ブログ 「ごまめの歯軋り」

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後醍醐天皇

2020年09月25日 | 書評
紫 蘇

鎌倉時代から南北朝動乱へ、室町期における政治・社会・文化・思想の大動乱期

2)  松村剛 著 「帝王後醍醐」 (中公文庫 1981年)(その2)

1)大覚寺統後醍醐帝の親政と正中の変 (その2)

ではどうして家柄の低い母から出た醐醍醐帝が天皇になれたのかというと、それは母忠子が後宇多帝から離れて、後宇多帝の父に当たる亀山上皇に乗り換えたからである。このことで後宇多帝と亀山上皇の関係が悪化し、後の正中の変の要因となる。亀山上皇の女好きと乱脈な貴族の男女関係が後醍醐帝という怪物を生んだのである。家柄の低さがあって後醍醐帝は親王宣下(認知)を受けたのは15歳(親王尊治)になってからである。後宇多帝の意志薄弱さと忠子のご機嫌を取った亀山上皇の強引さにより、後二条天皇(後宇多帝の第1皇子)の皇子が幼少であったので、持明院統の花園天皇が即位し、皇太子に親王尊治が推された。後醍醐天皇に何人の妃がいたとか、何人の皇子・皇女がいたとかいうことには一切興味はないので記さないが、歴代最高数の皇子は嵯峨天皇の90人であろうか、亀山上皇は23人の妃と30人の皇子であったそうな。南北朝を語る上で必要な後醍醐帝の皇子は、第1皇子が藤原為子がもうけた尊良親王、第2皇子は西園寺実俊の娘遊義門一条がもうけた世良親王、第3皇子は北畠師親の娘親子がもうけた護良親王である。南北朝で最も活躍し、足利直義によって殺された武人皇子護良親王は悲劇の王として名高いが、出自の低さから後醍醐天皇とはしっくりいかなかったようだ。後醍醐帝が践祚したのは1318年であるが、まもなく父後宇多上皇が院政を廃止し(院政は白河上皇以来200年以上続いた)、後醍醐帝親政となった。数年後後宇多上皇が崩御されたとき、後醍醐帝の退位と東宮邦良親王の即位問題であった。関東へ使者が送られると、焦った後醍醐帝派の日野資朝らは六波羅探題を急襲する計画を立てた。1324年、正中の変は南北朝の騒乱の始まりとなった。日野資朝は後醍醐帝の永続を願って、山伏などの山岳修験者を連絡役として全国へ蜂起を呼びかける算段であった。後醍醐帝のブレーンは日野資朝と俊基で、戦力としては土岐頼兼、多治見国長にすぎなかったが、六波羅が情報を掴んだのは蜂起の4日前で、4条あたりで合戦が行なわれ瞬時に決着がついた。土岐家は北条氏とは血縁関係にあったが、承久の乱では後鳥羽上皇の武士だったため敗北し家は傾いた。さらに弘安8年の霜月騒動という北条貞時の御家人粛清事件に巻き込まれ、土岐定親は処刑された。こうして北条貞時の「得宗専制」が完成した。北条執権家の独裁体制は、北条政子尼将軍による源氏血脈の廃絶後、梶原・畠山・和田・三浦などの有力御家人の粛清によって確立し、北条が名実ともに執権になると、北条内部の宗主権争いは執権から得宗に政治の権限を移し、北条時頼から始まり貞時に至って専制体制が完成した。武氏すなわち地頭の願望は土地の既得権の安定(安堵)であった。そこから「一所懸命」という言葉が生まれた。地頭は戦費を負担して、国司や荘園と衝突した。宮方から獲得した土地は「新補地頭」といわれ鎌倉幕府の承認を得て「御恩」が成立した。頼朝以来の鎌倉幕府の政治は有力御家人の合議で始まったが、それが北条得宗家の独裁制になってしまった。北条家の御家人支配力は、度重なる元寇が戦費負担と「御恩」がないのでインセンティブが働かない(負担だけで戦争による実利がない)ため、次第に御家人の疲労が蓄積し、かつ得宗高時の指導力(やる気)のなさから求心力を失った。正中の変のとき奥州では内乱が続いていたが、北条貞将に5千の兵を授けて京へ向かわせ六波羅に常駐させた。六波羅は資朝と俊基を逮捕し、資朝の佐渡流刑、俊基の無罪、僧祐雅は追放と決まった。そして持明院統と大覚寺統はポスト後醍醐を画策し鎌倉へ矢のような急使を送った。幕府が動けなかったのは、高時の出家により執権が貞顕そして守時に移り、内乱寸前の状態であったからだ。

(つづく)


後醍醐天皇

2020年09月24日 | 書評
そば畑

鎌倉時代から南北朝動乱へ、室町期における政治・社会・文化・思想の大動乱期

2)  松村剛 著 「帝王後醍醐」 (中公文庫 1981年)(その1)

1)大覚寺統後醍醐帝の親政と正中の変 (その1)

「御醍醐帝の出現と建武の中興なしには明治維新は考えられない」と著者はあとがきに述べている。しかしこの言は明治維新後のかなり後期における天皇制国体論のための「あとつけ」理由であって、維新の志士は欧米列強の日本侵略への危機感にかられれて日本の近代化に向けて行動したのであって、決して時代錯誤も甚だしい天皇親政を目指したのは決してなかった。倒幕テーゼならなんでも利用しただけの事である。それが証拠に最初は「尊皇攘夷」のスローガンを掲げたたが、下関戦争と薩英戦争で近代兵器の前の粉砕されると、あっさりと頑迷な朝廷の攘夷スローガンを棄て英国との同盟関係に向かったではないか。戦前の皇国史観は南朝正統論を採用し、南朝の不都合なことは大本営発表のように嘘で固められ、それに触れることはタブー視された。つまり戦前は正当な歴史的扱いが拒否され、戦後は民主化のため誰もまともに南朝の事を扱わなくなったと著者はいう。そこで本書が南朝と御醍醐帝の事を書く理由であるという。歴史は大仏次郎氏の著作「天皇の世紀」のように皇室中心の歴史ではない。ある時期までは重要な政治勢力として歴史の一部を動かしてきたという意味で皇室の歴史は歴史の一部であったことは事実である。それも鎌倉時代までであって、丁度本書が扱っている室町時代や南北朝時代から、京都の公家と皇室はその経済的基盤をなくし政治的影響力は全く無力となり、その王朝文化もすっかり下火となって、民衆の独自の日本文化が澎湃として興った時代という意味で日本の中世(室町戦国時代)は極めて重要な転換期である。ではその最後の花火となった御醍醐帝の伝記をみることは意味のある事であるが、どうも著者村松剛氏が天皇制支持論者ということもあり、天皇の側室や婚姻関係、そして皇室・公家の系統ばかりに注目しているのはいただけない。そこで公家・天皇の系統(婚姻関係)は煩雑になるばかりで憶えられないのでばっさり省略したい。ただ南朝北朝の系統のみは記したい。後醍醐天皇は1288年正応元年11月の誕生である。父は後宇多天皇で、母は五辻藤原家忠継の娘忠子であった。当時の皇子の格は母親の家柄によって決まるため、中流貴族五辻藤原家の娘の皇子では到底天皇になれることは覚束なかったという。御醍後が天皇までに上り詰めたのにはいろいろな複雑ないきさつがある。その後醍醐帝の成立までの事を第1巻にまとめた。当時の貴族の最高位は天皇を別にして、摂関家(執柄家)で、ついで大臣家(精華家)、三位以上を公卿(参議)、三位でも官位のないものを散位といい、中流以下の貴族の家柄では人生の最後で散位につければいいほうであったという。鎌倉幕府の政策でもあったのだが、後嵯峨天皇(88代)の皇子であった後深草天皇(89代)のつぎに弟の亀山天皇(90代)がたち、そこから天皇が交代制となり皇統が分立した。(万世一系なんて嘘っぱちで以降皇統も麻のように乱れた) 御深草天皇に始まり伏見天皇(92代)ー後伏見天皇(93代)-花園天皇(93代)を持明院統(北朝となる)といい、亀山天皇(90代)に始まり後宇多天皇(91代)-後二条天皇(94代)-後醍醐天皇(96代)と続く系統を大覚寺統(南朝となる)と呼び、1392年南朝の後亀山天皇が神器を北朝の後小松天皇に返還するまでこの朝廷の分裂は続いた。鎌倉末期にこの持明院統と大覚寺統の間を調停し、鎌倉幕府の許可を得る関東申次(幕府への連絡係り)であった西園寺公経と九条道家が朝廷の陰の最高権力者であった。天皇の在位も10年以内を目安として交代する了解で進んだこの時代は御家人を統御しえなくなった鎌倉北条執権家の衰退に乗じて足利と新田があらそい、朝廷で2つの皇統が争い、同じ皇統のなかでも皇太子擁立を巡って上皇(法皇)と今上天皇が争い、宗教勢力は真言勢力の比叡山延暦寺、醍醐寺、東大寺、吉野、高野山が微妙な争いをし、歌道でも御子左家も定家以降に分裂し京極家は持明院統へ、二条家は大覚寺統に分裂した。この時代の特徴は、諸勢力の支離滅裂な分裂と勢力争い、皇室内のめちゃくちゃな男女関係が特徴である。

(つづく)



後醍醐天皇

2020年09月23日 | 書評
彼岸花

鎌倉時代から南北朝動乱へ、室町期における政治・社会・文化・思想の大動乱期

兵藤裕己 著 「後醍醐天皇」 岩波新書(2018年6月) (その17)

1) 兵藤裕己 著 「後醍醐天皇」 (その11)

4)建武の中興と王政復古 (その2)

1339年8月16日後醍醐天皇は52歳で吉野御所で死去した。1336年京を脱出し吉野に南朝を開いてから3年目であった。足利尊氏・直義兄弟は「哀傷と畏敬」の念で、49日の法要を執り行い、没後百日には等持院と南禅寺で追善供養が行われた。足利尊氏の今日の存在は後醍醐天皇の倒幕の意思がなければあり得なかったからである。10月尊氏は後醍醐鎮魂のため亀山離宮の跡地に天龍寺を創建した。(京都五山の一つ) 後醍醐天皇の供養の一環として円観の周辺で「太平記」の編纂事業が行われることになった。「難太平記」のよると、円観が足利直義に持参した「太平記」20巻あまりは、現存40巻の前半部に相当すると言われる。直義はこれを玄恵上人に見せ校正作業が終わる迄公開は禁じられた。前半部に加えるに、後醍醐帝の死去後の展開、足利幕府内の分裂と抗争、それに乗じた南朝側の進出と敗退などが書き加えられてゆく。「太平記」は1367年の第2代将軍義詮の死去と、管領細川頼之に補佐された第三代将軍義満の登場で幕を下ろした。南北朝の終焉(合一)は1392年のことである。後醍醐天皇の一代記として編纂が行われた「太平記」は、室町幕府の創設史という枠組みを重ねる形で加筆と改定、書き継ぎが行われた。後醍醐天皇の即位から死去迄を語る「太平記」前半部において、天皇批判が痛烈なのは第1巻と建武政権の失政を語る第12-13巻である。この後醍醐天皇批判精神は近世の武家の修史認識に受け継がれてゆく。新井白石の「歴史余論」(1712年)は後醍醐の不徳、積悪は自明として近世の歴史認識のもとになった。徳川光圀の「大日本史」は近世・近代の南朝正統史観に大きな影響を与えたが、「大日本史」編纂を主宰した安積淡泊は後醍醐天皇を評して、阿野廉子の内奏によって賞罰が乱れたと述べている。新井白石も安積淡泊も後醍醐評は「太平記」を引き継いでいた。「大日本史」は後醍醐批判にもかかわらず、南朝を正統、北朝を閏統(非正統)としている。「大日本史」が南朝を正統としたのは水戸光圀の卓見と藤田幽谷は見た。この考えは彰考館(水戸藩の史局)に引き継がれた。やがて幕末から明治維新の天皇問題の根幹となった。徳川光圀が南朝を正統としたのは朱子学の正統論よりも前に、徳川家康が清和源氏新田流の由緒を主張したからである。光圀が南朝の正統性を主張するのはとりもなおさず、徳川氏の政治的覇権を正統化する論理につながっていた。頼山陽の「日本外史」は新田流徳川系図の延長にある尊王史観であった。1788年に彰考館員となった藤田幽谷は「大日本史」をテキストとし「正名論」において天皇の大義名分論は読み替えられてゆく。藤田幽谷による彰考館総裁の立原翆軒とのイデオロギー論争(水戸学の三大議論)は、水戸学の前期と後期を画することになった。藤田幽谷の子藤田東湖は足利時代史の空白を、正統の南朝を滅ぼした三代将軍足利義満が「日本国王」と称した問題を取り上げて古代以来の正統王朝の滅亡ととらえ、代わる武家王朝の始まりと考えた。こうして問題は南朝正統論より「正名論」、「国体論」にすり替えられた。国体という言葉を水戸学のキーワードとして定着させたのは、幽谷の門人である会沢正志斎である。足利時代に失われた国体を回復する思想運動が後期水戸学の「尊王攘夷論」である。1838年藤田東湖が初めて「尊王攘夷」という言葉を使った。国体を前にしては臣下としての武家社会の秩序は総体的に低下し、水戸学が幕末の革命運動を主導するイデオロギーの根拠となった。天皇を唯一絶対視することで、既存の武家社会の序列は無化される。そもそも水戸学を代表する人材であった藤田幽谷、東湖、会沢正志斎、豊田天功らは農民や町民身分の出身だった。水戸学の「国体」の観念は、吉田松陰の「草莽崛起」というスローガンとなって幕末革命運動に火をつけた。1868年の王政復古は天皇勅裁に一元化された政体への移行であった。武家政権はもちろんのこと摂政関白の公家門閥を廃した王政復古は、時代が違いすぎるので同じ土俵では論じられないが、奇しくもまさに500年以上前に後醍醐天皇が企てた「新政」の再現であった。(その間天皇は無の存在に過ぎなかった。) 明治維新後王朝史の書き換えが広汎にかつ滑稽に進められた。その中心は東京帝大史料編纂室であった。建武の中興を明治維新の先蹤として位置付ける歴史的アナロジーが働いたようだ。1890年教育勅語が発布され、国民は臣民扱いされ、国体が亡霊のように復活した。近代的市民の自由な意思としての国家という考えは抹殺されて、日本は「富国強兵」を目指して再出発した。
(兵藤裕己 著 「後醍醐天皇」終わり)
(つづく)

後醍醐天皇

2020年09月22日 | 書評
玉すだれ

鎌倉時代から南北朝動乱へ、室町期における政治・社会・文化・思想の大動乱期

兵藤裕己 著 「後醍醐天皇」 岩波新書(2018年6月) (その16)

1) 兵藤裕己 著 「後醍醐天皇」 (その10)

4)建武の中興と王政復古 (その1)

「二条河原落書」にやり玉に挙げられている世の風潮として「エセ連歌」、「田楽」、「茶番寄合」がある。誰でも点者になって品評する乱脈な連歌会の盛行をを批判したものである。「太平記」は鎌倉幕府が滅んだ理由として、北条高時の田楽狂いと闘犬狂いを挙げている。田楽師の華美ないでたちと演技は鎌倉時代末期から流行していたようだ。「太平記」第27巻は1349年6月四条河原の田楽興行において桟敷席の倒壊事故を語っている。身分を超えた、下克上する成り上がりものによる「自由狼藉」の世界が語られている。茶の寄り合いは闘茶であり、茶を飲んで産地・品種を言い当てる賭け競技であった。後醍醐天皇とその側近たちが催した「無礼講」が茶寄合(茶事と飲食酒宴)であったことは「花園院宸記」にも描かれている。中国宋代の新しい抹茶法は、栄西らの禅僧によって鎌倉時代に伝えられた。南北朝時代に流行を迎えた。この茶寄合は今日の「京懐石」の総合芸術に引き継がれた。仏画、襖絵、香炉、生花、飲食、庭園散歩を総合的に配置した世界を楽しみ、最後に茶が出て闘茶の「四種十服の勝負」となる。また茶会の後には酒宴と歌舞管弦の宴が続く。南北朝の茶寄合を今日の茶会と区別する最大の特徴は、唐物趣味の横溢した茶寄合の空間をおおう非日常的な気分であり、それが引き起こす無秩序な自由狼藉の行為である。茶寄合の会衆は身元を一時的に不明化することで身分から解放された非日常の遊びの空間を現出することである。これらは単に芸能的寄合だけではなく、後醍醐天皇の新政の企てに不可分に呼応した文化的現象である。無礼講の寄合の場を設定して、それを隠れ蓑にして天皇と側近らは倒幕の密議を重ねたらしい。天皇と臣下という序列枠組みを超えて、天皇が直接民と結びつく政治原理の擬態である。後醍醐の側近である千種忠顕が毎日のように遊興に耽るさまは「太平記}第12巻に批判される。「堂上に300人を超える大夫らが酒肉珍膳の費用は万銭を超え、宴が終ったあと数百騎で北山で小鷹狩りを行う。僭上無礼は国の凶賊なり」と記される。建武政権で雑訴決断所の寄人についた千種忠顕は三ヵ国の国司に任じられ多くの所領を得た。文観僧正も太平記では「怪僧」のイメージで非難される。これらは足利幕府の訂正が盛り込まれた場所である。千種忠顕の装束については「バサラの装い」という、華美この上ない出で立ち振る舞いであった。「バサラ」とは梵語で金剛ダイヤモンドのことである。絹織物や豹・虎の皮を惜しげもなく使った装束であり、既存の秩序や服制の規範を逸脱した装いである。まさにこの時代の「自由狼藉」を象徴する文化現象は、「無礼講」の延長線上にある「バサラ」であった。それは建武政権崩壊後の足利幕府においても、佐々木道誉らのバサラ大名により大規模に受け継がれた。こういう分化現象については南朝と同様北朝でも盛大に行われた。1336年2月足利政権が公布した「建武式目」は第一条に「倹約を行はるべきこと」とバサラを厳しく規制している。第二条「群飲遊興を制せられるべきこと」では色に耽り博奕に及ぶ茶寄合、連歌会などを厳禁している。第十三条「礼節を専らにすべきこと」では、治国のかなめである君の礼、臣の礼を守れという。「建武式目」は北条泰時・義時の時代を「武家全盛の跡」と政治の手本とした。「建武式目」の起草者のひとりである玄恵上人は足利直義の命を受けて「太平記」の校閲改定に携わった人物だとされる。太平記は君臣上下の礼を政道の基本的枠組みとしている。鎌倉幕府滅亡の原因を後醍醐天皇と北条高時の君臣の礼の崩壊から説き起こしている。太平記がイメージする世の秩序とは、君臣の上下がそれぞれの名分を全うすることで維持される秩序社会である(論語「正名論」)。それは足利政権の「建武式目」の思想であり、北畠親房の「神皇正統記」にも共通する思想であった。そのような正名・名分論から、臣下の名分を無視する後醍醐天皇の政治手法は両勢力から非難される。臣下の名分を認めない天皇の専制は当然否定されるのである。南北朝の動乱が打ち続く世相にあって、北朝方の大名らが「無礼、邪欲、大酒、遊宴、バサラ、傾城、双六、博奕」などを好み、流行する様子は「太平記」後半部の世界である。その中心がバサラ大名の佐々木道誉であった。「太平記」第21巻で佐々木道誉のバサラの振る舞いが語られる。傍若無人の佐々木道誉のふるまいが書かれているが、「一見美々しくみえたり」と評されている。傲慢であり、かっこいいと言うのである。このアンビヴァレントな評価は「太平記」という作品が儒教臭い政道論だけではなく、時代の空気を鋭敏に受けた作者の存在が伺えられる。「太平記」によると1361年将軍執事(管領)の細川清氏が失脚・没落したのは佐々木道誉が催した茶会がきっかけになったという。細川は第二代将軍義詮を招くべく歌会を計画したが、道誉は「七所の粧り」をして豪華な茶会を催し義詮の出席を奪い取った。面目を失った細川清氏は道誉の讒言で失脚するという物語である。道誉の最も派手な空間が1366年の「大原野の花見」である。管領斯波道朝が御所で将軍義詮の花見の会を計画したが、道誉は都の芸人どもを全員大原野に引き連れて花見を開催し斯波道朝の面目を潰した。このように芸能空間の演出はその政治的な企てと不可分に行われ、将軍義詮に取り入り相手の面目を潰し讒言で失脚に追い込む手法であった。道誉に仕えた「道の上手たち」は「同朋衆」と諸道に秀でた遁世者である。この時代の諸芸・諸道のオルガナイザーとしての道誉の非凡さが際立っている。能、茶、花、香、連歌など諸芸に通じていた。「菟玖波集」を後光厳天皇に奏請したのも道誉であった。道誉の総合芸術としての茶寄合は安土桃山時代の千利休の茶の湯に受け継がれた。「同朋衆」として三代将軍義満に仕えた観阿弥、世阿弥親子が有名であり、義政に仕えた能阿弥、芸阿弥、相阿弥親子三代は絵師であった。作庭師も同朋衆として抱えた。後醍醐天皇の「無礼講」の茶会にも芸人(会衆)が参加し西大寺の律僧智暁はそのコーディネーターであった。今日最も日本的として考えられる諸芸諸道の文化は、室町期のバサラと無礼講の芸能空間に源を発する。

(つづく)


後醍醐天皇

2020年09月21日 | 書評
ニラの花

鎌倉時代から南北朝動乱へ、室町期における政治・社会・文化・思想の大動乱期

兵藤裕己 著 「後醍醐天皇」 岩波新書(2018年6月) (その15)

1) 兵藤裕己 著 「後醍醐天皇」 (その9)

3)建武の新政の諸矛盾 (その3)
平安後期以降、官職は特定の家の専有物で、地方の行政権は鎌倉時代には名門家の私領と化していた。平安後期から鎌倉時代には公卿の名門家が自らの家人を名義上の国司にたてその収益を私有化する知行国の制度が一般化していた。知行国の慣行に対して後醍醐天皇は3位以上の公卿を国司に任命し、知行国を無力化し国務の私領化を一掃する目的であった。諸国の国衙を中央の直轄化に置く企てである。鎌倉期には中央の官職は特定の氏族が請け負う私領的な性格となっていたが、後醍醐はそれに大ナタを振るおうとした。官職の任命を流動的なものとし、その私物化を抑制する姿勢は建武政権で徹底して行われた。中原氏の家職であった造酒正に清原頼元を任命したり、中原氏の家職であった東市司長官を名和長年が任命された。京都の商業と流通経済を管轄した東市正名和長年は検非違使尉を兼ね、京都の市政権をも握った。建武の功臣であった名和に中央権力が集中した。1335年12月太政官八省の卿(長官)が全員更迭され、新たに公卿大臣クラスが任命された。後醍醐天皇の目玉人事であるといえる。太政官八卿の位階は4位に相当する。大・中納言クラスは正3位、または従3位である。上の位階の者が卿に降りて来るのは論外の人事である。(今でいうと大臣が事務次官や政務次官に降りるようなこと) 従来の職務では大臣クラスは議政局の構成メンバーである。合議制の政務大臣が解任され、実務長官である卿になった人事である。後醍醐天皇にとって新政に介入する合議制は不要であり、直轄の官僚だけで十分だということである。天皇自らが行政機構を総括する体制を作ったことになる。後醍醐が目指した親政とは、君と民の間に介在する臣下の機構を簡素化しヒエラルヒー(門閥、家格、既成貴族の無力化)を解体することであった。南朝の重臣北畠親房がイメージした公家一統政治とはおよそ異なった「同床異夢」であった。北畠親房に「神皇正統記」は、後醍醐天皇の没後に書かれた。親房は建武親政下で土地所有が流動化したことを批判し、勲功に追いやられて累家も名ばかりになってしまったと嘆いた。「累家」や「門閥貴族」の世襲化された既得権益を否定することが後醍醐天皇の「勅裁」の意味であった。親房は「公家の古き御政に帰るべき世」をイメージしたが、後醍醐親政時代は批判勢力となり新興中下級貴族の推進勢力と対立した。親房の政治力が発揮されたのは後醍醐亡き後の南朝二代目後村上天皇の時代であった。南朝の衰退が決定的となったとき、後醍醐親政の治世はネガティブな遺産として眺められた。北朝の三条公忠は1370年「御愚昧記」に「後醍醐の御行事、物狂の沙汰なり。後代豈因准すべけんや」と切り捨てている。後醍醐の政治的な企てを「正理に叶う」とした日野資朝らの天皇親政の理想は、14世紀の日本の現実を前に挫折せざるを得なかった。条件が整わない時代制約の下で、建武の中興が2年余りで瓦解した理由である。中国の官制は模倣しても、科挙による人材登用は根付かず、家職・家格や名門の出自のみが絶対視される官僚制では公正な人材育成はできず、知識層は一握りの中下級貴族と僧侶を除いてはほぼ皆無であった。鎌倉時代の武家政権時代を通じて、門閥貴族層は閉鎖的になり、門閥を固定化する礼式はむしろ鎌倉期に制度化され、建武政権下では既存門閥層は根強い抵抗勢力を形成した。後醍醐天皇の新政に対する不満は既得権益を奪われた上級貴族層のみならず、恩恵を受けられなかった広汎な武家階層は敵に回った。一部の寵臣(功臣)と閨閥(寵姫)には旧北条家の所領は分配されたが、鎌倉幕府打倒に働いた武士(御家人)には公平な配分は行われなかった。そこから足利尊氏のような武家は強い不満を抱き、後醍醐政権打倒に動いた。1333年6月源氏武家の頭目である足利尊氏(高氏)は鎮守府将軍に任じられた。高氏は高師直や師泰らを雑訴決断所の奉行に送り込んだが、自身は後醍醐政権からは一定の距離を置いた。1335年北条高時の遺児時行が信濃で挙兵し(中先代の乱)武蔵・相模一帯を支配した。尊氏は後醍醐から北条時行追討を命じられたが、征夷大将軍への任官を望み、後醍醐は征夷将軍の称号を与えた。反乱を制圧した尊氏は次第に関東における新田荘も配下に置き、事実上の武家政権が再興されていった。新田義貞と足利尊氏の頭目争いは決定的段階を迎え、両方から後醍醐天皇に「追悼」の宣旨の要請がなされた。讒言によって鎌倉に禁獄中の護良親王が足利直義によって無断で殺害された。これによって後醍醐天皇と足利尊氏の対決となり、尊氏追討宣旨が下された。1335年11月新田義貞は総大将として関東へ向かったが敗北し、逆に尊氏が京都に入り合戦となり、1336年京合戦に敗れた尊氏は九州に下って九州全土を支配し、東上した。湊川の戦いで楠正成は戦死し、後醍醐天皇は比叡山に逃げ、尊氏は持明院統の光明天皇を擁立した(北朝)。後醍醐天皇は12月に吉野に朝廷を開いた(南朝)。新田義貞は越前に逃げた。こうして南北朝時代が始まった。高氏は天皇側との全面対決を避け、新田義貞追討という形をとった。「太平記」第13-21巻は足利・新田両家の戦いと図式化して語るが、尊氏はライバルとして新田義貞を源氏一流の棟梁として考えていない。対立相手はあくまで後醍醐天皇である。しかし天皇を敵にすると抗争の大義名分(錦の御旗)が立たないのを畏れ、臣同士の抗争と称したまでのことである。持明院統の天皇(北朝)を立てたのも大義名分を得るためである。北朝の天皇は軍事・行政の全てを足利将軍に委任している。後醍醐天皇が争うべき相手はあくまで足利の武家政権である。北朝の天皇は統治者たる将軍の威光を補完する「共生」的存在であった。そうした「共生」としての天皇制の在り方こそが、摂関政治の時代から院政時代、さらに鎌倉の武家政権時代へ引き継がれた天皇の伝統的なありかたであろう。既存の身分制社会や世俗的な序列を解体して、天皇がすべての民に等しく君臨する一君万民の統治形態は、あらゆる改革・革命のメタファーとして、やがて幕末から近代へ引き継がれた統治形態の儀制である。

(つづく)