ブログ 「ごまめの歯軋り」

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後醍醐天皇

2020年09月28日 | 書評
稲 穂

鎌倉時代から南北朝動乱へ、室町期における政治・社会・文化・思想の大動乱期

2)  松村剛 著 「帝王後醍醐」 (中公文庫 1981年)(その5)

4) 建武の中興から足利尊氏の反乱

帝が京を追われてから約1年2ヶ月ぶりに京への道に着いた。5月18日船上山を出御され、足利の押さえている山陰道を取らずに南下し、5月30日に大塔宮系の赤松円心の支配する赤穂に到着し、赤松と正成の護衛で6月4日京都の東寺、そして5日に内裏に入られた。信義山を攻めている大塔宮のシナリオでは天皇親政とするならば、楠木、名和の軍を引きいて直ちに尊氏を追い出すべきであったのだが、宮の足利討滅計画は帝は採用しなかった。新田義貞の挙兵は5月8日で、鎌倉幕府の滅亡は22日となった。九州探題が滅亡したのは5月25日である。帝は大塔宮を征夷大将軍に任じたので、6月13日大塔宮は入京した。建武の中興は帝と尊氏との騙しあいの政治の場となった。建武中興の人事はいわゆる「位打ち」と称するいつもの武家に対する懐柔策であった。尊氏、正成が従三位に特進した。尊氏にとって位よりも、北条家の所領を弟の直義とともに二分して獲得したことの方が重要であった。尊氏は従来の上総、三河に加えて新しく常陸、下総、武蔵の国司職を得、直義は相模の国司職を得た。一族の上杉重能は伊豆の国司職を得た。九州まで恩賞が議論されないうちに菊池を抑えて、尊氏はすばやく九州の小弐、大友、島津の諸侯に守護識をもって答えた。乱後の武家への恩賞は護良親王と尊氏派の草狩場となったようだ。新田義貞は最初から無位無官であったので、名門の守護識に割って入ることは難しいようで越後の守護識と官位従四位を得たにすぎず、足利派と新田派の対立は鎌倉幕府崩壊後の直後から起った。帝は新たに設けた武者所に新田派を多用し、足利との分割統治に適用したようだ。そして帝は足利への牽制策として東北の経営に乗り出し奥州鎮守府を設置し大守に義良親王を任じ、出羽に寵臣葉室光顕を、陸奥守に北畠顕家を任じた。この二人の寵臣に尊氏の本貫地の背後を脅かそうという策である。公卿も武をかねて藩屏たるべしという政策によって千種忠顕を丹波に、洞院公賢を若狭に、成良親王を上野の太守に任じた。阿野廉子の長男の恒良親王を皇太子とした。成良親王(後征夷大将軍)の補佐は相模国守の足利直義であり、鎌倉府を設置した。

後醍醐帝は復位し、持明院統の光厳院には上皇の尊号が贈られ、その父後伏見院は出家した。新朝廷のなかでも分裂があった。建武の中興の朝廷人事でときめいたのは、隠岐・船上山派であった。千種忠顕、名和一族、結城親光、皇妃阿野廉子らの勢力である。名和一族への恩賞は楠木一族をしのいだのは、楠木は大塔宮の吉野派と見られていたからであろう。冷や飯を食らったのが吉野派である。高間氏、村上水軍の大三島祝、赤松氏らは碌な恩賞を得ていないばかりか、赤松氏は新田氏に所領を奪われている。吉野派の正規軍といえば楠木氏と赤松氏の軍だったので、赤松氏の没落は大塔宮の翼をもぎるようなものだった。帝の寵妃阿野廉子の第1皇子恒良親王が皇太子となったため、年長の親王5人(尊良、宗良、護良、玄円、躬良)の立場は一挙に不安定となった。建武の中興は僅か二年半でその間も戦乱は絶えなかった。建武元年1334年だけでも北条の残党が起こした乱は2ヶ月に一度ぐらいで頻発し、紀州飯盛山の大仏・長崎らの北条残党の乱やなかでも1335年7月の北条時行の中先代の乱では一時鎌倉が占領された。そして朝廷では恩賞方と雑訴決断所を設けて戦後処理を行なったが混乱を極めたという。建武朝廷の無能ぶりと社会の混乱は二条河原の落首にも書き残されている。諸国荘園の検注の2年間停止や公卿らの借金の徳政令は混乱に拍車をかけたといわれる。1334年10月突然クーデタ未遂事件が起きる。足利尊氏が阿野廉子に大塔宮謀反を讒訴したのである。大塔宮は逮捕され鎌倉に流罪となり、親王の直臣である日野浄俊らは斬られた。足利直義の手に大塔宮が渡されたと言うことは、これはいかに帝が大塔宮に冷淡であったということでそれが大塔宮の悲劇となった。1335年7月の中先代の乱で北条時行が鎌倉を攻めたとき、直義はまず手足纏となる大塔宮を刺殺した。8月上野太守であった成良親王を征夷大将軍とし直義が占領された鎌倉を攻めて奪い返した。尊氏はこの功で従2位と昇進し、勝ってに斯波家長を奥州管領に任命した。これは北畠顕家の奥州鎮守府に対抗させるためであった。建武2年10月15日に尊氏は鎌倉に下り実質的に幕府を創設し、地頭職や荘園を与えた。鎌倉幕府の再興であり、天皇親政の建武朝廷への反逆となった。源頼朝の義仲・義経追討宣旨と同じ手法で、11月18日尊氏は朝廷に新田義貞追討の奏請をおこなった。朝廷は驚愕し翌日、尊良親王を上将軍とし新田義貞を総師とする足利征伐を発進させた。上将軍尊良親王と二条為冬が東海道を下り、洞院実世を将軍とする第2軍が東山道を下った。尊氏謀反によって朝廷内の政治力学に影がさしてきた。反護良派としての隠岐派は立場に窮し、吉野派の楠木らが復権してきた。新田軍は12月始め手越河原で直義軍を破ったが追撃しなかった。尊氏は小山、結城の諸将を率いて箱根越えで三島を奪回して、大友軍の裏切りで官軍を崩壊させた。新田は逃げ帰って、楠木と名和の軍が宇治瀬田の守りについた。尊氏のほうも東山道を引き返す洞院実世軍と南下する奥州の北畠顕家の軍を背にして、一気に宇治瀬田を打開しなければならなかった。瀬田の守りは名和、千種、結城の軍で、宇治の守りは楠木正成であったが、尊氏の京都攻略は建武3年(1336年)1月1日より開始された。尊氏は宇治突破を諦め山崎へ迂回して京に入った。京都の占領は足利軍の威信を高め、軍事支配者としての名を確実なものにした。北畠顕家と洞院実世が比叡山に到着したのが13日となって、後醍醐派の京都攻撃は16日に開始された。尊氏は大敗し丹波篠山に引いた。1月30日帝らは叡山から降りて内裏に還御された。2月10日に西宮の打出浜で再び破れた尊氏は船で九州へ脱出し、こうして建武の中興は分裂し終わりを告げたのである。

(つづく)