ブログ 「ごまめの歯軋り」

読書子のための、政治・経済・社会・文化・科学・生命の議論の場

東日本大震災と医療問題:私達は何をすればいいのか

2011年07月06日 | 時事問題
医療に関する提言・レポートfrom MRIC by 医療ガバナンス学会(2011年7月5日)「共震ドクターにかける想い」 熊田梨恵 「それ行け!メディカル」編集長 より

 筆者は大震災の映像を見て、何も出来ない自分に罪悪感や無力感を感じていた。自身が2004年台風23号による兵庫県北部の河川氾濫で床上1m浸水の被害にあっている。その筆者が長尾和宏医師の被災地での経験を整理し、何をしていいか分らずに苦しんでいる人の道しるべとなる本を長尾氏と共著で出したという。「共震ドクター阪神そして東北」(ロハスメディカル叢書 2011年7月11日)だそうだ。なお長尾医師はこのサイトでよく発言されている。一番近いアップは(2011年4月17日)「原発周辺で働く人に厳格な産業保健の適用を」 長尾和宏 長尾クリニック院長 である。

読書ノート 木簡学会編 「木簡から古代が見える」 岩波新書

2011年07月06日 | 書評
古代の荷札から見えてくる生活と歴史 第6回

2)「奈良の都を再現する」 都の木簡 (1)

 1961年平城宮大極殿の北に位置する役所跡の発掘調査で、ゴミ捨て場用孔(土坑)から40点の木簡が出土した。この木簡が平城宮遷都の時期を巡る論争に終止符を打つというホームランとなった。「続日本紀」によると、708年2月15日に元明天皇が平城遷都の詔を出した。3月に造宮省、9月に造平城京司という都造営の役所が出来、翌709年12月5日には天皇は平城宮に行幸(建設状況を視察)した。710年正月に元日朝賀の儀が行なわれた。それがもとの藤原宮だったのか、造営なった平城宮だったのかが研究者の論争の種であった。3月10日には「平城に都を遷す」と記されている。詔から遷都までの2年1ヶ月で大極殿を中心とする平城宮が出来ること自体が今の突貫工事をもってしても難しいといわれるが、その秘密は藤原宮の大極殿を解体移築したことである。また朱雀大路は幅70メートルの大道であったが、それも昔からあった「下ツ道」を拡大工事して利用し、都の東の大路は昔の「中ツ道」を利用している。それでも遷都から1年半ごの711年9月の「続日本紀」の記事は「今宮の垣いまだならず、防守備わらず」と新都の築地塀が完成していないことを伝えている。したがって710年元旦の朝賀の儀を行なう平城の大極殿は出来ていなかったと予想されるが、それが出土した木簡で確かめられた。710年3月の月の伊勢国からの税荷札から、大極殿の回廊あたりは未完成であった事を示している。3月の平城宮遷都のときは大極殿は工事中であった。工事中の仮住まいに遷都したことになる。朝賀の儀に大極殿が使われたのは「続日本紀」によると715年であり、そのときまでには大極殿は完成していたことになる。
(つづく)

読書ノート 森毅著作集 「一刀斎 数学三部作」

2011年07月06日 | 書評
一刀斎先生 数学の歴史を語り、数学教育を斬る 第31回 最終回

森 毅著 「異説数学者列伝」(ちくま学芸文庫)
28) ラマヌジャン(1887-1920)
 1913年、インドのマドラス港湾信託事務所で働く25歳の青年ラマヌジャンはケンブリッジ大学のハーディ教授に手紙を送った。手紙には120の数学公式が書き連ねてあり、ハーディは迷うことなくこの青年をイギリスに招いた。ラマヌジャンは少年時代よりナマジリの女神と交渉して数学の啓示を受けていたようで、ハーディはこの青年に教育を施しても数学の芽を摘むことになりかねないと危惧し、自分お手元において養い、彼の書く公式の証明役を引き受けたという。20世紀の数学は証明だけに興味があるので、事実としての数学の式が尊重される時期は18世紀に終っていた。そこでハーディはラマヌジャンを王室協会員に推薦して待遇した。20世紀でもラマヌジャンのような数学者がいたことは、一種の清涼剤のような気がする。1918年に第1次世界大戦が終わり、31歳のラマヌジャンはインドに帰った。イギリスにいたのは僅か戦争中の5年間だけであった。インドに帰った彼は間もなくなくなった。

29) ウィナー(1894-1964)
 ウィナーはハーバード大学のスラブ語の教授の息子として、そしてユダヤ系ドイツ出身のアメリカ知的エリートであった。又飛びっきりの神童ぶりを発揮し、9歳で高校に入り14歳で大学を卒業した。学位をとってから、イギリスにゆきラッセル、ハーディ、ヒルベルト、フッサールの講義を聞いたが、1914年20歳でアメリカに帰国した。ハーバード、メイン大学で講義をしたが面白くなく、映画とブリッジに埋没して数学界の主流から疎外された。戦争中はGEの技師、編集者、新聞記者などの職業を遍歴したことが、後のサイバネティックスにつながったのではという。三流技術者養成学校であったMIT(日本でいうと職工学校であった東京工業大学にちかい)で講師をしたが、ボスとはうまく行かず退屈で、チャールズ川の波のブラウン運動を見て「ウィナ-過程」の研究が始まった。1930年MITの学長となったコンプトンがウィナーの業績を見て、理学と工学の結合というMIT理念に乗り出した。1934年「複素領域でのフーリエ変換」はペイリーとの共著である。第2次世界大戦中はドイツに幻滅し精神的不安定な時期であったという。計算機とオートメーションの時代が到来し、2進法と電子回路によるコンピュータ情報論の先陣を切った。制御と予測の理論と結合し、「シャノン=ウィナーの情報量」という通信工学、そして1948年「サイバネティックス」に至った。ウィナーの性格は粗雑晦渋であり、彼がいなくても相応する数学工学者はいくらでもいたので、ウィナー不要論まで存在する。しかし時代を切り開く個性はいつも粗雑であった。

30) ノイマン(1903-1957)
 悪魔が人間の真似をしたといわれたノイマンはブタペストの銀行家の息子として生まれた。中学校の時から神童の誉高く、ブタペスト大学に入学した。22歳の学位論文は集合論の公理で、ノイマン=ベルナイス=ゲーデルの公理系といわれている。23歳でベルリン大学の講師となってヒルベルト空間、量子力学、ゲーム理論の基礎の仕事をし、26歳でアメリカプリンストン大学へ移った。1933年プリンストン高等研究所において29歳の最年少教授となった。関数解析の研究は、ヒルベルト空間の作用素環論になり、「連続幾何」を生んだ。1932年「量子力学の数学的基礎」は物理学にヒルベルト空間を導入した。戦争前にノイマンは純粋数学者の花形と映ったようだが、35歳以降は軍事研究者に変身した。衝撃波の研究はジェット機の前触れであり、1942年ロスアラモス研究所に入ってマンハッタン計画に従事した。、ノイマンは「チュウリングの計算機」によってプログラム内蔵方式を生み出した。1944年「ゲーム理論と経済行動」は戦後の数理経済学に隆盛を招き、マクナマラの戦争を導いた。冷戦時代には1950年より水爆計画がはじまり、フェルミ、ファイマン、ノイマンらが参画した。それから原子力委員会、ICBM委員長を歴任した。
(完)

筑波子 月次絶句集 「夏日溽暑」

2011年07月06日 | 漢詩・自由詩
樹影林蝉亦懶飛     樹影の林蝉 亦た飛ぶに懶く

院寂莫午風微     院寂莫 午風微なり

抛書溽暑侵吟榻     書を抛て溽暑 吟榻を侵し

流汗如湯透客衣     流汗湯の如く 客衣を透る


●●○○●●◎
○○●●●○◎
○○●●○○●
○●○○●●◎
(韻:五微 七言絶句仄起式  平音は○、仄音は●、韻は◎)
(平仄規則は2・4不同、2・6対、1・3・5不論、4字目孤平不許、下三連不許、同字相侵)