この世界の憂鬱と気紛れ

タイトルに深い意味はありません。スガシカオの歌に似たようなフレーズがあったかな。日々の雑事と趣味と偏見のブログです。

トンマッコルへようこそ

2006-10-28 23:59:03 | 新作映画
 パク・クァンヒョン監督、『トンマッコルへようこそ』、Tジョイ久留米にて鑑賞。

 ジブリの正統なる後継者。

 観てない作品についてあれこれ言うなよ、と思われる方もいるかもしれないが、それも最もだと思うけれど、現在公開中の宮崎悟郎監督の『ゲド戦記』はまーったく観に行く気がしない。一週間レンタルになったら見てもいいかな、それぐらいの鑑賞意欲しかそそられない。
 なぜだろう、『ゲド戦記』にはジブリらしさが感じられないというか、あの作品で唯一評価してもいいかなと思えたのは手しま葵が歌う主題歌ぐらいで、ゴローちゃんもアニメ映画監督としてはともかく、作詞家としての才能はなかなかあるのだな~と感心してたら、その歌詞も萩原朔太郎の『こころ』のパクリでビックリでガックリで栗金団が出来そうだ。笑。
 本人は公式サイトとパンフレットでそのことが明記されているから問題ないといっているようだが、あれだけ『テルーの唄』を全面に押し立てて広告をしておきながら、その際は告知されることなく、さらにシングルCDには萩原朔太郎の名が一切記されていないのだから、問題がないわけがない。
 まぁ『ゲド戦記』以前からジブリが商業主義に走るようになってからの作品にはほとんど魅力は感じないのだけれど。そのうちパチンコ『風の谷のナウシカ』とか出てくるに違いない。笑。
 今となっては信じ難いことだが、宮崎駿は『ルパン三世 カリオストロの城』の劇場公開時、それまでの路線とは異なるロマンチックなルパンを作ってしまったがために、ルパンファンから叩かれるに違いないと怖れていたそうだ。このエピソードがどこまで本当なのかは知らないが、アニメ製作に一切関わったことのない息子に監督を任せ(一応反対したという話だが)、その息子は恥も外聞もなく先人の詩をそのまんまパクっちゃう今では、到底考えられない謙虚さだ。
 今でも年に数回は『カリオストロの城』を思い出したときに見る自分にとって(もちろん『カリオストロの城』は正確にはジブリ作品じゃない)、ジブリ作品にジブリらしさ(ジブリらしさって何よ?という定義はさておく)が見られなくなっているのには一抹の寂しさを感じないわけでもなかった。
 が、まさか韓国映画を観に行ってジブリらしさを見出すことになろうとは夢にも思っていなかった。
 村の入り口に置いてある土偶(?)は『千と千尋の神隠し』のワンシーンを思い起こさせるし、苔むした墜落機はまさに『ナウシカ』の腐海で朽ちた兵器群であるし、武器を捨て鍬や鋤を手に取る兵士たちはまるきり『未来少年コナン』のインダストリア兵だ。
 他にも随所でジブリアニメの思い起こさせるシーンのテンコモリで、自分は観ていて妙に懐かしくなった。
 結局のところパクリなのか、オマージュなのかは、その作品の志の高さによるのだと思う。『トンマッコルへようこそ』がもしジブリのワンシーンのパッチワークだけで構成されていたとしたら、所詮それは二流のパクリ作品といえるのかもしれない。自分もてっきりここまでジブリっぽい作品なのだから、最後もいかにもジブリらしい奇跡が起こってめでたしめでたしの大団円、みたいな結末なのだろうと高を括っていた。確かに奇跡は起こる。起こるのだけれど、代償も要求される。正直ビックリした。お気楽なハッピーエンドなのだろうと思い込んでいた自分は意表を突かれた。
 ここに、大好きなジブリ作品を実写にしてみたいという製作スタッフの、でも自分たちらしさ、韓国人らしさも決して忘れていませんよ、という主張が垣間見えて自分はとても感心した。兵士たちの、自分たちのやるべきことはすべて成し遂げた、その達成感に満ちた笑顔はとても印象的だった。
 無論著作権の関係だろう、ジブリ作品からの引用ですとか、宮崎駿に捧ぐとかいう断りは目にすることが出来なかったけれど、それでも数多のジブリ作品、そして宮崎駿へのリスペクトが感じられた作品だった。
コメント (4)
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