ブログ 「ごまめの歯軋り」

読書子のための、政治・経済・社会・文化・科学・生命の議論の場

読書ノート 藤井省三著 「魯迅-東アジアを生きる文学」 岩波新書

2012年03月19日 | 書評
東アジア共通の現代の古典として、抵抗と受容の主体性の文学 第5回

2)文部官僚から新文学者へー北京時代 (2)
 この時期、魯迅は芥川龍之介の小説を集中的に読んでおり、幾つかの作品の翻訳を北京の新聞に発表した。第1創作集「吶喊」の短篇は語り口から構造まで大きな影響を芥川龍之介とアンドレーエフから受けているといわれる。北京時代の魯迅は日本と欧米文学の翻訳紹介にも力を入れている。「新青年」内部において、陳独秀らはレーニン主義とソ連共産党の支援を主張し、胡適らはアメリカモデルの近代化を志向し、魯迅・周作人らはボルシェビキ独裁に疑問を抱いてアナーキズムへ流れ「新青年」から離れていった。私生活においては魯迅は周作人と仲たがいをして、1923年八道湾の一族宅を出た。1924年以降の時代を「彷徨」期という。1922年から魯迅宅に住んだロシアの放浪詩人エロシェンコの作品「童話集」、「桃色の雲」を翻訳刊行し、エロシェンコの寂漠としたさみしさは魯迅に伝染した。1924年から24年にかけての「祝福」、「孤独者」、「愛と死」など短篇11篇は第2創作集「彷徨」に収められた。第1創作集「吶喊」においては伝統中国に多する批判が顕著であったが、第2創作集「彷徨」においては中国人が獲得しつつあった近代性に対しても深い省察が加えられている。「酒楼にて」は閉塞感と青春へのノスタルジーが、「石鹸」では清朝末期の開明派が取り残されて貧困化する様子が石鹸を小道具として描かれている。「愛と死」では都会の男女の同棲と破綻を描いたが、自分の罪が分らない点は阿Qと同じである。「涓生の魂の悲劇は実は思想啓蒙者の悲劇である。啓蒙者にとって最も難しいのは他人の啓蒙ではなく、自分の反省なのである」 1925年北京女子師範学校において、良妻賢母を教育方針とする女性校長とjy学生との対立(中心が女学生許広平で後の魯迅の恋人)により、女学生の肩を持った魯迅が教育総長により罷免される事態があったが、最後には校長と教育総長が更迭されて決着した事件があった。1926年抗日学生運動がおこり47名の死者が出た。これを3.18事件という。軍閥政府に抗議する魯迅らは指名手配されたので、福建省の厦門大学に移り、15年の北京での役人生活は終わりになった。魯迅は厦門へ、許広平も広州へ避難した。
(つづく)

読書ノート 矢崎義雄編 「医の未来」 岩波新書

2012年03月19日 | 書評
第28回日本医学会総会「命と地球の未来を開く医学・医療」 第8回

第3部 未来の医学・医療
第7章 「臓器はよみがえる」 丘野栄之(慶応大学医学部教授・再生医学)


 今再生医学・医療という分野に注目が集まっている。「再生」とは「生体の失われた細胞・組織・臓器の一部が、幹細胞の増殖・分化転換によって補われること」である。損傷した中枢神経系の組織が元通りに自然治癒することはなく、人間には再生能力はないとされるが、それでも日常的に皮膚や損傷した細胞の修復・新陳代謝(再生)は起きている。そこには「幹細胞」が主役を演じる。幹細胞には臓器固有の体性幹細胞のほかに、胚由来の多能性幹細胞(ES細胞)とがある。ES細胞は遺伝子改変マウスに広く使われてきたが、1998年トムソンらは余剰胚を使ってヒトES細胞を樹立した。難治性疾患をターゲットととして再生医療への応用に期待が集まった。そこで2006年厚労省はES細胞以外の「ヒト幹細胞を用いる臨床研究に関する指針」を施行した。2010年見直しをおこない多能性細胞であるヒトiPS細胞も対象としたが、ヒトES細胞については検討中であるという。一番臨床に近い研究には慶應義塾大学の「角膜上皮シート移植」があり、指針の承認を受けて2010年フェイズⅡ段階にきた。米国で行なわれている胎児性またはES神経前駆細胞は治験段階であるが、臨床応用に際し免疫学的拒絶反応の問題を避けることは出来ない。そこで自家細胞を用いた再生医療が期待されるわけであるが、HAL遺伝子座の多様性に対応した多能性幹細胞バンクの構築が京都大学の中辻氏によって進められている。またクローン胚由来ES細胞(体細胞移植技術、scnt細胞)は免疫学的拒絶反応のないES細胞の作成に繋がるものと期待されたが、いまだに成功していない。そこへ2006年京都大学山中氏によって、クローン胚を用いない自己細胞由来の人工多能性細胞(iPS細胞)技術が発表された。幾つかの転写因子遺伝子をウイルスによってヒト繊維芽細胞に導入することで、体細胞を変換しEs細胞に類似した増殖能・分化能を獲得した多能性幹細胞である。問題は外来遺伝子を導入するため、発ガンの危険が付きまとうのである。どの体細胞を用いるかや移植安全性に優れた株の樹立が大きな課題である。文部科学省は2007年「iPS細胞研究などの加速にむけた総合戦略」を策定し、研究拠点として京都大学、東京大学、慶応義塾大学,理化学研究所が選出された。
(つづく)

読書ノート 高橋正仁著 「無限解析のはじまりーわたしのオイラー」 ちくま学芸文庫

2012年03月19日 | 書評
近代数学を創造した一番はじめの人 第11回 最終回

3)ベルヌーイの等式とオイラーの公式(複素解析の誕生)
 対数の概念はジョン・ネイピア(1550-1617) の創案になるが、オイラーは負数や虚数の対数とはどういうものだろうかという問題を究明した。オイラーは1747年「負数と虚数の対数に関するライプニッツとベルヌーイの論争」を書いて、「対数の無限多価性」の認識に至った。あのあまりに有名なオイラーの公式e^xi=cosx+isinx  (i=√-1)はその副産物であった。ベルヌーイとはオイラーの師にあたるヨハン・ベルヌーイのことである。オイラーの「無限解析序説」において超越曲線の考察で、非有理の冪指数が姿を見せる。これを描くには対数の支援が無ければ論じられない。さらに負数の対数となるともうお手上げである。ベルヌーイは「負の対数は虚数である」といい、log(i)/i=π/2を発見する。これはオイラーの公式においてx=π/2とおけば得られる。ライプニッツとベルヌーイの論争においては、ベルーヌーイはlog(+a)=log(-a)が常に成り立つと主張し、ライプニッツは指数と対数の無限級数展開を援用して、負数と虚数の対数はいずれも虚数であると主張した。双方のやり取りは矛盾点を引き出すことで延々と続いたのあるが、煩雑になるので省略したい。一気にオイラーの見解に入る。オイラーはそもそも各々の数に対応する対数はただひとつしかないと思い込んでいることを検討した。そして対数の底を常用対数または自然対数に固定し、y=logxとおいて、指数の無限級数表示においてnが無限大でx^(1/n)は無限の多くの異なる価を持ち、logxも無限に多くの価を与える。
正の数の対数:A,、A±2πi、A±4πi、A±6πi、A±8πi・・・・
負の数の対数:A±πi、A±3πi、A±5πi、A±7πi・・・・・
虚数の対数:C+Φi、C+(Φ±2π)i、C+(Φ±4π)i・・・・
(完)

筑波子 月次絶句集 「春 寒」

2012年03月19日 | 漢詩・自由詩
北国寒風雪尚堆     北国寒風 雪尚を堆く

南園老骨獨徘徊     南園に老骨 獨り徘徊す

三春料峭微聞雁     三春料峭 雁を聞くこと微く
 
八百花魁始破梅     八百花の魁 始めて梅を破る



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(韻:十灰 七言絶句仄起式  平音は○、仄音は●、韻は◎)
(平仄規則は2・4不同、2・6対、1・3・5不論、4字目孤平不許、下三連不許、同字相侵)

CD 今日の一枚 橋本国彦 「交響曲第1番ほか」

2012年03月19日 | 音楽
橋本国彦 「交響曲第1番ほか」
①「交響曲第1番」 ②「交響組曲 天女と漁夫」
沼尻龍典指揮 東京都交響楽団
DDD 2001 NAXOS

橋本国彦(1904-1949)は日本の現代クラシック音楽家、沖縄の旋律を使った交響曲第1番は本邦初の録音だそうで、天女と漁夫はバレー音楽羽衣伝説をモチーフにしたフランス音楽の流れにある。