ブログ 「ごまめの歯軋り」

読書子のための、政治・経済・社会・文化・科学・生命の議論の場

アリストテレス著 「詩学」  ホラティウス著 「詩論」

2021年08月29日 | 書評
県西公園の鴨

 アリストテレス著 「詩学」ホラティウス著 「詩論」
 
     
岩波文庫(訳書版 1997年1月)

序論(概論)

1. アリストテレス 「詩学」

アリストテレスの文学に関連する著作としては、伝説には「ホメーロスの諸問題」、「詩人たちについて」、「詩作の諸問題」などもあったというが、現存の「弁論術」と「詩学」を除いてすべて失われたという。「詩学」のテキストは不自然、不一致、切り取りなどが散見されるので、系統的に述べた講義ノートではなく草案、メモの類ではないかと想定される。アリストテレスの哲学者としての経歴は、
①プラトンのアカデミアで学んだ時期(前376-347)
②アッソス、ミュティレーネに滞在した時期(前347-342)
③マケドニアの王子アレクサンドロスの家庭教師の時期(前342-335)
④アテーナイに開いた学校リュケイオンで教えた時期(前335-323)
の四期に分けられるが、「詩学」はいつの時期に書かれたかは不明である。
本書のギリシャ語の原題は「詩作の技術について」であった。ポイエーシス(詩作)がいつか専ら詩を作ることを意味するようになった。ギリシャ文学作品は叙事詩、抒情詩のみならず、悲劇、喜劇などもすべて韻律を用いて作られた。それは人間の行為の再現(模倣)である。自然学者の詩も韻律(六脚律)で作られているが、これは哲学であって文学ではない。詩(文学)は作るもので、神から与えられたものではない。しかし合理的な原理(技術)によって、はたして詩が作れるのだろうか。アリストテレスが技術という時、一般的・常識的な意味を超えた面がある。アリストテレスは。技術は自然を模倣するという。後代「芸術は自然を模倣する」と理解されているが、自然と技術(芸術のみならず、技術一般)との間には類比関係が認められ、自然と技術には合目的性が共通して存在することを言っている。技術の合目的性は自明として、自然の合目的性とは最も優れたものを作る(生物については生物の概念に完全に具現した状態が発生の目的である)ことである。再現(模倣)をおこなうことのみならず、再現されたものを喜ぶことも人間の本性(自然)による。

文学史的によれば、詩作の起源は、再現に長けた人間が即興の作品から始めて、少しづつ発展させて詩作を生み出したといわれる。軽い性格の人は劣った人間の行為を再現する諷刺詩を作った。ホメーロスは優れた人間の行為を再現する叙事詩「イーリアス」、「オデュッセイァ」を、諷刺詩として「マルギーテース」を作った。諷刺詩は喜劇となり、叙事詩からは悲劇が生まれた。アリストテレスは、詩(文学)悲劇の成立を自然の合目的な生成として発展を終えて、テキストの韻文は今日の文学的詩文と転化したと考えた。技術の合目的性は自然の合目的性に従うので、技術そのものが自然の可能性を実現する方向に向けて発展する。ホメーロスが偉大なのは、彼が独創的な二大叙事詩を作っただけでなく、劇的再現によって悲劇と喜劇への道を切り開いたからである。すなわちもっとも優れた再現形式としての劇の可能性を最初に発見したからである。ソホクレース、アイスキュロスが対話を劇中に持ち込み、悲劇の本性を実現のために尽くした。詩人の最終的評価は、個々の作品の詩的卓越性や独創性によってではなく、詩作の本性を実現するにあたっての貢献度によって決定される。アリストテレスにとって重要なのは、原初的な賛歌や頌歌あるいは悲劇の起源とみなされるサテュロス劇、合唱叙情詩ではなく。完全に発達した形の詩作、悲劇であった。彼は詩作全般を扱うと言いながら、実際は悲劇についてだけ論じている。悲劇こそが再現による詩作(文学)の可能性を実現したと考えるからである。三大悲劇詩人の中でも。アリストテレスはアイスキュロスの作品は無視し、ソポクレースとエウリーピデースの作品を中心に論じている。彼はこの二人の作品から、悲劇のより優れた、より完全に近い形を理論的に抽出しているのである。悲劇の目的(機能)はどうすれば最もよく達成できるのかが議論の中心である。従って教訓的叙事詩はオミットされている。
ギリシャ悲劇は、ギリシャ神話・伝説からとった題材に基づいている。それは神の支配する世界(偶然、と運命の支配する世界)において人間がどう生きるかを問うものである。悲劇詩人は出来事の背景の神の意思があるという設定で劇を作るが、アリストテレスは、劇は人間の行為の再現であり、その行為は有りそうな仕方で、あるいは必然的な仕方でなされるべきだと考える。

従ってアリストテレスは、神あるいは偶然が劇の中に這いこむことを認めない。アリストテレスはミュートス(物語、フィクション)という意味で、出来事(行為の結果)の組み立てすなわち劇の構造とその原理を重要視するのは、合理を排し因果関係を重視するからに他ならない。ソポクレースの「オイディプース王をギリシャ悲劇の代表作とみなしている。彼はソポクレースの「オイディプース王」をギリシャ悲劇の代表とみなしている。オイディプース王が破滅するのは神の働きではなくて、彼自身の過ちの因果応報によることになる。この劇は神の働きが取り除かれ人間だけの悲劇になるのである。オイディプース王の様に不幸になる理由がないと思われる男にさえ、神(偶然)が入り込むわずかな隙間(悲劇的不安定の世界)がある。しかし神(偶然)のような不合理な要素を「劇の外」に置くのでなければ、悲劇は人間の行為を統一的に再現することはできないとアリストテレスは考えるのである。これがアリストテレスの悲劇理論の根幹にある。アリストテレスの文学理論は、悲劇を叙事詩に勝るものとみなした。劇は有りそうなこと、必然的なことを再現するのでなければ成立しないとするならば、神の行為は予測不可能、説明不明であるので、劇の筋を破壊することになる。ホメーロスの叙事詩には神がしばしば登場し人間の行為に介入するが、悲劇では神が直接当事者になることは少なく、舞台上の人間の行為が中心となる。悲劇が人間の行為だけからなるとするならば、歌い踊るコロス(合唱)は行為しているのだろうか。悲劇は合唱抒情詩の音頭取りから始まった。俳優の会話には加わらないし、その韻律も役者のそれとは異なる。アリストテレスはコロス全員に対して、叙情的要素を棄てて俳優の役割を果たすよう要求する。アリストテレスの時代には、コロスの役割は減じ、悲劇は写本を読むだけで味わうことができる文化的状況となった。所謂読者層ができたのである。悲劇の機能を考えると、テキストを読むだけで、コロスの踊りと歌、俳優の所作、舞台装置などを伴う総合技術たる劇の上演を想定することができる。

アリストテレスはホメーロスを褒め称えて、「ホメーロスが偉大なのは、彼が独創的な二大叙事詩を作っただけでなく、劇的再現によって悲劇と喜劇への道を切り開いたからである。すなわちもっとも優れた再現形式としての劇の可能性を最初に発見したからである。」という部分と、文学史的な著述で劇の歴史的成り立ちを「悲劇はコロス合唱抒情詩の音頭取りから始まった。コロス合唱者は俳優の会話には加わらないし、その韻律も役者のそれとは異なる。」といった伝説的な見解をそのまま書いているが、かれの詩作理論・劇理論にも合致しないし、統一的な見解もない。悲劇は完結した一つの全体としての行為の再現であることを要求するアリストテレスの見解にも一致しない。プラトンは、詩は感覚される世界の個々の事物を模倣し再現するものであると考えた。だから感覚世界の模像によって人を喜ばせるものであるから衝動的なものが理知的なものに勝るという誤った結果を生む。とりわけ影響力の大きいホメーロスと悲劇詩人がプラトンのイデーの世界から追放された。一方アリストテレスは、模倣・再現は人間の本性に基づくものであり、悲劇という形において具現化したと考えた。模倣・再現性の最も大きな悲劇をもっとも発達した形、すなわちすぐれた文学作品とみなした。アリストテレスは悲劇がありそうなことと必然的なことの原理に基づく出来事(行為)の組み立てを通じてその目的を達成するならば、神の介入のような不合理な要素は劇の外に置かなければならないとした。アリストテレスがあらゆる学門分野にわたって思索する哲学者として、詩作を考察の対象に取り上げたのは当然である。出来事を生起の順序に従って記述するという形は年代記的・羅列的記述であるが、歴史が人間の行為の再現でないことは言うまでもない。もし歴史がアリストテレスの言う普遍的なことを目指すとするならば、それはもはや個別事件の記述にとどまらず、人間の行為の再現、すなわち詩(文学)に限りなく近づくであろう。普遍的という点では哲学も同じである。本書「詩学」の中心部は、主として筋の構造・組み立てとその機能の考察である。悲劇の構造と機能、変転、転換、認知、逆転を伴う複雑な筋を考察する。(起承転結に相当する)劇の中の出来事は、予期に反して厳密な因果関係によって場合最も大きな効果を上げる。すなわち驚きが生まれ、憐れみと恐れの感情を引き起こす。よって筋の展開が最も重視される。筋と悲劇は同一視される。「詩学」は神・運命などの、ギリシャ文学の伝統的要素を捨象することによって、文学理論としての普遍性を獲得したのである。

(つづく)


最新の画像もっと見る

コメントを投稿