幕末期に作られた台場は数多いが、欧米列強の外国船への備えが主目的であるため、多くは海岸に造られ、内陸に入った河岸に造られた例は、この樟葉台場と淀川対岸の高浜台場(大阪府島本町)だけのようです。


 これで、何とか京都府まで辿りつき道中の半ばを越しましたので、後は焦らずツレアイの様子を見ながら進んで行きます。(まさ)

<枚方市>

街道の様子(枚方市 三栗地区)

船橋川の楠葉橋近くで見かけた地蔵と八幡宮の道標

樟葉地区で見かけた道標

樟葉地区で見かけた古民家の塀

国史跡樟葉台場跡。石碑には「戊辰役橋本砲台場跡」とありますが、右の案内板は「樟葉台場跡」です

台場跡の説明板

<八幡市>

橋本地区の壊れかけの大きな家

京阪橋本駅前で見かけた「橋本渡舟場3丁」の石碑

同じく橋本駅近くで見かけた「柳谷わたし場」の石碑

橋本駅北側で見かけた道標 「左 大坂・・・」と読めます

同上の道標。この面は「右 八まん・・・」と読めます。石清水八幡宮のことでしょう