4月12日午後突然に、病院から父親の容体悪化の連絡を受けました。急いで病院に駆けつけると、父は酸素マスクをした上に、点滴を受けており、さらに心電図などのモニター用のコードが付いていました。容体も、目はうつろで声をかけても反応がない状況でした。ドクターの面談をうけると「万が一の場合、今夜お迎えが来るかも知れない。」とのことでした。
父親の危篤に急遽集まった家族 全員で病院に駆けつける
13日の夕方に息子が、深夜に家内が、そして14日早朝に娘がシンガポールから急遽飛行機で帰国しました。久しぶりに家族全員が集まりました。娘は飛行機に7時間位乗った上に、初めての博多空港に降り立ったので、とても疲れていたようでした。このため、少し休んで危篤の父親の元に行きました。
集まった、私の家族や私の妹の主人と姪
12日、13日と父親は危篤が続きましたが、14日に親戚や家族全員が見舞いに行った時は少し持ち直していました。会話はできませんでしたが、こちらの言っていることは分かるようで、首や手を動かすなどなんとか話そうとしているようでした。父親に、本人が元総理大臣岸信介の秘書をしていた時の看板を見せると嬉しそうな表情をしました。いろいろ話そうとしていることを耳元でなんとか聞くと、戦時の満州での辛い戦争体験と、岸信介の秘書をしていた時のことをしきりに話そうとしているようでした。
静かに父親を見守る私の家族 岸信介秘書時代の看板を見せる娘
あまり長く病室にいると父親が疲れるとのことで、静かに見守るなどして早々に病室から出ました。この病院は海に面する山の上にあります。このため、天気がいいと遠くの海まで見通すことができます。病院の食堂兼休憩所のベランダに出てみると、綺麗な海が広がっていました。わずかに四国の山々を確認することができました。
病院の食堂兼休憩所のベランダに出て、遠くの海を眺める
病院を出ると、家族で食事をとりました。平生町にある「しょうぶ」と呼ばれる海鮮料理店です。刺身をメインとした食事を取りました。父親が危篤状態から抜け出て持ち直したので、みんな安堵しました。しかし私としては、せっかく山口県に帰ったのに今後は一緒に農作業できないのかと思うととてもさびしいものがあります。
海鮮料理店に立ち寄る 主にお刺身をメインにした和食