ブログ 「ごまめの歯軋り」

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竹内洋著 「丸山真男の時代ー大学・知識人・ジャーナリズム」 中公新書 第4回/全5回

2007年06月30日 | 書評
全共闘ノンセクトラジカルの反乱と丸山真男の退場

 1970年前後から学生運動は全学連からベトナム反戦運動(小田実、開高健、本田勝一)を経て全共闘ノンセクトラジカルへ移行した。セクトは赤軍派となって浅間山荘事件、企業爆破事件やハイジャック事件などへ展開しアラブ各国で活動した。この全共闘時代に丸山正男は急速にカリスマ性を失墜した。ジャーナリス界から批判が相次ぎ反丸山感情が大衆インテリに広がった。吉本隆明、福田恒存、藤原弘達らが正面から丸山真男の政治学を解剖し始めた。日大全共闘に始まる学園紛争は大衆団交(人民裁判形式)という形で瞬く間に全国へ広がった。これは戦前の右翼による進歩的教授の排斥運動に似た権威否定運動であった。将来学生が決して特権階級になれるわけではないとわかった時点での、大衆的権力否定運動であった。丸山らが所属する特権的知識人階級を打破しようとするのが目的である。丸山は1969年に大衆団交で三回糾弾され、発言拒否を続けたが1972年東京大学教授を辞任した。これは戦前の右翼運動というよりは中国の文化大革命における知識人追及大会に酷似するというより、本質的に同じ運動であった。大学が団塊世代とともに大衆化し、特権的知識階級(官僚や学者)でなくなったということだ。1970年代学園紛争は大学における最後の闘争になって後学生は大衆に同化され、以降大学での大衆運動は消滅した。

 一人ひとりが砂漠の砂粒になって拡散し、集中することはなくなった。後は無気力と個人化の世代に変った。学園紛争が終焉すると日本経済の世界的成功に酔って、経済大国の自負と重なって日本回帰が始まった。自賛的日本文化論がさまざまなジャーナリスト界をにぎわせた。山本七平氏「ユダヤ人と日本人」などが火をつけた。丸山真男氏にとってこの日本論は戦前から執拗に繰り返された日本固有の歴史意識に聞こえて、丸山は絶望或いは失望した。


司馬遷 「史記」 3 「独裁の虚実」より「Ⅳ 崩壊への過程」

2007年06月30日 | 書評
Ⅳ 崩壊への過程

二世皇帝胡亥は全くの趙高の傀儡にすぎず、簒奪者趙高は反逆を怖れて、名将蒙恬の子息大臣蒙毅と十二人の皇子、公主十名を処刑した。これにより秦王一族は悉く抹殺され、恐怖政治で二世皇帝の権威を維持するのがやっとであった。二世皇帝は無謀にも阿房宮の工事を再開し、農民を徴発した。遂に楚いおいてBC208年陳勝呉広の農民反乱が勃発した。最初は胡亥はたかを食っていたが、乱は趙で武臣が、魏では魏きゅうが、斉では田?が王を称し、沛では劉邦が、会稽では項梁が兵を挙げた。秦軍は章邯を将軍として討伐にあたった。当初楚で立ちあがった反乱者の指導者は打ち滅ぼされたが、鉅鹿の戦いで項羽が勝利し秦は崩壊の危機に立たされた。二世皇帝胡亥は宮廷において姿を隠し、政務は宦官が裁決するに落ちいった。情報は宦官の専断するところとなり、ついに趙高は皇帝と李斯の離間に成功し、李斯の失脚と処刑を実行した。こうしても蒙昧迷妄な皇帝と丞相となった無策な宦官趙高の専横によって国家として殆ど機能しなくなった。最後には二世皇帝胡亥の錯乱に手を焼いた趙高はつい皇帝を殺害し公子の子嬰を立てて秦王とした。子嬰は趙高の企みをみぬいて趙高を殺害した。子嬰が秦王となった四十六日目劉邦が秦軍を破って武関を突破し咸陽を占領した。遅れて入った項羽は皇帝と一族を悉く殺害した。


漢詩 「池亭聴蛙」

2007年06月30日 | 漢詩・自由詩
池亭聴蛙

水殿菖蒲帯露     水殿の菖蒲 露を帯て披く

橋西柳渚碧寥     橋西の柳渚 碧寥差

乱鳴軽燕風来後     乱鳴く軽燕 風来る後

閣閣蛙声雨到     閣閣たる蛙声 雨到る時

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(赤い字は韻:四支 七言絶句仄起式  平音は○、仄音は●、韻は◎)
(平仄規則は24不同、26対、135不論、4字目孤平不許、下三連不許そして同字不許)