その頃の僕らは明日という言葉を知らなかった。
何しろ一日一日を生きていくだけで精一杯だったからね。気がつくと今日は終わっていて、いつのまにか次の日になっていた。だから明日なんていう言葉は僕らにとって大した意味がなかったんだ。
シスター・レイチェルや、シスター・アンジェラ、それにタウンゼント神父、他にも救護院の大人の人たちはいい人ばかりだよ。嫌いじゃないし、感謝もしてる。だけど、少しばかり恨んでもいる。
だって僕の中の、あれは何て言ったかな、ギリシャ神話の、そう、パンドラの箱を開けてしまったんだもの。そこには明日という名前の希望があった。そんなもの、知りたくなかった。それさえ知らなければ、もっと何もかも簡単にあきらめてしまうことが出来たっていうのに。
シスターたちには悪いけど、やっぱり神様って信じることが出来ないな。救護院の子供たちの世話をしているときも、聖歌隊で賛美歌を合唱しているときも、神父様のありがたいけれども退屈な説教を聞いているときもね。
どうしても駄目だよ。
どうしても神様がそばにいてくれるなんてこと、信じることが出来ないんだ。
僕の中の、何かを信じるなんて心は、あの日、エミリーと一緒に死んでしまったんだ。
エミリーは僕の妹の名前だ。でも本当に妹なのかどうかはよくわからない。兄妹だって言えば十人が十人信じるくらいに僕らは似てたし、僕ら自身そう信じていたけど、両親なんていなかったから、本当のところはよくわからないんだ。
この話をすると救護院の大人たちは決まって驚く。ご両親がいらっしゃらなくても、親代わりに育ててくださった方はいらっしゃるんでしょう、って。
でも誓っていうけど本当なんだ。僕らには両親も、育ての親と呼べる人もいなかった。時々気紛れに僕らを預かってくれる人たちもいたけど、それもなぜだか長くは続かなかった。
僕らはずっと一緒だった。物心ついたときから、ずっと。雨の日も風の日も、僕のそばにはエミリーがいた。永遠にずっと一緒だと思っていた。
生きていくためには何でもやった。駅での靴磨き、旅行者の荷物の置き引き、路地商店からの万引き、メッセンジャーボーイの真似事、中華レストランの残飯漁り、etc。僕らはすばしっこくて、たいがいのことを上手くやりおおせたけど、時にはしくじって痛い目に合うこともあった。一日の終わり、僕らは橋の下や、路地裏の片隅で身を寄せ合い、なるべく明日のことを考えないようにして深く眠った。
エミリーが客を取るようになったのは、彼女が八歳になってからのことだ。シスター・レイチェルは、それはとてもいけないことなの、と怒った顔をしていう。でも、その頃は、それがいけないことだなんて、僕は知らなかったんだ。客はたいてい僕らに優しくしてくれた。お金もびっくりするくらい、それこそ一週間か二週間、何もしなくても食いっぱぐれがないくらいくれたしね。
事が済むと、エミリーはいつも泣いていた。でも夕食に、普段口にすることが出来ないような物を食べさせてやると、エミリーはソフトクリームが大好きだった、笑顔を見せてくれた。
その日もいつもと変わらなかった。
顔役のマードックさんが話をつけた客を僕らに引き合わせる。客は僕に前金を渡し、いつものアパートメントのいつもの部屋にエミリーと消える。僕はドアの前で膝を抱えて座り込み、一時間か、二時間、待っている。
その男はずいぶんと上品な身なりをしていた。季節はもう初夏といってよかったけれど、厚手で、くすんだ灰色のオーバーコートを着ていた。何となく医者かなと思った。
男がエミリーと部屋の中に入り、僕はいつものようにドアを背にして座り込んだ。曇り空だった。
雨が降らなければいいと思った。雨が降ると、公園のソフトクリーム屋が店を閉めてしまうことがあるからだ。
二十分くらいたって、薄いドア一枚を隔て、エミリーが泣き出すのが聞こえた。運が悪かったな、と僕は誰にともなく呟いた。こういう商売をしていると、どうしても無抵抗の相手に暴力をふるうことに喜びを見出す人間を客に迎えることがある。あとでマードックさんに上得意でない、新しい客は出来るだけ控えてくれるようにお願いしようとその時は思った。
エミリーの泣き声は、いつしかすすり泣きに変わり、それもやがて耳をすませても聞こえないほど静かなものになった。
不意にそれすら止んだ。嫌な感じがした。
僕はいても立ってもいられず、いつもは決して開けることのない、そのドアのノブに手を掛けた。
ドアを開けた僕の目に飛び込んできたものを、とっさには理解できなかった。
これ以上ないというほどに目を見開き、口からは泡を吐きながら、ベッドの上からエミリーが僕の方へ右手を伸ばしていた。男の両腕は、エミリーのか細い首を容赦なく締め上げていた。僕の目の前で、エミリーの右手が不自然に二度、三度揺れ、そしてカクンと力無く垂れた。
僕の記憶はそこで途絶える。
血まみれの僕を発見したのは隣の部屋の住人だった。
男がなぜ僕に止めを刺さなかったのか、その時の僕にはわからなかった。慌てていたのか、それとも死んだものと勘違いしたのか、どちらにしろ、その事で男に感謝する気にはなれなかった。
警察には何も見ていないと答えた。男の顔はまともには見ていない、だから何も覚えていることなんてないと。
嘘だった。
目を閉じると、今でもはっきりと思い出せるよ。エミリーの首を力任せに手折った、虚ろで、濁った男の両の眼。まるで、現実の方が幻なんじゃないかと思えるぐらい、はっきりと思い出すことが出来る。
神様、シスター・レイチェルの言うとおり、もし本当にいらっしゃるなら、どうかお願いです。僕に、妹を守ってやることが出来なかった僕に、あの男を見つけ出すチャンスをお与えください。そして、あの男を殺すだけの、知恵と、勇気をお与えください・・・。そのためだったら、僕は何でもします。
神様、どうか、どうかお願いです・・・。
祈りとも、呪いとも取れる言葉を呟いて、僕は空を見上げた。風は頬に心地よく、日差しは暖かだった。
けれど、僕の心にそれが届くことはなかった。
*『空のない街』第一話 へ続く
何しろ一日一日を生きていくだけで精一杯だったからね。気がつくと今日は終わっていて、いつのまにか次の日になっていた。だから明日なんていう言葉は僕らにとって大した意味がなかったんだ。
シスター・レイチェルや、シスター・アンジェラ、それにタウンゼント神父、他にも救護院の大人の人たちはいい人ばかりだよ。嫌いじゃないし、感謝もしてる。だけど、少しばかり恨んでもいる。
だって僕の中の、あれは何て言ったかな、ギリシャ神話の、そう、パンドラの箱を開けてしまったんだもの。そこには明日という名前の希望があった。そんなもの、知りたくなかった。それさえ知らなければ、もっと何もかも簡単にあきらめてしまうことが出来たっていうのに。
シスターたちには悪いけど、やっぱり神様って信じることが出来ないな。救護院の子供たちの世話をしているときも、聖歌隊で賛美歌を合唱しているときも、神父様のありがたいけれども退屈な説教を聞いているときもね。
どうしても駄目だよ。
どうしても神様がそばにいてくれるなんてこと、信じることが出来ないんだ。
僕の中の、何かを信じるなんて心は、あの日、エミリーと一緒に死んでしまったんだ。
エミリーは僕の妹の名前だ。でも本当に妹なのかどうかはよくわからない。兄妹だって言えば十人が十人信じるくらいに僕らは似てたし、僕ら自身そう信じていたけど、両親なんていなかったから、本当のところはよくわからないんだ。
この話をすると救護院の大人たちは決まって驚く。ご両親がいらっしゃらなくても、親代わりに育ててくださった方はいらっしゃるんでしょう、って。
でも誓っていうけど本当なんだ。僕らには両親も、育ての親と呼べる人もいなかった。時々気紛れに僕らを預かってくれる人たちもいたけど、それもなぜだか長くは続かなかった。
僕らはずっと一緒だった。物心ついたときから、ずっと。雨の日も風の日も、僕のそばにはエミリーがいた。永遠にずっと一緒だと思っていた。
生きていくためには何でもやった。駅での靴磨き、旅行者の荷物の置き引き、路地商店からの万引き、メッセンジャーボーイの真似事、中華レストランの残飯漁り、etc。僕らはすばしっこくて、たいがいのことを上手くやりおおせたけど、時にはしくじって痛い目に合うこともあった。一日の終わり、僕らは橋の下や、路地裏の片隅で身を寄せ合い、なるべく明日のことを考えないようにして深く眠った。
エミリーが客を取るようになったのは、彼女が八歳になってからのことだ。シスター・レイチェルは、それはとてもいけないことなの、と怒った顔をしていう。でも、その頃は、それがいけないことだなんて、僕は知らなかったんだ。客はたいてい僕らに優しくしてくれた。お金もびっくりするくらい、それこそ一週間か二週間、何もしなくても食いっぱぐれがないくらいくれたしね。
事が済むと、エミリーはいつも泣いていた。でも夕食に、普段口にすることが出来ないような物を食べさせてやると、エミリーはソフトクリームが大好きだった、笑顔を見せてくれた。
その日もいつもと変わらなかった。
顔役のマードックさんが話をつけた客を僕らに引き合わせる。客は僕に前金を渡し、いつものアパートメントのいつもの部屋にエミリーと消える。僕はドアの前で膝を抱えて座り込み、一時間か、二時間、待っている。
その男はずいぶんと上品な身なりをしていた。季節はもう初夏といってよかったけれど、厚手で、くすんだ灰色のオーバーコートを着ていた。何となく医者かなと思った。
男がエミリーと部屋の中に入り、僕はいつものようにドアを背にして座り込んだ。曇り空だった。
雨が降らなければいいと思った。雨が降ると、公園のソフトクリーム屋が店を閉めてしまうことがあるからだ。
二十分くらいたって、薄いドア一枚を隔て、エミリーが泣き出すのが聞こえた。運が悪かったな、と僕は誰にともなく呟いた。こういう商売をしていると、どうしても無抵抗の相手に暴力をふるうことに喜びを見出す人間を客に迎えることがある。あとでマードックさんに上得意でない、新しい客は出来るだけ控えてくれるようにお願いしようとその時は思った。
エミリーの泣き声は、いつしかすすり泣きに変わり、それもやがて耳をすませても聞こえないほど静かなものになった。
不意にそれすら止んだ。嫌な感じがした。
僕はいても立ってもいられず、いつもは決して開けることのない、そのドアのノブに手を掛けた。
ドアを開けた僕の目に飛び込んできたものを、とっさには理解できなかった。
これ以上ないというほどに目を見開き、口からは泡を吐きながら、ベッドの上からエミリーが僕の方へ右手を伸ばしていた。男の両腕は、エミリーのか細い首を容赦なく締め上げていた。僕の目の前で、エミリーの右手が不自然に二度、三度揺れ、そしてカクンと力無く垂れた。
僕の記憶はそこで途絶える。
血まみれの僕を発見したのは隣の部屋の住人だった。
男がなぜ僕に止めを刺さなかったのか、その時の僕にはわからなかった。慌てていたのか、それとも死んだものと勘違いしたのか、どちらにしろ、その事で男に感謝する気にはなれなかった。
警察には何も見ていないと答えた。男の顔はまともには見ていない、だから何も覚えていることなんてないと。
嘘だった。
目を閉じると、今でもはっきりと思い出せるよ。エミリーの首を力任せに手折った、虚ろで、濁った男の両の眼。まるで、現実の方が幻なんじゃないかと思えるぐらい、はっきりと思い出すことが出来る。
神様、シスター・レイチェルの言うとおり、もし本当にいらっしゃるなら、どうかお願いです。僕に、妹を守ってやることが出来なかった僕に、あの男を見つけ出すチャンスをお与えください。そして、あの男を殺すだけの、知恵と、勇気をお与えください・・・。そのためだったら、僕は何でもします。
神様、どうか、どうかお願いです・・・。
祈りとも、呪いとも取れる言葉を呟いて、僕は空を見上げた。風は頬に心地よく、日差しは暖かだった。
けれど、僕の心にそれが届くことはなかった。
*『空のない街』第一話 へ続く