ブログ 「ごまめの歯軋り」

読書子のための、政治・経済・社会・文化・科学・生命の議論の場

読書ノート 栗原俊雄著 「勲章-知られざる素顔」 岩波新書

2012年03月20日 | 書評
戦前は天皇への、戦後は国家への貢献の序列 第1回


 私は勲章とはほど遠い世界に住み、貰ってくださいと頼みに来ることは間違ってもないのでどうでもいいのだが、持ち前の野次馬根性(好奇心)から買って読んでしまった。内容がないので読んでから読書ノートを作る熱が沸かない。しかしこんな馬鹿なことで税金を使って何かを意図している奴がいるかと思うと、ほっておくのも業腹なので筆をとる。そういう気を起こさせた本書にはそれだけの価値がある。毎年4月と11月、新聞の大きなスペースをつかって、受賞者の名前が羅列される。春秋叙勲の各4000人と各種叙勲を合計すると年間約2万人を超える。そしてそれにかかる費用は約40億円である。決して馬鹿にならない金額である。事業仕分けの対象としてもいいのではないかと思われる。だからそもそも勲章はいついかなる目的で生まれ、どんな変遷で現在も続いてきたのだろうかを考えるのは国民の義務かもしれない。人選や等級はどんな手順と基準によるのか、人間の序列化や官民尊卑の助長など批判の多い制度はどういう変遷を経たのかを考えるよい機会である。日本国憲法前文には「国政の権威は国民に由来し、その権力は国民の代表がこれを行使し、その福祉は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、これに反する一切の憲法、法令、及び詔勅を排除する」と厳かに主権在民がうたわれている。にもかかわらず勲章制度を運営する法律は存在しないし、現在運用されている準拠は明治以来の詔勅である。こんな奇妙なことが平気でおこなわれている日本は法治国家なのだろうか。(とはいうものの、刑法や民法も明治以来の法を受け継いでいる箇所が多い。) 

 勲章に興味を持って一書を著わした栗原俊雄氏とはどんな人だろう。プロフィールを紹介する。1967年東京都うまれ。早稲田大学政治経済学部修士課程卒業後、1996年毎日新聞社入社。現在東京本社学芸部記者である。著書に「戦艦大和ー生還者の証言」(岩波新書 2007)、「シベリア抑留-未完の悲劇」(岩波新書 2009)、「シベリア抑留は過去なのか」(岩波ブックレット 2011)がある。なかでもシベリア抑留に関する労作は、敗戦直後、旧満州の日本人兵士ら約六〇万人がソ連軍に連行され、長期間の収容所生活を送った「シベリア抑留」で極寒・飢餓・重労働の中で約六万人が死亡した・・・日本政府への補償要求と責任追及…「奴隷のままでは死ねない」と訴えてやまない。 この仕事により2009年第3回「疋田桂一郎賞」を受賞した。
(つづく)

読書ノート 藤井省三著 「魯迅-東アジアを生きる文学」 岩波新書

2012年03月20日 | 書評
東アジア共通の現代の古典として、抵抗と受容の主体性の文学 第6回

3) 映画と翻訳とゴシップー上海時代(Ⅰ)

 1924年国民党の指導者孫文はロシアの援助のもとに国共合作をはかり、連ソ・容共・農工政策を決定し、孫文の死後26年に国民革命軍が反軍閥内戦(北伐)を開始した。だが1927年北伐軍総指令の蒋介石は4.12反共クーデターを起こし国共合作は停止した。そして東北軍閥であった張学良は全軍を率いて国民党軍に合流し、父張作霖が北京に入り白色テロが横行した。魯迅は厦門大学に、許広平は広州の広東省立女子師範学校に勤務した。魯迅は4ヶ月で厦門大学を退職し広州中山大学に移った。魯迅と許広平の往復書簡集「両地書」が1933年に出版された。「両地書」は3部から成り立っており、第1部(35通)は1925年の3ヶ月半の北京時代、第2部(78通)は1926年ー1927年の5ヶ月間の厦門ー広州往復書簡、第3部(22通)は1929年の半月あまりの北京ー上海の往復書簡集である。魯迅と許広平の愛人関係は1925年には成立したと思われ、魯迅には妻朱安がいるので、今日ではいわゆる三角関係であり不倫であった。当時、北伐戦争と抗日闘争に情熱を傾ける一方、シティボーイとシティガールの自由恋愛が大流行していた。魯迅は終生地方都市には住めない、大都市中産階級のシティボーイであった。1033年頃から魯迅の「刊行物やエセーは発禁となり、1935年には「而已集」、「三閑集」、「偽自由書」など4冊の著書と7冊の翻訳書が発禁になった。そんななかで「両地書」だけは不思議と発禁にならなかった。広州でも不穏な反共クーデターの噂があり魯迅は中山大学を辞職した。1927年許と共に魯迅は広州を脱出し上海に向かった。

 1931年共産党は瑞金に中華ソヴィエトを樹立していたが、蒋介石の国民党は合流した地方軍閥の造反に悩まされながらも中華民国は鉄道を初め急速に経済発展を遂げた。1928年には首都を北京から上海に移した。教育普及率も30%を超え、大学生の数も北京・上海で各1万人を越えたていた。こうして魯迅の中国内の移動もこの近代都市として爛熟した30年代の上海で最終幕を向ける。30年代上海では近代的市民生活が実現されつつあり、広範な読者層の形成と出版ジャーナリズムの膨張、そして新劇と映画の改革が、上海を一大文化センターに成熟させていた。魯迅の不倫は上海メデイァの格好の餌食となり、「両地書」の出版はそれへの反撃という意味で出されたのである。それがまた売れるのであるからマスメディアの功罪恐るべしである。上海では魯迅はスター文化人としてもてはやされ、政治的には死をも恐れずに発言していたが、経済的には豊かな中産階級的都市生活を謳歌できたのである。この時期魯迅は日本の絵本画集や木版芸術を紹介し、ハリウッド映画に夢中となる生活を送っていた。
(つづく)


読書ノート 矢崎義雄編 「医の未来」 岩波新書

2012年03月20日 | 書評
第28回日本医学会総会「命と地球の未来を開く医学・医療」第9回

第8章 「ゲノムが医療を変える」 中村祐輔(東京大学医科学研究所・遺伝医学)
 2000年ヒトゲノム解析が終了した。ヒトゲノム研究が病気の予防診断治療に新しい時代を切り開くことへの期待が高まった。病気や症状を引き起こす原因を見つけ、それを手がかりに薬を開発する方法がとられるようになった。HIV感染症にたいする「マラビロク」、慢性骨髄性白血病に対する「グルベック」などの開発に成功した。そしてヒトゲノム解読後は新しい抗がん剤である分子標的治療薬が次々と開発され、米国FDAは19種の抗がん剤を承認した。日本では2、3年の遅れで承認されている。この承認遅れを「ドラッグラグ」という。治療は患者さんを集団として捕らえて、新旧の治療法(新薬)の統計的有為差があれば有効というエヴィデンスを与えてきた。このような「エヴィデンスに基づく医療EBM)」と、1995年頃から患者さんの個体差を遺伝子情報を調べることで治療法も変えてゆく「オーダーメード(パーソナイズ)医療」の考えが広がってきた。がん治療においては従来は抗がん剤をとりあえず標準的に用いて抗癌効果を求めるという治療法であった。それに対して乳がんにはHERという分子ががん細胞で作られている場合のみ「ハーセプチン」という抗体薬を投与する。肺がんにはEGFRがガン細胞で作られている場合に分子標的治療薬「イレッサ」が有効である。患者さんの遺伝子多型で効用が異なる「タキシモン」、血液抗凝固薬「ワルファリン」を患者さんの遺伝子多型に基づいて用量を決めている例がある。また薬剤による副作用に遺伝子多型が関連している。高コレステロール治療薬「スタチン」の副作用である横紋筋融解症を遺伝子多型で予測する方法である。HIV治療薬「ネビラピン」による薬疹が、患者さんの細胞表面のHLAタイプとの組み合わせによって決まることが分った。アメリカではオバマ大統領による「ゲノムオーダーメード治療法案」が2006年に提出された。日本では日本人遺伝子多型データ-ベースの構築が中途半端で終っていることが残念である。食道ガンは喫煙と飲酒との関係が大きいとされているが、それにはアルコール脱水素酵素ADH1Bとアルデヒド脱水素酵素ALDH2の遺伝子多型が絡んでさらにリスクが大きくなることが明らかにされた。さらに糖尿病性腎症を起こしやすい遺伝子タイプも徐々に特定されてきた。
(つづく)

筑波子 月次絶句集 「緑柳紅梅」

2012年03月20日 | 漢詩・自由詩
北阜幽斎苔蘚蒼     北阜幽斎 苔蘚は蒼に

東風吹雨入池塘     東風雨を吹いて 池塘に入る

西江柳糸含情艶     西江の柳糸 情を含んで艶かに
 
南畔紅梅帯笑迎     南畔の紅梅 笑みを帯びて迎う


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(韻:七陽 七言絶句仄起式  平音は○、仄音は●、韻は◎)
(平仄規則は2・4不同、2・6対、1・3・5不論、4字目孤平不許、下三連不許、同字相侵)

CD 今日の一枚 グレングールド ピアノ演奏全集 「ベートーヴェンピアノソナタ第1巻」

2012年03月20日 | 音楽
グレングールド ピアノ演奏全集 「ベートーヴェンピアノソナタ第1巻」(CD3枚組)
CD1:ピアノソナタ第1-3番 CD2:ピアノソナタ第5-7番 CD3:ピアノソナタ第8ー10番、第13,14番
ピアノ:グレン・グールド 
ADD 1965-67 SONY CLASSICAL


ピアノの鬼才グレングールドの演奏全集である。順不同でアップする。まずはベートヴェンピアノソナタ第1巻より。