とぎれとぎれの物語

瀬本あきらのHP「風の言葉」をここで復活させました。小説・エッセイをとぎれとぎれに連載します。

真実が知りたい!

2010-09-08 21:55:53 | 日記
真実が知りたい!




 まだ私は松平直政の初陣に拘っている。今度は直政病である。
手に入れた「初陣の図」には須山勝寂の原画があり、それを参考にしたものだと後で分かったので、その元の作品にお目にかかりたいものだとしきりに思っている。また、敵将の軍扇をどうして後生大事に松平家では保存していたのか、という疑問の解決に苦しんでいる。
前者の問題は早急に解決したいと思っている。持ち主の見当もついている。ただ、後者の問題は複雑な要素が錯綜しているので、なかなか解決できないような気がする。だから、私は思い切って「ありがたき幸せ」と直政が受け取ったという風に強引に書いた。
ある知人から『松平直政公戦功講談』を借り受け、真田丸攻めの経緯を詳しく知ることができた。その本には次のように書いてある。

① 先陣を果たそうと勇んで駆ける公をかばうために家臣が何度も公を追い抜いている。

② その様子を櫓から見ていた幸村は、その庇おうとする従者の姿とそれを払いのけるように先頭に出ようとする公の勇姿に甚く感動し、矢玉の攻撃を一時中断させている。その上、公の軍勢にも攻撃中止のお願いをしていて、一時敵も味方も二人の姿を見守っていた。幸村軍の攻撃が止んだところで軍扇を投げ与えている。

③ しかし、公は何をほざくな!と反発して、なおも攻め入ろうとしている。

 これは松平家で講談師が語った内容である。だから、史実と完全に一致はしないと考えている。しかし、それにしても敵将が投げ与えた軍扇を公が拾ったのか、家臣が拾ったのか、その本には少しも触れてないのである。私の疑問は膨らむばかりでどうしようもない状態である。だから、私は美化して書いた。敵味方の大将が先陣で心を通わせる人間らしさ。これこそ絵になるのである。
 補足だが、その本には、その後、敵味方が攻撃を開始し、公はある家臣に守られていたものの、命が危ない状況となる、と記してある。
 ……真実が知りたい! 軍扇をどうしてそこで直政公(もしくは公の家臣)は拾って持ち帰ったのか。(2007年投稿)

出会いの不思議

2010-09-08 14:35:46 | 日記
出会いの不思議


 若い頃、美術品のセールスマンがよく職場にきた。額装したもの、軸装したもの、色々と取り揃えて陳列して、通りかかると言葉巧みに勧めた。現職の強みは月賦という手段が使えることである。だから、妻に後で叱られることを覚悟で、たまに買い求めていた。北海道の伊藤倭子氏や秋山巌氏の版画が好きで、今、数点手許にある。
 その秋山巌氏については、とにかく私は種田山頭火の句が好きで、それに因んだ作品を買い求めていた。ところが、彼の棟方志功氏の直弟子だということは恥ずかしながら最近知った。値段を確かめると、昔より高値が付いている。絵付けをした花瓶も持っているが、そういう品は十万単位の値である。
 いや、私が述べたいことは、値段のことではない。先日、ネットオークションで見つけた俳句の軸物の署名に「銀汀」と崩し字で書いてあった。銀汀? 聞いたことがあるな。私は何かしら胸騒ぎがして、すぐに調べてみた。私の予感は当たっていた。荻原井泉水(おぎわらせいせんすい)の同門の俳人小林銀汀である。山頭火は、昭和十一年五月、荻原井泉水の同門として新潟の長岡市の彼の家を訪ねているのである。
 山頭火のあの眼鏡を掛けた写真は写真屋を営んでいた銀汀がその時に撮ったものだそうである。遠くを見つめているような眼すがたのきりっとした写真である。

 うしろすがたのしぐれてゆくか

 秋山氏の版画にはこの句の奥に時雨でかすんだ僧の姿が小さく描いてある。秋山氏はいつも後ろ姿の山頭火を描いた。それがそこはかとない寂寥感を醸し出している。前書きは「自嘲」である。                      (2007年投稿)


参考画像


 

十四歳の初陣

2010-09-08 14:14:12 | 日記
十四歳の初陣



 時は慶長十九年(一六一四年)師走、矢ぶすま、弾丸の中をかいくぐり、大阪城真田丸(出城)めがけて疾駆していく先駆けの騎馬武者一騎。その人物を見てやれば、まだあどけなき顔の美少年。その勇姿を砦からじっと見守っていた真田幸村、「敵ながらあっぱれな若武者」と思うや手にしていた軍扇をその武者めがけて投げ放つ。若武者、これはありがたき幸せとばかり扇を受け取り、敵の大将にそれをかざして黙礼した……。その初陣の若武者は、当時弱冠十四歳の松平直正である。後信州松本から移封され、松江藩松平家初代の藩主となり、藩の基礎作りをすることになる。その軍扇は現在松江城一階に保管・展示されている。
 さて、その大阪冬の陣の話を思い出させる掛軸に私はお目にかかったのである。今月の二十七日に宍道の蒐古館で催された「蚤の市」には、奇しくも幸野西湖筆の「直正公初陣図」が出品されていた。ちょうど松江開府四百年祭が展開されていて、私は深い因縁を感じたのである。西湖と言えば、かの小村大雲の師幸野楳嶺の次男である。その軸は横物で小品だったが、黒斑(くろぶち)の馬に跨って戦う若武者が鮮やかに描かれてあった。私はその絵に釘付けになった。そして一晩思案した後買い求めた。値段も手ごろだった。その絵をお迎えして床に飾って、私は先ず合掌、礼拝した。陋屋(ろうおく)に畏れ多くも藩主をお迎えした感激はひとしおである。家宝として大切にしたいと思っている。
 さてさて、最後まで掛軸の話になって申し訳ないと思っていますが、ひとまず今回にて打ち止めとし、暫く充電させていただきます。三年半にわたるご支援ありがとうございました。                       (2007年投稿)


(追記)この小文が『島根日日新聞』への最後の投稿となりました。しかし、このブログは順不同で掲載していますので、暫く続けさせて頂きます。今後もよろしくお願いいたします。

自販のメニュー

2010-09-08 14:11:35 | 日記
自販のメニュー



 残業に疲れて、睡魔と戦いながら家路を急いでいる。そんな日の夜、車窓に突然明るい照明の光が飛び込む。私は見過ごすことが出来なかった。その数台の自動販売機が設置してある田舎道のあるスポットを。
 コインを入れてボタンを押すと、ゴトンゴトンという賑やかな音がする。その音は今でも耳の奥で響いている。私が取り出したのは、コーンポタージュの缶。手を当てると熱い。それを車内に持ち込み、一気に飲み込む。ドロッとした暖かい液体が喉を下りていく。旨い! ああ、今日も仕事が無事終わった。よく頑張った。自分で自分を誉めてやりたい。そんな気持ちが飲みながら込み上げてくる。のみ終わると、底に残っているコーンの粒を、缶を逆さにしてすする。数粒が口の中に転げ込む。最後の粒を噛み締めながら、また、エンジンをかける。
 在職中に、私は自販のコーンポタージュの缶を好んで飲んだ。寒くなると出てくるメニューだった。持ち帰って飲むよりも、車内で一人で飲む方が美味しかった。それが疲れを癒す手段として定着していた時代があった。春、夏はコーヒー。秋、冬はコーン。そうと決めていた。お陰で血糖値が徐々に上がった。
 先日、ある新聞に、アキバ系メニューとして、ラーメン缶の人気が出たと書いてあった。たしかおでん缶もあったはずだが……、と私は思い出す。ラーメン缶におでん缶。こちらの自販にもそういうメニューがあればいいなあ。私はその味を想像した。おでん缶にはいろいろな種類があるらしい。ラーメン缶の麺は、こんにゃく麺だとか。……自販はいい。孤独なサラリーマンの冷え切った心をひと時温めてくれる魔法の機械である。(2007年投稿)

桜花のたたずまい

2010-09-08 14:10:24 | 日記
桜花のたたずまい



 数日前、国道九号線宍道インターの交差点で西に向って停車し、信号待ちをしていたときのことである。
 北側の新設道路の斜面の土留めに芝桜が一面に美しく咲いていた。背が高くなる草を土留めに植えるより、この方法がいいなあと感心してみとれていた。そして、ふと、反対側の山の斜面を見た。花の盛りを少し過ぎた山桜が一本そびえていた。茶色の葉と白い花が写りあって、いい風情をかもしていた。
 私は、信号待ちのごくわずかの時間に、両サイドの花を見比べていた。そして、無数の芝桜の花でできたベルトに対峙している山桜が、少しもゆるぎなく我が残り少ない花の命を楽しんでいるように思えたのである。その姿は発車してからもずっと頭の中に焼きついていた。
 出雲市の方へ車を走らせながら、かつて読んだ白洲正子氏の『西行』(新潮社)の一節を思い出していた。諸共にわれをも具して散りね花浮世をいとふ心ある身ぞ(西行)。この歌について、「花と心中したいとまでいっており、桜を愛する心が、そのまま厭離穢土(おんりえど)・欣求浄土(ごんぐじょうど)の祈りへと昇華されて行く」と解説していた。
 その私が見た山桜が凛として孤高の美を誇っているように見えたのは、滅び行くもののそこはかとない哀感を全身で受け止めたからにほかならなかった。西行と我が身を比することはおこがましいが、短い命の山桜の花の姿に我が身を重ねて見ていたことは事実である。この花がソメイヨシノであったなら、こういう心境にはならなかっただろうと思う。
 ただ、解せないことが一つある。西行は、追いすがる娘を縁側から蹴落としてまで出家を決行している。そのことである。        (2007年投稿)