東京里山農業日誌

東京郊外で仕事のかたわら稲作畑作などをしていましたが、2012年4月に故郷の山口県に拠点を移して同活動をしています。

父親の見舞い、古い写真整理ほか

2012年04月22日 | 家族関連

 午前中、父親の見舞いに母親と娘とで行ってきました。相変わらず酸素マスクは取れない状況です。だいぶ良くなってきましたが、ただ会話が一方的です。こちらの会話は分かるようで、返事したりうなずいたりできますが発語はあまり多くありません。自分から問いかけるようなことはありません。少しずつ良くなって自分からは話しかけたりできるまでに回復できるといいと思います。

      おしぼりで顔を拭いている娘      病院から帰ってくつろぐ母親と孫娘
 

 病院から帰って昼食を食べた後に、昔の写真を取り出して母親や娘に見せました。すると母親が懐かしそうに説明をし始めました。娘も興味津々に古い写真を見ていました。私がよく知らない写真もたくさんありましたが、いろいろ話をしてくれました。 

   古い写真を懐かしそうに見る母親      私が生まれたばかりの時の写真
 

 私が生まれたばかりの時の写真を見て、娘が「かわいい!」ととてもはしゃいでいました。自分が小さい時の写真はよく見ますが、父親が子供の頃の写真を見たことが無かったので珍しかったのでしょう。そして、私の家の名前「高橋」の由来を母親が娘に話をしていました。四国出身の人「高橋」と私の父方祖父の姉が明治後期に知りあって結婚し、その姉が「高橋」姓になったことが元々の発端です。
 下の写真で、J:父方祖父の姉 K:四国出身の「高橋」 L:中田久子

  左は父方祖父の姉、高橋に嫁ぐ          養女に行った父親の姉「中田久子」
   (
大正5年8月10日の日付)           若くして早世(下写真Fの娘)
 

 しかし、高橋姓になった父方祖父の姉は子宝に恵まれませんでした。そこで、私の父方祖父「中田幸槌」の娘である「中田久子」が高橋家に養女に入りました。しかし、若くして早世しました。自転車に乗っていて転倒し胸を強く打って大怪我した予後が悪く、また結核を併発するなどして早世したとのことらしいのです。その母親である私の父方祖母「中田ソメ」はそれがとても悲しかったようで、我家に来るたびに仏壇に飾ってあった上の右写真をよく見つめていました。そして、「ひーちゃん、ひーちゃん」と何度も言っては背中を丸めてよく泣いていました。お気に入りの娘が早世したことが、とても辛く悲しかったのでしょう。

 方祖母と父方祖父(父親兄弟の親)   父親の兄弟(もう一人の久子は早世)
                                                             父親の S:弟,R:長兄,P:姉

 

 その後早世した「久子」の代わりに、今度は私の父が養子に入り高橋姓になったとのことです。ところで、父方の中田姓の由来は祝島からだそうです。江戸後期か明治初期に塩田で使う薪を運ぶ人のなかに祝島出身の中田姓の人がいて、この人が平生町人島に住んでいた女性と結婚して住みついたらしいとのこと。
 ところで、私には私をとてもかわいがってくれた祖母が二人います。一人は父方の祖母Fです。私が保育園に通っていた幼児時に学芸会などには必ず見に来てくれました。いろんなお祭りや平生町にあった平生座で公演していた劇や映画などにもよく連れて行ってくれました。とても信心深いおばあちゃんでした。小学生時代にも運動会など必ず来てくれました。かけがえのない私のおばあちゃんでした。しかし、私が20歳代後半に亡くなりました。

          父方祖母(中田ソメ)の笑顔      父親の姉の娘二人(上写真Pの娘)
 

 私はこれまで、父親の兄弟にずいぶんとお世話になりました。例えば、父親の姉夫婦にはこれまで何これとなくお世話になりました。また、その娘(上右の写真参照)とも親しくさせてもらっています。今、娘の一人(上の写真U)は母親(父親の姉P)を介護をしています。先日、お邪魔させていただき親しく歓談しました。

     父親の姉家族を自宅に招いて      国立市在住だった母方父の妹(右端)
  P:父親の姉、T:Pの娘、右端:Pの夫,       私が小学生の頃一緒に
  Pの左:私の妹,その左私の母,           柳井市伊保庄(よのしょう)を
    しゃがむ父,
Tの娘二人             訪ねるも今は物故 下写真Dの娘
 

 次に、私の覚えがある写真で出てきました。母方の写真です。下の写真は昭和初期の写真で、私の母親が二十歳頃の写真です。母親の兄弟3人,母親の母(私の祖母:小林やえ),そして母親の祖母(小林タケ:私のひいばあさん)が写っています。小林タケは伊保庄の福井畑(ふくいばた)の山崎家から山近の小林家に嫁にきたとのこと。母親が子供の頃、小林タケの実家(山崎家)によく遊びに行ったとのこと。そして、山崎家にあったたくさんの本を読んだりもらったそうです。母親の父親(小林安太郎)は母親が10歳頃に亡くなっているため写っていません。なお、母親の母(小林やえ)には兄弟がたくさんいました。アメリカ在住の姉(物故)、家を継いだ柳井市伊保庄の弟「奥原良一」(物故)、宇部市在住の妹(物故)などです。

 下の写真は、A:私の母親,B:母親の母(私の祖母),C:私の母親の弟,D:母親の祖母,D:母親の妹

        A:高橋三笠,B:小林やえ,C:小林力,D:小林タケ,E:金福みほ


 次に私の知らない写真がありました。この写真は私の母方祖母(小林ヤエ)の姉の写真だと母親が説明してくれました。アメリカのデトロイトに住んでいて、二人の娘がいるとのことです。年齢的に、第二次世界大戦の時にアメリカの日本人収容所に入っていたのではないかと思れますが今や確かめるすべはありません。

   M:私の母方祖母小林やえBの姉    N,O共にMの娘、どちらかが節子
 

 私の母方の親戚(叔父,叔母,従弟たち)は、私が8歳の時にブラジルに移住しました。私はその従弟たちとよく遊んだので、後でブラジルに行ったと聞いてとても悲しかったことを覚えています。特に下の写真の金福よしふみとその母親の金福みほはよく覚えています。確か、金福よしふみには小さな妹が一人いました。数年前に母親の妹である金福みほが山口県に来たとのこと。その時のもらったらしい写真(下左の写真)が我家にありました。

 I:金福よしふみ,E:金福みほ ブラジルに出発する船から旗をふる祖母、叔母、従弟
      2007.12.7付                  1960

 

 東京から山口県に帰ってから時間があるせいか、少しずつ親戚の動向に興味を覚えるようになりました。特に、母親が住んでいた伊保庄の山近に興味が湧いています。子供の頃に山近に何度か行ったため、記憶にわずかに残っています。小学生の頃、母の父親の妹と山近を訪れた時に、いろいろ山近のお墓や周りを散策したこどかあります。また、最近小林力の遊び友達だった通称:きよちゃんに逢うことができました。近々、山近に行ってみようと思います。

       飼っていた羊の前で         E:金福みほ、B:小林やえ(物故)


 私が保育園に行っていた頃、家族写真を撮ったことをかすかに覚えています。麻郷の写真館までとぼとぼ歩いて撮影しに行きました。写っている私と母親を除くと、B:私の母方祖母の小林やえ,F:私の父方祖母の中田ソメ,父親兄弟の長兄の娘Gと長男Hです。当時、写真機は高価でした。この時代、写真を撮影するためにわざわざ写真館に行って撮影していました。このため、写真を撮ることはとても貴重な家族の証でした。なお、B,Fはすでに亡くなっています。

               私が幼稚園の頃、写真館で撮った家族写真


  上の写真Bは、母親の母(私の祖母:小林やえ)です。私が幼少の頃にとても私をかわいがってくれたおばあちゃん二人のうちの一人です。面長美心の人でした。夫(私の母親の父)は銀行員でしたが、株関連の失敗で一夜にして家屋敷を失ったとのこと。そして、それを補うために大分県の別府に引っ越しして旅館を経営するも、母親が10歳の頃にその夫は流行病で亡くなったとのこと。このため、人に言われぬような苦労をしたと思います。例えば、極貧になったため私の母親を含む兄弟3人(三笠,力,みほ)がバラバラに親戚に引き取られる話まで出たようです。しかし、子供たち三人を手元に置いて必死に働いて育てたとのこと。私から見ても、とても働きもののおばあちゃんでした。
 私の妹もこの祖母にかわいがられ、我家の別室で一緒に暮らしていました。しかし、自分の娘(三笠)の嫁ぎ先に暮らさせてもらうのが負い目だったのか、私が小学2年生の夏に自分の息子(母親の弟:力)、娘(母親の妹:みほ)と一緒にブラジルに移住しました。とても好きだったこのおばあちゃん。ブラジルに移住後一度も会えず、20年位前に亡くなりました。亡くなった後、このおばあちゃんのベッド下から日本の写真や手紙がたくさん出てきたそうです。私は一生、このおばあちゃんの笑顔が忘れられないでしょう。

       苦労するも働き者で、その笑顔が忘れられない大切な祖母(小林やえ)

コメント
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