紫 蘇
鎌倉時代から南北朝動乱へ、室町期における政治・社会・文化・思想の大動乱期
2) 松村剛 著 「帝王後醍醐」 (中公文庫 1981年)(その2)
1)大覚寺統後醍醐帝の親政と正中の変 (その2)
ではどうして家柄の低い母から出た醐醍醐帝が天皇になれたのかというと、それは母忠子が後宇多帝から離れて、後宇多帝の父に当たる亀山上皇に乗り換えたからである。このことで後宇多帝と亀山上皇の関係が悪化し、後の正中の変の要因となる。亀山上皇の女好きと乱脈な貴族の男女関係が後醍醐帝という怪物を生んだのである。家柄の低さがあって後醍醐帝は親王宣下(認知)を受けたのは15歳(親王尊治)になってからである。後宇多帝の意志薄弱さと忠子のご機嫌を取った亀山上皇の強引さにより、後二条天皇(後宇多帝の第1皇子)の皇子が幼少であったので、持明院統の花園天皇が即位し、皇太子に親王尊治が推された。後醍醐天皇に何人の妃がいたとか、何人の皇子・皇女がいたとかいうことには一切興味はないので記さないが、歴代最高数の皇子は嵯峨天皇の90人であろうか、亀山上皇は23人の妃と30人の皇子であったそうな。南北朝を語る上で必要な後醍醐帝の皇子は、第1皇子が藤原為子がもうけた尊良親王、第2皇子は西園寺実俊の娘遊義門一条がもうけた世良親王、第3皇子は北畠師親の娘親子がもうけた護良親王である。南北朝で最も活躍し、足利直義によって殺された武人皇子護良親王は悲劇の王として名高いが、出自の低さから後醍醐天皇とはしっくりいかなかったようだ。後醍醐帝が践祚したのは1318年であるが、まもなく父後宇多上皇が院政を廃止し(院政は白河上皇以来200年以上続いた)、後醍醐帝親政となった。数年後後宇多上皇が崩御されたとき、後醍醐帝の退位と東宮邦良親王の即位問題であった。関東へ使者が送られると、焦った後醍醐帝派の日野資朝らは六波羅探題を急襲する計画を立てた。1324年、正中の変は南北朝の騒乱の始まりとなった。日野資朝は後醍醐帝の永続を願って、山伏などの山岳修験者を連絡役として全国へ蜂起を呼びかける算段であった。後醍醐帝のブレーンは日野資朝と俊基で、戦力としては土岐頼兼、多治見国長にすぎなかったが、六波羅が情報を掴んだのは蜂起の4日前で、4条あたりで合戦が行なわれ瞬時に決着がついた。土岐家は北条氏とは血縁関係にあったが、承久の乱では後鳥羽上皇の武士だったため敗北し家は傾いた。さらに弘安8年の霜月騒動という北条貞時の御家人粛清事件に巻き込まれ、土岐定親は処刑された。こうして北条貞時の「得宗専制」が完成した。北条執権家の独裁体制は、北条政子尼将軍による源氏血脈の廃絶後、梶原・畠山・和田・三浦などの有力御家人の粛清によって確立し、北条が名実ともに執権になると、北条内部の宗主権争いは執権から得宗に政治の権限を移し、北条時頼から始まり貞時に至って専制体制が完成した。武氏すなわち地頭の願望は土地の既得権の安定(安堵)であった。そこから「一所懸命」という言葉が生まれた。地頭は戦費を負担して、国司や荘園と衝突した。宮方から獲得した土地は「新補地頭」といわれ鎌倉幕府の承認を得て「御恩」が成立した。頼朝以来の鎌倉幕府の政治は有力御家人の合議で始まったが、それが北条得宗家の独裁制になってしまった。北条家の御家人支配力は、度重なる元寇が戦費負担と「御恩」がないのでインセンティブが働かない(負担だけで戦争による実利がない)ため、次第に御家人の疲労が蓄積し、かつ得宗高時の指導力(やる気)のなさから求心力を失った。正中の変のとき奥州では内乱が続いていたが、北条貞将に5千の兵を授けて京へ向かわせ六波羅に常駐させた。六波羅は資朝と俊基を逮捕し、資朝の佐渡流刑、俊基の無罪、僧祐雅は追放と決まった。そして持明院統と大覚寺統はポスト後醍醐を画策し鎌倉へ矢のような急使を送った。幕府が動けなかったのは、高時の出家により執権が貞顕そして守時に移り、内乱寸前の状態であったからだ。
(つづく)