とぎれとぎれの物語

瀬本あきらのHP「風の言葉」をここで復活させました。小説・エッセイをとぎれとぎれに連載します。

斐伊川を写す

2010-09-02 23:14:19 | 日記
斐伊川を写す



 斐伊川の美しい風景を写真に収めたいと苦心するが、どの位置から見てものびやかな姿を現さない。
 斐伊川は二つの顔を持っている。増水期には濁った激流が流れ下り、堤防をぶち破るかのような勢いを見せる。しかし、渇水期には底の砂を見せて、これが川か思わせるような弱弱しい流れとなる。下流域では、川幅の中心のあたりを流れる細い川となり果てる。若い頃、南の山の中腹から写したことがあるが、迫力がなかった。その上最近は橋の数が増え、北神立橋から上流を見ると、いくつもの橋が視野を妨げる。とにかく写すには厄介な川である。
 私は、先日、せめて真中の流れでも写そうと思い立ち、瑞穂大橋付近の土手から川原に降りて、古いカメラを提げて歩き始めた。草はすべて機械で刈ってあり、芝生の上を歩いているような感じがした。しかも、歩いてみてその川原の広いのに驚いた。水流までたどり着くと、息切れがするほどだった。振り返ると、土手に置いてきた車が小さく見えた。
 しかし、流れの両岸には柳の木が茂っていて、視界が遮られた。木の隙間からは上流は見通せない。わずかに向こう岸が見えるだけだった。私が挫けそうになっていると、枝の間からウグイスの声が聞こえてきた。
 柳の林、風の音、鳥の声……。私はここが大河の真中だということをしばし忘れていた。それから枯れ葦を踏んでひたすら歩いて下り、とうとう河口までたどり着いた。川は満々と水をたたえ、緩やかに湖に流れていた。土手に水仙が咲き乱れている。私はほっとしてカメラを構えたが、写す気持ちが湧かなかった。斐伊川を写す? 私の腕では到底できないと思ったのである。(2006年投稿)

白鳥は……

2010-09-02 23:06:19 | 日記
白鳥は……



 一所不住。渡りをしながら餌場や繁殖地を求め、群れをなして生活している鳥たち。私はその境涯に心引かれるものを感じている。例えばハクチョウ。宍道湖西・北岸に毎年飛来するコハクチョウを見ていると、わびしさと逞(たくま)しさを感じる。
 ところが、渡りを放棄する鳥もいることを最近知った。斐川町の新建川に住んでいる二羽のコハクチョウである。この鳥は初めの頃はもっと数が多かったと聞く。両岸が住宅地なので、パンなどの餌を近くの人が与えていたそうである。九月の初めの頃、私はその二羽の美しい姿を見た。それから何度となく見に行った。しかしいつの間にか姿が見えなくなった。それから私は気がかりで落ち着かなくなった。
 ……居た。居た。十月十七日に国道九号線を東へ急いでいたが、その車中から、新建川河口付近に居る二羽のコハクチョウを見つけたのである。オッと思わず口に出して喜んだ。反面、いや、待てよ、あの鳥とは違うかも知れないという気持ちもしたが、そんなにたくさん居残り組がいるはずはないので、私はあの鳥がいつの間にか餌場を求めて河口に下ったに違いないと考えた。仲が良さそうなのでつがいだろうとも思った。
それにしても、どうして居残ったのか。山陰の風土に適応していけるのか。いずれまた訪れて来る群れに戻ってゆくだろうか、……。車中で私はいろいろ思いやっていた。すると、「白鳥は哀しからずや……」という有名な若山牧水の歌が記憶の底から蘇ってきた。もちろん牧水が詠った白鳥(しらとり)は必ずしもハクチョウとは限らない。しかも一羽と考えられる。が、その歌を思い出しながら二羽の鳥の運命の不思議にしばらく捕らわれていたのである。                               (2005年投稿)


(追記)
  その後の私の観察により、この鳥はコハクチョウではなくて、コブハクチョウだと分かった。

2010-09-02 22:57:01 | 日記




 数日前の朝、台所で新聞の記事を拾い読みしていると、白梅の写真が目に飛び込んだ。暖冬のせいで今年は例年より大分早く咲き始めたという。私はその写真を見ながら、複雑な思いで梅の花の香りにまつわる次の歌を思い浮かべた。
 春の夜の闇はあやなし梅の花色こそ見えね香やは隠るる(『古今和歌集』凡河内躬恒)
 この歌の意味は、「春の夜の闇は何を隠しているのだかよくわからない。梅の花は色こそ見えないが、その香は隠れることがあるだろうか」ということになると思う。春の夜に漂う妖しげな雰囲気を梅の香で旨く捉えていて、私はこの歌が好きだった。
 できればこの香をわが家の庭で嗅いでみたいと思っていた。運良く下の娘が成人式の記念に苗木を二本貰って帰ってきたので、早速植えた。ところが、一本はすぐに枯れてしまった。残りの一本に望みを託していたが、まもなくその木も枯れた。その後、別のところから梅の木の芽が伸びだして、数年後にはかなりな高さになった。今度こそ大事に育てて私の好きな梅の香を堪能しようと意気込み、自分なりに精一杯努力した積もりだったが、病気が出たり、虫がついたりして、手におえなくなった。挙句の果て、倉庫を建てるために切ってしまった。
 (どうもわが家には梅の木は縁がない)。心の中でそう呟きながら、客間の仏壇の前に座って、線香をくゆらせた。と、何かしらいい香りがしてきた。(線香でもないな)。私は周りを確かめた。(ああっ、梅の花だ!)と私は心の中で叫んだ。床の間に生けた白梅がいくつか咲いていたのである。私は、お経を読むのをしばらく忘れて、その香を楽しんだ。
                              (2007年投稿)

認知症か?

2010-09-02 10:05:45 | 日記
認知症か?



今日(二十七日)は、おいおい、しっかりしてくれよ、大丈夫か、と自分に何度も問い掛けた一日だった。というのも、続けて数回危ない目にあったのである。
 夕方平田に買い物に出かけ、店で親戚のものと話し込んだり、品物を物色しているうちに外は薄暗くなった。私はあわてて車に乗った。その後、続けてミスをしでかした。一回目は、交差点の信号が赤だとわかっていたのに、止まらずに停止線から大きくはみ出してしまった。運良く他の車と接触しなくて済んだ。そして、その次の交差点では車を止めてじっと待っていた。ふと見ると、信号がない! 私は後ろの車に心で詫びながら右折した。そして、家の近くの田んぼの中の見通しのよい交差点でもしばらく停車していた。あっ、そうだ、ここにも信号がない! 私は後続車を確かめた。いない。思わずほっとした。
 家に帰って、そのことを家族に話しながら夕食を食べた。そして、いつも食事前に準備しておく食後の栄養剤(錠剤)を探した。ない! 私は妻や娘に探させた。家族の誰かがどこかに移したに違いない、と思ったからである。しかしどこにもない。私は、ああ、今日は嫌な日だと思った。そして食事のときの自分の行動を思い出してみた。そうだ、のんでいた! たしかにのんでいた。私は錠剤を口にしたことをすっかり忘れていたのである。
 後で自分の部屋に引き篭もり、私は泣きたいような気持ちで、インターネットの認知症自己診断テストをした。結果は二十三点。二十四点以下は、認知症を疑ってください、と書いてあったので、いよいよ私は落ち込んでしまった。医者に行こうか、どうしようか? 
(2007年投稿)

二羽のハクチョウ

2010-09-02 10:02:13 | 日記
二羽のハクチョウ



 どこへ行ったのか、あの新建川に居ついたハクチョウは……。姿が見えなくなってから私は落ち着かなかった。
三日に妻と宍道湖の河口付近の北土手を歩いて探した。数キロ歩いたが、それらしき鳥はいなかった。
 五日に一人で車で出かけた。やはり北の土手道を下っていくと、南岸の葦の繁みに見え隠れしている二羽を見つけた。傍では誰かが釣りをしている。私は急いで車を向こう岸に回した。途中茅が茂っている未舗装の狭い道を通った。ザーッと何度も車体が枯れた長い茅の株に接触した。行き止まり! 慌てて引き返し、また別の道から土手道に上がった。
 カメラを持って車から出て、土手を降りていった。葦の浮島の上に乗っかると、ちょうど一羽のハクチョウが顔を出した。今だ! シャッターを切ろうとしたが、スッと姿を消した。しまった! そう思った途端ズルズルと体が沈み始めた。
 やっとのことで土手道に這い上がると、二羽のハクチョウは川の真中へ出ていた。私は、憑かれたようにシャッターを切った。ホッとして車に帰り、車のボディーをよく見ると、全体に掻き傷のような白い線が何本もできていた。新車なのに……。ひどいものだ。私は向こう見ずなおのれを猛省した。
 そうまでしてどうして写真を撮らねばならなかったのか? 衝動的とも思える私の行動の原因を考えてみた。
新建川河口。そこは、一昨年他界した弟が好んだ場所だった。早朝に来て、宍道湖の朝日を撮り続けていた。「仕事を早く辞めて、シジミ捕りや魚釣りがしたい」。河口からシジミ捕りの舟が出るのを見ながら、弟はそう思っていた。
 ……そこに居ついた二羽のハクチョウ。私は、無意識のうちに、普通のハクチョウとは違う、と心の底で思っていたかも知れない。(2005年投稿)