東アジア共通の現代の古典として、抵抗と受容の主体性の文学 第5回
2)文部官僚から新文学者へー北京時代 (2)
この時期、魯迅は芥川龍之介の小説を集中的に読んでおり、幾つかの作品の翻訳を北京の新聞に発表した。第1創作集「吶喊」の短篇は語り口から構造まで大きな影響を芥川龍之介とアンドレーエフから受けているといわれる。北京時代の魯迅は日本と欧米文学の翻訳紹介にも力を入れている。「新青年」内部において、陳独秀らはレーニン主義とソ連共産党の支援を主張し、胡適らはアメリカモデルの近代化を志向し、魯迅・周作人らはボルシェビキ独裁に疑問を抱いてアナーキズムへ流れ「新青年」から離れていった。私生活においては魯迅は周作人と仲たがいをして、1923年八道湾の一族宅を出た。1924年以降の時代を「彷徨」期という。1922年から魯迅宅に住んだロシアの放浪詩人エロシェンコの作品「童話集」、「桃色の雲」を翻訳刊行し、エロシェンコの寂漠としたさみしさは魯迅に伝染した。1924年から24年にかけての「祝福」、「孤独者」、「愛と死」など短篇11篇は第2創作集「彷徨」に収められた。第1創作集「吶喊」においては伝統中国に多する批判が顕著であったが、第2創作集「彷徨」においては中国人が獲得しつつあった近代性に対しても深い省察が加えられている。「酒楼にて」は閉塞感と青春へのノスタルジーが、「石鹸」では清朝末期の開明派が取り残されて貧困化する様子が石鹸を小道具として描かれている。「愛と死」では都会の男女の同棲と破綻を描いたが、自分の罪が分らない点は阿Qと同じである。「涓生の魂の悲劇は実は思想啓蒙者の悲劇である。啓蒙者にとって最も難しいのは他人の啓蒙ではなく、自分の反省なのである」 1925年北京女子師範学校において、良妻賢母を教育方針とする女性校長とjy学生との対立(中心が女学生許広平で後の魯迅の恋人)により、女学生の肩を持った魯迅が教育総長により罷免される事態があったが、最後には校長と教育総長が更迭されて決着した事件があった。1926年抗日学生運動がおこり47名の死者が出た。これを3.18事件という。軍閥政府に抗議する魯迅らは指名手配されたので、福建省の厦門大学に移り、15年の北京での役人生活は終わりになった。魯迅は厦門へ、許広平も広州へ避難した。
2)文部官僚から新文学者へー北京時代 (2)
この時期、魯迅は芥川龍之介の小説を集中的に読んでおり、幾つかの作品の翻訳を北京の新聞に発表した。第1創作集「吶喊」の短篇は語り口から構造まで大きな影響を芥川龍之介とアンドレーエフから受けているといわれる。北京時代の魯迅は日本と欧米文学の翻訳紹介にも力を入れている。「新青年」内部において、陳独秀らはレーニン主義とソ連共産党の支援を主張し、胡適らはアメリカモデルの近代化を志向し、魯迅・周作人らはボルシェビキ独裁に疑問を抱いてアナーキズムへ流れ「新青年」から離れていった。私生活においては魯迅は周作人と仲たがいをして、1923年八道湾の一族宅を出た。1924年以降の時代を「彷徨」期という。1922年から魯迅宅に住んだロシアの放浪詩人エロシェンコの作品「童話集」、「桃色の雲」を翻訳刊行し、エロシェンコの寂漠としたさみしさは魯迅に伝染した。1924年から24年にかけての「祝福」、「孤独者」、「愛と死」など短篇11篇は第2創作集「彷徨」に収められた。第1創作集「吶喊」においては伝統中国に多する批判が顕著であったが、第2創作集「彷徨」においては中国人が獲得しつつあった近代性に対しても深い省察が加えられている。「酒楼にて」は閉塞感と青春へのノスタルジーが、「石鹸」では清朝末期の開明派が取り残されて貧困化する様子が石鹸を小道具として描かれている。「愛と死」では都会の男女の同棲と破綻を描いたが、自分の罪が分らない点は阿Qと同じである。「涓生の魂の悲劇は実は思想啓蒙者の悲劇である。啓蒙者にとって最も難しいのは他人の啓蒙ではなく、自分の反省なのである」 1925年北京女子師範学校において、良妻賢母を教育方針とする女性校長とjy学生との対立(中心が女学生許広平で後の魯迅の恋人)により、女学生の肩を持った魯迅が教育総長により罷免される事態があったが、最後には校長と教育総長が更迭されて決着した事件があった。1926年抗日学生運動がおこり47名の死者が出た。これを3.18事件という。軍閥政府に抗議する魯迅らは指名手配されたので、福建省の厦門大学に移り、15年の北京での役人生活は終わりになった。魯迅は厦門へ、許広平も広州へ避難した。
(つづく)