東京里山農業日誌

東京郊外で仕事のかたわら稲作畑作などをしていましたが、2012年4月に故郷の山口県に拠点を移して同活動をしています。

平生町 沼~宇佐木~田布路木方面ウォーキングの下見(1/2)

2016年01月14日 | 歴史探訪他ウォーキング

 2月のウォーキングは、平生町の沼~宇佐木~田布路木~古開作を歩く予定です。そのコースの下見をしました。平生町のMaxValuを出発して、最初に沼八幡宮に行きました。一昨年の赤子山ウォーキングでも最初に沼八幡宮に行きました。今回は沼八幡宮から大野毛利氏が葬られている秀巌寺に向かいました。このお寺は、大野毛利初代就頼の養父である吉見家の菩提を弔うために1614年に建てられました。

  沼八幡宮の鳥居            秀巌寺の本堂          秀巌寺の本堂内
  

 ところで、大野毛利の初代藩主の就頼は、吉川広家(毛利元就の孫、岩国領の初代領主)の次男です。いったん吉見家の養子になった後、大野毛利の初代藩主になりました。当時の高塔の吉見家に一時住んでいたとか。吉見家は元々は津和野付近の豪族で、戦国時代に毛利元就と激しく争った後に毛利家の家臣になったようです。なお、秀巌寺の裏には、大野毛利藩主の奥方殿の信心があつかった手水観音様が祀られた観音堂があります。なお仏像は無く、観音様が宿ったと言われる石が祀られています。秀巌寺は大野毛利の女性方の菩提寺だったそうです。

 秀巌寺裏の手水観音堂   2代目以降大野毛利藩主墓地   宇佐木の万徳寺
  

 ところで、大野毛利氏の二代以降は秀巌寺近くの海前寺跡に葬られていました。しかし、明治以降廃寺となりました。そのため、今は秀巌寺で弔っているとのことでした。秀巌寺と観音堂を見学すると、海前寺跡にある大野毛利家の墓地を見学しました。かつては伽藍が立派だっただろうと思わせる石垣がありました。

    宇佐木の万徳寺、江戸初期に創建、それ以前は庵のようなものだったとか?


 なお、吉川が治める岩国にはお城があります。基本的に一国一城のはずですので、長州藩に萩城と岩国城の二つのお城があるのは変です。二つ城がある理由は、幕府から見て岩国を治める吉川と長州を治める毛利を別々の大名と見ていたからです。このため、岩国支藩ではなく、岩国領なのです。このため、藩主ではなく領主です。このように、毛利と吉川は関ヶ原の戦い以降とても複雑な関係だったようです。

  白井小介の顕彰碑     周陽第十八番ヶ所霊場     白井小介飯山塾跡
  

 海前寺跡を出ると宇佐木の万徳寺に行きました。元ご住職のお配慮で、本殿を見学後に中で昼食休憩を取らせていただきました。ありがとうございました。万福寺は江戸初期創建とのことで、それ以前は庵のようなものだったそうです。寺の前には、かつて海が広がっていたそうです。地名「宇佐木」の由来は、九州の宇佐からきているではないかとのことでした。
 万徳寺を出ると、田布路木峠にある白井小介の顕彰碑に行きました。そして、その近くの一心堂を見学しました。一心堂には周陽第十八番ヶ所霊場の御札が架かっていました。続いて、白井小介が開いていた飯山塾跡に行きました。次に、白井小介の顕彰碑の近くにある国木田独歩の碑に行きました。

         下見で歩いた、平生町 沼~宇佐木~田布路木方面コース

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