東京里山農業日誌

東京郊外で仕事のかたわら稲作畑作などをしていましたが、2012年4月に故郷の山口県に拠点を移して同活動をしています。

田布施川 麻郷高塔と人島を結んだ幻の人島橋

2016年05月11日 | 歴史探訪他ウォーキング

 田布施町と平生町の境にある田布施川、かつて人島橋と呼ばれる幻の橋があったことを知る人が少なくなりました。昭和50年(1975年)頃の写真を整理していると、私が写した人島橋の写真がありました。昭和30年代はまだ渡ることができた人島橋、昭和50年頃は朽ち果てて橋脚だけが川に残っていました。その橋脚だけになった姿が、写真に残っていたのです。

          かつて田布施川に架かっていた、幻の人島橋の位置


 この人島橋の名前は、平生町側の人島地区に由来します。今の人島地区は平野ですが、江戸時代以前には島だったのです。つまり、高塔と竪ヶ浜の間は煌々たる海で、その海の中に人島と呼ばれる島がありました。江戸時代を通じて、開作のため人島は崩されてしまいました。開作がほぼ完了した文化9年1812年に橋が架かりました。その頃、八海橋はまだ無く渡船場の船で行き来していました。

            橋脚だけとなった人島橋、〇は壊れた船(昭和50年頃)


 人島橋近くの田布施川の中州には悲しい歴史があります。それは、戊辰戦争で活躍した奇兵隊が反乱を起こし、捕まった隊士が処刑された場所なのです。私の祖母の言い伝えでは、この中州で行われた処刑を、祖母の母、つまり私の曾祖母が見ていたのです。もしかして、この橋の上から見たのかも知れません。別の言い伝えでは、処刑直後、夜な夜な、首がない我が子の遺体を背負って帰る母親がいたとのこと。田布施に住んでいる方ならば、家に幕末に関わる言い伝えが少なからず一つ二つあると思います。
 昭和30年代、田布施川の堤防沿いに茅がたくさん植えられていました。夜に堤防沿いを通ると、茅が風に揺れて不気味でした。私が子供の頃、中州近くの堤防道を歩くとき、息を止めて早く通り過ぎるように言われました。それは、悲しい刑場話の名残だったのかも知れません。

    刑場があった中洲(昭和50年頃)      八海近くに放置された船(昭和50年頃)
 

 なお、人島橋跡の高塔側に一体のお地蔵様が安置されています。向かって左側に人島橋架橋(文化9年)の石碑が建っています。右側には再架橋(昭和2年)の石碑が建っています。不思議なことに、お地蔵様には何の文字が何も刻まれていないです。言い伝えでは、処刑された隊士を弔うためとのこと。しかし、犯罪人として処罰された隊士を公に弔うことができません。そのため、無記名のまま有志が安置したのではないでしょうか。

       今では、石碑だけにしか痕跡が残されていない人島橋(昭和50年頃)

コメント
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