全共闘ノンセクトラジカルの反乱と丸山真男の退場
1970年前後から学生運動は全学連からベトナム反戦運動(小田実、開高健、本田勝一)を経て全共闘ノンセクトラジカルへ移行した。セクトは赤軍派となって浅間山荘事件、企業爆破事件やハイジャック事件などへ展開しアラブ各国で活動した。この全共闘時代に丸山正男は急速にカリスマ性を失墜した。ジャーナリス界から批判が相次ぎ反丸山感情が大衆インテリに広がった。吉本隆明、福田恒存、藤原弘達らが正面から丸山真男の政治学を解剖し始めた。日大全共闘に始まる学園紛争は大衆団交(人民裁判形式)という形で瞬く間に全国へ広がった。これは戦前の右翼による進歩的教授の排斥運動に似た権威否定運動であった。将来学生が決して特権階級になれるわけではないとわかった時点での、大衆的権力否定運動であった。丸山らが所属する特権的知識人階級を打破しようとするのが目的である。丸山は1969年に大衆団交で三回糾弾され、発言拒否を続けたが1972年東京大学教授を辞任した。これは戦前の右翼運動というよりは中国の文化大革命における知識人追及大会に酷似するというより、本質的に同じ運動であった。大学が団塊世代とともに大衆化し、特権的知識階級(官僚や学者)でなくなったということだ。1970年代学園紛争は大学における最後の闘争になって後学生は大衆に同化され、以降大学での大衆運動は消滅した。
一人ひとりが砂漠の砂粒になって拡散し、集中することはなくなった。後は無気力と個人化の世代に変った。学園紛争が終焉すると日本経済の世界的成功に酔って、経済大国の自負と重なって日本回帰が始まった。自賛的日本文化論がさまざまなジャーナリスト界をにぎわせた。山本七平氏「ユダヤ人と日本人」などが火をつけた。丸山真男氏にとってこの日本論は戦前から執拗に繰り返された日本固有の歴史意識に聞こえて、丸山は絶望或いは失望した。
1970年前後から学生運動は全学連からベトナム反戦運動(小田実、開高健、本田勝一)を経て全共闘ノンセクトラジカルへ移行した。セクトは赤軍派となって浅間山荘事件、企業爆破事件やハイジャック事件などへ展開しアラブ各国で活動した。この全共闘時代に丸山正男は急速にカリスマ性を失墜した。ジャーナリス界から批判が相次ぎ反丸山感情が大衆インテリに広がった。吉本隆明、福田恒存、藤原弘達らが正面から丸山真男の政治学を解剖し始めた。日大全共闘に始まる学園紛争は大衆団交(人民裁判形式)という形で瞬く間に全国へ広がった。これは戦前の右翼による進歩的教授の排斥運動に似た権威否定運動であった。将来学生が決して特権階級になれるわけではないとわかった時点での、大衆的権力否定運動であった。丸山らが所属する特権的知識人階級を打破しようとするのが目的である。丸山は1969年に大衆団交で三回糾弾され、発言拒否を続けたが1972年東京大学教授を辞任した。これは戦前の右翼運動というよりは中国の文化大革命における知識人追及大会に酷似するというより、本質的に同じ運動であった。大学が団塊世代とともに大衆化し、特権的知識階級(官僚や学者)でなくなったということだ。1970年代学園紛争は大学における最後の闘争になって後学生は大衆に同化され、以降大学での大衆運動は消滅した。
一人ひとりが砂漠の砂粒になって拡散し、集中することはなくなった。後は無気力と個人化の世代に変った。学園紛争が終焉すると日本経済の世界的成功に酔って、経済大国の自負と重なって日本回帰が始まった。自賛的日本文化論がさまざまなジャーナリスト界をにぎわせた。山本七平氏「ユダヤ人と日本人」などが火をつけた。丸山真男氏にとってこの日本論は戦前から執拗に繰り返された日本固有の歴史意識に聞こえて、丸山は絶望或いは失望した。