ブログ 「ごまめの歯軋り」

読書子のための、政治・経済・社会・文化・科学・生命の議論の場

読書ノート 矢崎義雄編 「医の未来」 岩波新書

2012年03月14日 | 書評
第28回日本医学会総会「命と地球の未来を開く医学・医療」 第3回

第2章 「医療人を育てる」 吉岡俊正(東京女子医科大学理事長・医学教育学)
 医学という科学分野の進歩によって医療者の教育は裾野が広がっている。医者は薬を出すことではなく、患者さんが満足する医療を提供する「双方・コミュニケーション」というサービス業であると云う考えが流行している。「説明できる医療」、「安全な医療」、「根拠に基づく医療」という観点での教育が必要である。医療系の教育には教育の質保証が必要である。「共用試験」に参加する大学では「コアカリキュラム」に基づいた教育を行なう。そして医師国家試験基準が設けられている。社会が医師に求める資質に「コンピタンシー」(専門的実践能力)があるが、新医師研修制度の卒後2年間で1人でこなせる能力を持たせることが目標である。そしてチーム医療において職種間教育が必要で、専門家医のはやす役割を意識することが求められる。患者が国際間を移動することは「メディカルツーリズム」といわれているが、医師の国際移動は欧米では常識となってきているが(弊害も指摘されている)、日本ではまだ顕在化していない。教育ならびに医師の資質保証に関する国際基準が求められる由縁である。
(つづく)

読書ノート 高橋正仁著 「無限解析のはじまりーわたしのオイラー」 ちくま学芸文庫

2012年03月14日 | 書評
近代数学を創造した一番はじめの人 第6回

1)無限解析のはじまり (2)
 1684年ライプニッツは「万能の接線法」を発見したという。その後1696年フランスの貴族で数学愛好者のド・ロピタルが師ヨハン・ベルヌーイの講義を記述した「曲線の理解のための無限小の解析学」というテキストを著わした。これは1922年になってヨハン・ベルヌーイの講義録が発見され、ヨハン・ベルヌーイ(1667-1748)の学問的成果である事が判明した。ヨハン・ベルヌーイはオイラーの師でもある。1748年になってオイラーの「無限解析序説」というもうひとつのテキストが著わされた。ここでは現代の「微分学」という言葉は使用されていないが、ロピタルの「無限小解析」そしてオイラーの「無限解析」はどう違うのだろうか。決定的に違うのが、ロピタルのテキストでは「関数」という概念は出てこないが、オイラーのテキストは関数概念の導入から始まる。ライプニッツ、ベルヌーイという微積分の創始者には関数は認識されていなかった。オイラーには何を微分するかといえば、それは関数なのである。量の概念が変化量(不確定量)という普遍的な性格を備えたとき、生まれてきたのが関数である。変化量と定量から関数の概念をオイラーは次のように表現した。「ある変化量の関数とは、その変化量といくつかの数、すなわち定量を用いて何らの仕方で組み立てられる解析的表現である」という。この定義は曖昧な点がないわけではないが、オイラーは関数概念の第1提案者と呼ばれる。次々と新たな変化量を作り出すシステムこそが、解析的表示式としての関数概念の神髄である。関数は、正数、負数、虚数を取り入れ、代数関数以外に超越関数として指数、対数、三角関数、複素関数を貪欲に取り込んでゆく。無限解析においてオイラーは不思議な世界を提示する。無限小の変化量dxとその2乗(dx)^2に無限小の階層を設け、(dx)^2は相対的に無視するのである。論理的にはランボウなやり方だが現在でも微分式の誘導で平気で用いられている。この辺にオイラーの無限小の世界がある。オイラの解析幾何では、変化量xをx軸上に位置させ、関数yの値を垂直に置くことでオイラーは曲線を説明し、関数の概念を基礎にして曲線を理解した。接線、極大、極小の求め方は自然に流れるように定義されていった。
(つづく)

読書ノート 加藤文元著 「ガロアー天才数学者の生涯」 中公新書

2012年03月14日 | 書評
10代で1世紀後の現代数学への道を拓いた天才児 第10回 最終回

5) 1832年 決闘 
 いよいよガロアの死にいたる最終章となった。1832年という年は「病めるパリ」を象徴する「コレラと暴動」の年である。コレラの流行はパリは4月だけで12733人の死者を出した。そして6月5日に「ラマルク将軍追悼暴動」が起きた。「レ・ミゼラブル」は、恋人を失って自暴自棄となった少年ボンメルシーが暴動で瀕死の重傷を負うが、ジャン・バルジャンによって奇跡的に救出されるというストーリーでこの暴動を描いている。ガロアの初恋と、ガロアの決闘事件の実像はよく分らないが、「レ・ミゼラブル」のボンメルシーとガロアの実像を重ねるようにして著者はガロアの最後を描き出そうとする。「国家警備砲兵隊」事件で拘束されていたガロアは1931年12月の裁判で有罪となり、1932年4月29日まで監獄に服役と決まった。1932年3月パリにコレラの流行の兆しが見えると、ガロアは衛生状態がいいフォートリエ療養所に移された。そこで療養所庁長の娘に恋をしたらしい。手紙の断片にその様子が見られるが、どうなったのかは分らない。おそらくうまく行かなかったようだ。5月30日にあったとされる決闘は5月31日コーシャン病院の検死解剖結果からわかる。「近距離から銃弾を受け、12時に腹膜炎で死んだ」と書かれている。決闘は挑戦を受けた48時間以内に行なわれる習慣があった。ガロアは「僕は二人の愛国者から挑戦を受けた」と書いている。「陰謀説」、「自殺説」、「恋愛説」のいずれも決定打は無い。30日の決闘の前夜にシュヴァリエに書いた遺書には、数学上の発見をなんとか残そうと思っていたようで「この証明を完成させるための方法がある。でも私には時間がない」といった。 「レ・ミゼラブル」のボンメルシーには救いがあったが、ガロアには救いの手は差しのべられなかった。「本当にそれが運命だったのだろうか」と著者は残念な思いを述べている。
(完)

筑波子 月次絶句集 「寒宵寒梅」

2012年03月14日 | 漢詩・自由詩
柳睡帯長春未深     柳睡り帯長く 春未だ深からず

花眠自嬾気蕭森     花眠り自と嬾く 気蕭森たり

寒宵携酒誰敲戸     寒宵酒を携え 誰か戸を敲かん
 
樹影鶯愁梅可尋     樹影鶯愁え 梅尋ぬ可し


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(韻:十二侵 七言絶句仄起式  平音は○、仄音は●、韻は◎)
(平仄規則は2・4不同、2・6対、1・3・5不論、4字目孤平不許、下三連不許、同字相侵)