「サヨンの鐘」という懐メロをご存じでしょうか。作詞西条八十、作曲古賀政男で、昭和16年に作られた歌です。若い世代はまったく知らないような、今ではもうすっかり忘れ去られたような曲ですが、この歌は台湾で起こったある出来事がもとになった歌なのです。
その歌を訪ねて蘇花公路を南下し、宜蘭縣の南端、南澳の町にいってきました。途中海岸線を走っていくのですが、その景色がとっても綺麗!!美しい風景を見ながら南澳へと向かいました。
さて、「サヨンの鐘」の歌詞の一部をちょっとご紹介しましょう。
嵐吹きまく 峰ふもと 流れ危うき 丸木橋
渡るは誰ぞ うるわし乙女 紅きくちびる ああサヨン
散るや嵐に 花ひとえ 消えて哀しき 水けむり
番社の森に 小鳥はなけど 何故に帰らぬ ああサヨン
もっと詳しく知りたい方は こちらのYOU TUBEでどうぞ。
“日本統治時代、タイヤル族が住む南澳の村に教師兼警察官をしていた武田正樹という日本人がいました。時は第二次世界大戦真っ最中、武田氏にも赤紙が来て戦地に赴くことになりました。武田正樹の教え子でタイヤル族の女性サヨンは、先生を見送るために駆けつけますが、その日は大嵐の悪天候。橋を渡る途中にサヨンは足を滑らせ、川に落ちて死んでしまいました。”
という実話をもとに、「サヨンの鐘」は作られたとのことです。当時の日本の指導者はサヨンの死を知り、この歌を作るよう指示したと聞いています。
さて、台鐵武塔駅の向かい側に大きなショッピングセンターがあるのですが・・・・
そのすぐ脇に「沙韻紀念公園」と書かれた鳥居が見えます。
鳥居をくぐると、赤い屋根瓦の東屋が姿を現します。真正面には「沙韻之鐘」と刻んだ石がありますが、これが「サヨンの鐘」の歌を記念した館なのです。
中華民国87年6月に作られたものということですから、1998年にできたまだ新しい東屋なんですね。
「サヨンの鐘」という歌が作られた所以についても説明がありました。
東屋の上部には鐘が吊されていました。
さて、この東屋では2時ちょうどとか3時ちょうどとか、ジャストタイムになると「サヨンの鐘」の歌が流れます。最初は日本語で、次に中国語で流れます。中国語の歌はメロディーはもちろん同じですが、歌詞の内容は「サヨンの鐘」とは異なっています。題名も中国語では「月光小夜曲」といいます。
この辺りはカニ漁でも有名なのでしょうか、沙韻紀念公園の敷石にはこういうふうにカニのモチーフが・・・
さて、サヨンゆかりの場所は他にもあります。武塔のタイヤル族の集落には、サヨンが足を滑らせて命を落としたという「サヨン橋」があります。その橋を見に行ってみました。
ありました、ありました。これがサヨン橋です。石には「沙韻橋」と刻まれています。
石のもう一方の側面にはV字型の黒い線が刻まれていますが、これはおそらく、タイヤル族が以前に顔に施していた入れ墨の模様だろうと思われます。
現在のサヨン橋はこんなに立派な橋です。歌詞には“丸木橋”とありますから、きっと後に橋が整備されたのでしょう。
橋の近くにこの辺りの地図がありました。この地図を見ながら蘇澳鎮を巡ってみるのも一興ですね。
橋から800メートルほど東にある小高い丘に記念碑が建っていました。これもサヨンを記念したものです。碑には“愛国乙女サヨン遭難之地”と刻んでありました。しかし、カタカナで“サヨン”と刻まれた部分は削られていました。おそらく国民党によるものでしょう。
碑の側面には“昭和十三年九月二十六”と刻まれていました。サヨンがなくなった日でしょうか。
この村のタイヤルの方にサヨンのことを訊ねてみました。お年寄りは日本語が話せるので、
「知ってるよ。」とお話ししてくれました。「サヨンの故郷はここじゃなくてもう少しあっちだ。」と、北の方角を指さしていました。
タイヤルの子どもにもサヨンのことを聞いたことがあるか、訊ねてみました。タイヤルの子どもは皆、知っていると答えていましたので、やはりサヨンは有名なんでしょう。
サヨンが亡くなった話や、「サヨンの鐘」の歌ができたエピソードなどは、当時の日本政府が啓蒙主義を強化するために捏造したものだという説もあります。 しかし、例え捏造であったとしても、武田正樹という日本人が南澳のタイヤルの村で、一生懸命生き、現地の人に慕われていたのは間違いないと信じたいと思います。そして、サヨンをはじめ、多くのタイヤルの方と当時そこに暮らしていた日本人が、力を合わせて一緒になって、生活していたのだと信じたいものです。
サヨンを巡る旅は、南澳の無料観光バスで回れます。時間帯は台鐵南澳駅から、8:30、10:30、14:00、16:00発だそうです。
-->
その歌を訪ねて蘇花公路を南下し、宜蘭縣の南端、南澳の町にいってきました。途中海岸線を走っていくのですが、その景色がとっても綺麗!!美しい風景を見ながら南澳へと向かいました。
さて、「サヨンの鐘」の歌詞の一部をちょっとご紹介しましょう。
嵐吹きまく 峰ふもと 流れ危うき 丸木橋
渡るは誰ぞ うるわし乙女 紅きくちびる ああサヨン
散るや嵐に 花ひとえ 消えて哀しき 水けむり
番社の森に 小鳥はなけど 何故に帰らぬ ああサヨン
もっと詳しく知りたい方は こちらのYOU TUBEでどうぞ。
“日本統治時代、タイヤル族が住む南澳の村に教師兼警察官をしていた武田正樹という日本人がいました。時は第二次世界大戦真っ最中、武田氏にも赤紙が来て戦地に赴くことになりました。武田正樹の教え子でタイヤル族の女性サヨンは、先生を見送るために駆けつけますが、その日は大嵐の悪天候。橋を渡る途中にサヨンは足を滑らせ、川に落ちて死んでしまいました。”
という実話をもとに、「サヨンの鐘」は作られたとのことです。当時の日本の指導者はサヨンの死を知り、この歌を作るよう指示したと聞いています。
さて、台鐵武塔駅の向かい側に大きなショッピングセンターがあるのですが・・・・
そのすぐ脇に「沙韻紀念公園」と書かれた鳥居が見えます。
鳥居をくぐると、赤い屋根瓦の東屋が姿を現します。真正面には「沙韻之鐘」と刻んだ石がありますが、これが「サヨンの鐘」の歌を記念した館なのです。
中華民国87年6月に作られたものということですから、1998年にできたまだ新しい東屋なんですね。
「サヨンの鐘」という歌が作られた所以についても説明がありました。
東屋の上部には鐘が吊されていました。
さて、この東屋では2時ちょうどとか3時ちょうどとか、ジャストタイムになると「サヨンの鐘」の歌が流れます。最初は日本語で、次に中国語で流れます。中国語の歌はメロディーはもちろん同じですが、歌詞の内容は「サヨンの鐘」とは異なっています。題名も中国語では「月光小夜曲」といいます。
この辺りはカニ漁でも有名なのでしょうか、沙韻紀念公園の敷石にはこういうふうにカニのモチーフが・・・
さて、サヨンゆかりの場所は他にもあります。武塔のタイヤル族の集落には、サヨンが足を滑らせて命を落としたという「サヨン橋」があります。その橋を見に行ってみました。
ありました、ありました。これがサヨン橋です。石には「沙韻橋」と刻まれています。
石のもう一方の側面にはV字型の黒い線が刻まれていますが、これはおそらく、タイヤル族が以前に顔に施していた入れ墨の模様だろうと思われます。
現在のサヨン橋はこんなに立派な橋です。歌詞には“丸木橋”とありますから、きっと後に橋が整備されたのでしょう。
橋の近くにこの辺りの地図がありました。この地図を見ながら蘇澳鎮を巡ってみるのも一興ですね。
橋から800メートルほど東にある小高い丘に記念碑が建っていました。これもサヨンを記念したものです。碑には“愛国乙女サヨン遭難之地”と刻んでありました。しかし、カタカナで“サヨン”と刻まれた部分は削られていました。おそらく国民党によるものでしょう。
碑の側面には“昭和十三年九月二十六”と刻まれていました。サヨンがなくなった日でしょうか。
この村のタイヤルの方にサヨンのことを訊ねてみました。お年寄りは日本語が話せるので、
「知ってるよ。」とお話ししてくれました。「サヨンの故郷はここじゃなくてもう少しあっちだ。」と、北の方角を指さしていました。
タイヤルの子どもにもサヨンのことを聞いたことがあるか、訊ねてみました。タイヤルの子どもは皆、知っていると答えていましたので、やはりサヨンは有名なんでしょう。
サヨンが亡くなった話や、「サヨンの鐘」の歌ができたエピソードなどは、当時の日本政府が啓蒙主義を強化するために捏造したものだという説もあります。 しかし、例え捏造であったとしても、武田正樹という日本人が南澳のタイヤルの村で、一生懸命生き、現地の人に慕われていたのは間違いないと信じたいと思います。そして、サヨンをはじめ、多くのタイヤルの方と当時そこに暮らしていた日本人が、力を合わせて一緒になって、生活していたのだと信じたいものです。
サヨンを巡る旅は、南澳の無料観光バスで回れます。時間帯は台鐵南澳駅から、8:30、10:30、14:00、16:00発だそうです。
私は「サヨンの鐘」という歌は知らないのですが、
悲しい出来事を元に作られた歌なんですね。
ももママさんのおっしゃる通り、色んな説があるにせよ、
タイヤルの方々と日本人が共に一生懸命生きていたことを願いたいです。
先日『台湾人生』という映画を見に行ったんですが、
戦前から今を生きる台湾のお年寄りに焦点を当てたドキュメンタリー映画で
とても考えさせられるものがありました。
『台湾人生』という映画を見に行かれたのですか!
ドキュメンタリーなのですね。
私も見てみたいです。
こちらでは、日本時代を過ごした多くのお年寄りがいらっしゃいますが、それぞれ大変な苦労をされています。
でも、私達のような戦争を知らない日本人にも親切に接してくださって、いつも感謝をしつつ暮らしております。