昨日の記事を読んでもらったらわかると思いますが、自分の映画レビューははっきり言って凡庸(以下)です。
書いた自分が言うのもなんですが、あの記事を読んでレビューをしていた映画を観に行くかどうかは決められないと思います。
まぁでも凡庸なのはレビューだけではないんですよね。
映画の見方そのものが凡庸なんです。
何となく映画を観て、何となく感想めいたものを抱いて、何となくレビューを書く。
すべてが何となくなんです。
なので、自分の映画レビューで人を感動させるなんてことは一生ないと思っています。
ただ、本当に稀なのですが、人と違った映画の見方をすることがあります。
100人のうち、99人はそういうふうには捉えないだろう、という見方です。
過去にそういう見方をした映画はそう多くありません。
『ガタカ』と『ダークナイト・ライジング』と『マーダーズ』ぐらいかなぁ、小説であれば『残り全部バケーション』もそうなんですけれど。
100人のうち、99人が違う見方をするだろうと思いつつ、同時に自分の見方の方が絶対に正しいという自信があります。
そういう自分の態度に多くの人が「それってあなたがそう決めつけているだけでしょう?」とか「あなたが勝手にそう思い込んでいるだけですよね?」と言ってきます。
確かに自分は決めつけていて、思い込んでいます。
しかしその決めつけはロジックにより導かれたものであり、その思い込みにはきちんとした根拠があります。
例えば自分は『ダークナイト・ライジング』でブルース・ウェインは死んだ、と考えます。
その主張に、何を言っているんだ、カフェで談笑しているブルースをアルフレットが見つけたところでお話は終わるじゃないか、お前は見ていないのか、という人がいます。
もちろん見ていますよ。見た上でそう考えているのです。
そう考えるに至る根拠は一つならずあります。
しかしそれを一々列挙するのは時間がかかるので、一つ挙げるとすると、ブルースからの連絡がなかったこと、ですね。
ブルースとアルフレッドは主人と執事という間柄ですが、両親を亡くしたブルースのことをアルフレッドは我が子のように慈しみ、育ててきました。
ブルースもそのことは充分感じ取っていたはずです。
ブルースの生死が不明になってアルフレッドは文字通り死ぬほど心配したことでしょう。
あの時自分が協力を拒否したからブルースは死んでしまったのではないか、そう自分を責めたはずです。
ブルースが本当に生きていたら、アルフレッドに余計な心配はさせないはずです。
電話の一本でも入れて、「アルフレッド、心配をかけたな。私は無事だ。これからもよろしく頼む」と自らの生存を知らせると思うのです。
世間に対してブルースが自らの生存を隠ぺいするのはわからないでもないです。
しかしそれをアルフレッドにする理由はないでしょう。
まして恐ろしく回りくどく、かなりの偶然性に頼ったやり方で自らの生存をアルフレッドに知らせなければならないというのか。
自分には全く想像出来ません。
もしブルースが生きていたらアルフレッドに生きていることを知らせるはずだ、その連絡がなかった以上、ブルースは死んだ、最後にアルフレットが見たのは(自責の念が見せた)ブルースの幻だった、という考えが思い込みだというのであれば、そうですね、自分は思い込みで映画を語る人間なのでしょう。
しかし、そうであるならば、なぜブルースはアルフレッドに連絡しなかったのか、その理由を生存派の方に説明してもらいたい、そう思います。
納得する理由があれば、二度とブルース死亡説を唱えることもないでしょう。
なかなか納得はしないと思いますが…。
書いた自分が言うのもなんですが、あの記事を読んでレビューをしていた映画を観に行くかどうかは決められないと思います。
まぁでも凡庸なのはレビューだけではないんですよね。
映画の見方そのものが凡庸なんです。
何となく映画を観て、何となく感想めいたものを抱いて、何となくレビューを書く。
すべてが何となくなんです。
なので、自分の映画レビューで人を感動させるなんてことは一生ないと思っています。
ただ、本当に稀なのですが、人と違った映画の見方をすることがあります。
100人のうち、99人はそういうふうには捉えないだろう、という見方です。
過去にそういう見方をした映画はそう多くありません。
『ガタカ』と『ダークナイト・ライジング』と『マーダーズ』ぐらいかなぁ、小説であれば『残り全部バケーション』もそうなんですけれど。
100人のうち、99人が違う見方をするだろうと思いつつ、同時に自分の見方の方が絶対に正しいという自信があります。
そういう自分の態度に多くの人が「それってあなたがそう決めつけているだけでしょう?」とか「あなたが勝手にそう思い込んでいるだけですよね?」と言ってきます。
確かに自分は決めつけていて、思い込んでいます。
しかしその決めつけはロジックにより導かれたものであり、その思い込みにはきちんとした根拠があります。
例えば自分は『ダークナイト・ライジング』でブルース・ウェインは死んだ、と考えます。
その主張に、何を言っているんだ、カフェで談笑しているブルースをアルフレットが見つけたところでお話は終わるじゃないか、お前は見ていないのか、という人がいます。
もちろん見ていますよ。見た上でそう考えているのです。
そう考えるに至る根拠は一つならずあります。
しかしそれを一々列挙するのは時間がかかるので、一つ挙げるとすると、ブルースからの連絡がなかったこと、ですね。
ブルースとアルフレッドは主人と執事という間柄ですが、両親を亡くしたブルースのことをアルフレッドは我が子のように慈しみ、育ててきました。
ブルースもそのことは充分感じ取っていたはずです。
ブルースの生死が不明になってアルフレッドは文字通り死ぬほど心配したことでしょう。
あの時自分が協力を拒否したからブルースは死んでしまったのではないか、そう自分を責めたはずです。
ブルースが本当に生きていたら、アルフレッドに余計な心配はさせないはずです。
電話の一本でも入れて、「アルフレッド、心配をかけたな。私は無事だ。これからもよろしく頼む」と自らの生存を知らせると思うのです。
世間に対してブルースが自らの生存を隠ぺいするのはわからないでもないです。
しかしそれをアルフレッドにする理由はないでしょう。
まして恐ろしく回りくどく、かなりの偶然性に頼ったやり方で自らの生存をアルフレッドに知らせなければならないというのか。
自分には全く想像出来ません。
もしブルースが生きていたらアルフレッドに生きていることを知らせるはずだ、その連絡がなかった以上、ブルースは死んだ、最後にアルフレットが見たのは(自責の念が見せた)ブルースの幻だった、という考えが思い込みだというのであれば、そうですね、自分は思い込みで映画を語る人間なのでしょう。
しかし、そうであるならば、なぜブルースはアルフレッドに連絡しなかったのか、その理由を生存派の方に説明してもらいたい、そう思います。
納得する理由があれば、二度とブルース死亡説を唱えることもないでしょう。
なかなか納得はしないと思いますが…。
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