とぎれとぎれの物語

瀬本あきらのHP「風の言葉」をここで復活させました。小説・エッセイをとぎれとぎれに連載します。

凡夫のお経

2010-09-03 11:21:52 | 日記
凡夫のお経


 私は、特に熱心な仏教信者ではない。しかし、十年前に母が亡くなった時に、実家と同じような形の仏壇を買い求め、ご本尊(釈迦牟尼佛)をお迎えして、朝晩お経を唱えている。それが私の日課となると、何かの事情があって、仏壇を拝まないことがあると、気にかかってどうにも落ち着かなくなった。
 「お勤めの時には、どのお経ですか?」。実家の法事の時に、方丈さんがそうおっしゃった。私は、即座に「舎利禮文(しゃりらいもん)です」と答えた。そのお経は短いので覚えやすかったからである。すると、方丈さんは「ああ、そうですか」と、ややがっかりしたような表情になられた。いや、そう見えたのは、私の易につく心根を反省する気持ちがあったからである。そのお経は、仏舎利を尊ぶ崇高な言葉が連ねてあるが、何しろほんの五行程度である。
 そこで、私は、「般若心経」に挑戦した。数ヶ月練習していたが、何とかお経本を見ないで唱えることができるようになった。すると、いつもその独特の調子の仏語が、頭の中に反響していた。「色即是空。空即是色。受想行識。亦復如是。舎利子…」。
 私は、曹洞宗総本山永平寺の僧のお勤めの声をラジオで聞いたことがある。その時に、思ったより早いテンポの格調高いハーモニーが心に響いてきた。だから、私は今その調子に真似て「諷誦(ふじゅ)」している。
 それで、そのお経の意味は分かっているの? と自身に問い掛ける。以前に解説書を読んだことはある。しかし、すっかり忘れてしまった。いや、忘れたのではない。頭が受け付けなかったのである。ただ、「無苦集滅道」が「空」の世界の大切さを説いていることだけは、感覚的にひきつけられた。(2006年投稿)

変貌する山

2010-09-03 11:18:32 | 日記
変貌する山



 誰かが写してくれた自分のスナップ写真を見て、へえー、俺はこんな姿なのかー、と驚いた経験は誰しもお持ちだろうと思う。鏡で毎日見ている姿とずいぶん違っているからである。
 これと同じで、風景も見る場所によって変貌することを実感した。今月七日、荘原公民館のウォーキングに参加した。目的地は直江の斐川公園。私たちは旧新川廃川地の道を西に向かってひたすら歩いた。時折こぬか雨が降ってきた。南の山々の新緑が輝いて見えた。やがて高瀬山の真北あたりに来た。何気なくその山を眺めると、まるで違った形に見えた。とがった山頂の手前に、大きなコブのような山が突き出て見えたのである。私は新鮮な驚きを感じた。
 考えてみれば当たり前のことである。山々は見る方角によって形を変える。反対の南側から見ると、まるで別の山のように見えるかもしれない。風景というものはその人が住んでいるところに応じた形を現すのである。だから、同じ山でも、さあ、その形を描いてみなさい、と言われて描くと、その土地土地によって形が違ってくる。
 我々は自分が毎日見ている形が絶対的ですべてであると思っている。ところが、形あるものはその見る角度によって姿を変える。
 これは形のないものでも同じである。いつも真正面から考えている人と、側面、背面からもものごとを考えている人とでは、生き方に大きな差異が生じてくる。この歳になり、あまりにも当然のことに改めて気づいたのである。大型連休の最後の日、私は忘れていた真実を山から教えてもらった。 (2006年投稿)

仏像模写?

2010-09-03 11:15:17 | 日記
仏像模写?



 「何? 顔面仏像模写?」。一月二十日に届いた「全労済」のPR紙第一面のインタビュー記事を読んでいて、私は思わず呟いた。あのNHK朝の連続テレビ小説「わかば」のヒロイン高原若葉役の原田夏希さんの得意芸だという。
 そのドラマはとびとびにしか視ていないし、その女優さんについても詳しいことは知らなかった。しかし、私は急にその人に親しみを抱いた。何かご縁というものを感じたのである。
 というのは、私は特に篤い仏教の信者というわけではないが、朝晩仏前で念仏を唱えているからである。多情仏心とか、鬼の念仏という部類に属する所業である。その上、今、仏像の収集に熱をあげている。買い求めたものはいずれも安いものばかりである。私はその仏像を一週間交代で床の間に上げまつり、いろいろな角度から見つめ、微妙に変わる表情を味わっているのである。
 ご本尊は仏壇の中。その他の諸菩薩・諸尊は床の間。仏像を入れ替えると、床の間全体の雰囲気ががらりと変わることに気づく。高村光雲の観音像(複製)の穏やかな笑み、釈迦十大弟子(一部)の苦行の相、千手観音像の慈悲に溢れた表情、円空仏(複製)の純朴な笑み。それぞれが醸し出す気。仏像には、到底私ごとき俗物には達し得ない境地が表情に滲み出ている。
 その表情づくりに彼女が挑戦し、得意芸として完成させた!  私は参ってしまった。芸ここに極まれり。一度拝見したいものだ。そういう感慨に浸っている。その芸があったからこそ、厳しいオーディションをクリアしてきたのであろう。そう思ってドラマを視ると、彼女のふとした仕種に心の深さを感じるときがあるのである。(2007年投稿)

飛天

2010-09-03 11:09:51 | 日記
飛天



 先日、倉吉の打吹公園に行った。ふと寄った喫茶店の壁に木の透かし彫りの飛天が数体飾ってあった。天女伝説にゆかりのある打吹山の名は、天上に帰っていった母なる天女を子どもたちが恋い慕い、太鼓を「打」ち、笛を「吹」いて呼んだということに由来しているという。私はその透かし彫りがまことによく奈良の薬師寺東塔の飛天に似ていると思った。
「みんな、塔はどういう役割をしていると思う?」。昔、修学旅行で薬師寺に行ったとき、案内役の若い僧が子どもたちに問い掛けた。誰も答えるものがいなかった。私も分からなかった。「お墓だよ」。僧は意外な答えを示した。私はそのことを今でもはっきり覚えている。
塔の最上層の屋根に立っている金属の装飾を相輪といい、その基部を伏鉢と言う。ここに仏舎利を納める。九輪はそれにさしかけた傘。その上に塔を火災の厄難から守る水煙が取り付けてある。薬師寺の水煙には透かし彫りされた二十四体の飛天が、笛を奏で、花をまき、衣をひるがえして祈りを捧げて、仏を讚えている。まさしく荘厳な「お墓」である。アメリカの美術研究家・フェノロサは、この東塔を「凍れる音楽」と評した。
 天女伝説は全国に流布している。しかし、楽器を関わらせた打吹山の伝説は全国でも少ないのではないのか。母の天女から教えられた天上の音楽を奏でて切なる思いを伝える子どもたち。何と甘美で恍惚とする世界ではないか。
 私は一観光客として偶然に飛天の像に再会した。作者は分からない。しかし、この作者は遠い空からかすかに聞こえてくる厳かな天上の音楽を確かに聞いていたに違いない。
                                  (2005年投稿)