なかなか釣りに行けない

なかなか実釣出来ず、稀の釣行を夢見て、机上の空論を重ねる備忘録です。

夕の川見(20240801)

2024年08月01日 22時27分42秒 | 机上釣

夕の川見(20240801)


夕方川見のみ。
大分川左岸、硯南大橋水位1.03m、篠原ダム貯水位86.77m、晴れ、気温35度。
水位がさらに上がり、ダムインレットの流れが止まっている。
この状態だと右岸が釣り易い。
篠原ダム貯水位が86.70mを超えたら右岸がベスト。

追記)
上流のコンクリの橋を見たけれど、魚影は濃くなかった。
水位が落ち浅くなったため?
鮎の喰み跡はほとんど見えず、居てもたぶん少数。

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釣れる釣り釣れない釣り(20240801)

2024年08月01日 12時59分55秒 | 机上釣

釣れる釣り釣れない釣り(20240801)

もうどっちでもよい。
いや、もうどちらでもよい。
釣れようが釣れまいが、もう関係ない。
もちろんウェットフライとしての話で、漁としての釣りではなくて。
ウェットフライを巻きDHを抱えウェイダーを決めて本流に入り釣り下る。
もうその時点で私の釣りは完成している。
魚などあってもなくてもよいのだ。

釣れようが釣れまいが、1匹も10匹も、もうどーでもよい、いやそのどちらでもよい。
もちろんその場は、マスが確実にいる清冽なド本流に限るのだけれど。
大切なのは、マスの泳ぐ場でマスと共に時間を過ごすことであって、そのマスを手にすることではない。
マスを手にすることは、たぶん本末転倒。
マスやその他野生動物と同じ場所と時間を共有する、そのことだけが大切だ。
ウェットの釣りは漁ではなく、単なるアウトドアアクティビティなのだから。
登山やトレッキングで花草を摘まず小動物を狩らないのと全く同じ。
その場と時間が一番の目的。
そう思えば、大好きな五ヶ瀬、津江川が、また違って見えてくるように思う。
大事なのは魚を釣り上げることではない。

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考える時間(20240801)

2024年08月01日 12時40分53秒 | 日記

考える時間(20240801)

7月が終わり、考えるためだけの時間がようやく増えた。
例えば回遊魚は泳ぎを止めれば溺れるように、考えることは息と同じほどの大切さ。
8月上旬は、その時間をようやく取れる。
4月から7月まで考えることにあまり時間を費やせなかったから、この10日間ほどは本当に大切、逆にどう過ごそうかと思う。

酷暑で日中の釣りは危険、かといって早朝は貴重な思索タイム、夜は家族タイム、なので自由時間は夕方しかない。
日中に有給休暇を取ったとしても、その時間が無駄になる、なぜならインドアだと思索タイムになってしまうから。
でも、こうしてインドアばかり続くと本来の野生動物としての感性が泣く。
野生に戻れ、野生に目醒めろと哭き喚き出す、そうなる前に、五感の野生を開放しないといけない。
どこで?

釣りをしなくてもいいから、あの五ヶ瀬を歩くのも良いかもしれない。
マスを釣ろうと思うから葛藤する、どうせ釣れない、なぜ釣れない、と。
なら最初から釣りなど諦めてしまった方が絶対良い。
釣ろうと思うからガッカリする、無駄だったと思う。
なら釣れなくても良いと思い切った方が絶対良いのだ。
そう思い定め、あの五ヶ瀬を歩いてみる(でも折角だから釣具をもって)。
そうするとまた一つ、新しい何かが拓けるように思う。
釣れても釣れなくてもよい釣りをする、そんな世界観。
たぶん本当に貴重な体験、震えるほど楽しみに感じる。
そんな時間もあってよい。

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知的空間2(20240801)

2024年08月01日 08時01分00秒 | 日記

知的空間2(20240801)

もう8月になった。
床屋さんが「あと5ヶ月しかない」という。
そうですね、8月もあっという間に過ぎますね、お盆もありますから、1年は経つのが本当に早い
いつものくせで、つい言葉数が多くなる。
「そうですね」だけで十分なのに。
ここは要注意、相手の呼吸に合わせるのは本当に大切。

ここ数日の続きで、知的空間を考えている。
現実空間は五感(眼・耳・鼻・舌・身)で、知的空間は意(心)で、それぞれ捉える。
野生動物の知覚では現実空間>知的空間だが、ヒトではたぶん同じか逆向き。
野生動物に比べヒトの知的空間は非常に広い。
そこで私たちは何をしているのか。

その知的空間が心地よいのは、自分自身が開放できているからで、それこそ「好きなこと」に没頭する時間と空間。
その心地よい知的空間あるものは、追い求める興味と、それを手に収める体験。
それがヒトによっては音楽、映像、ゲーム、ファッション、スポーツだったりして、一般的にそれは趣味に括られる。
またそれは仕事とは区別され、生産性のない遊びとされる。
それは知的空間が他人から見えないという意味で、完全にプライベートで自由なのだけれど、だからこそ一定のルールが要る。
そのルールとは何か。

欲望充足の上に、善いもの尊いものを置くべき。
その善いもの尊いものとは何か。

それが感動だ。
ではその感動の源は何か。

それが美だ。
ではその美は何か。

感動を呼び起こす全てだ。
ではその感動を呼び起こす全てとは何か。

それが善いもの尊いものだ。

結局は、自分のルールの中でグルグル回っているだけ、なのだけれど、実はそれこそ、知的空間の全てかもしれない。
尊さと下衆さを行き来しながら、それぞれの美とその感動に浸る。

そう考えると、では次に、知的空間と現実空間との接点はどこか、となる。
それこそ野生動物とヒトの境界というべきところ。
それは、この今瞬間の私の感覚だ。
五感(眼・耳・鼻・舌・身)で感ぜられるところと意(心)で感じるところ、この二つが今瞬間の私そのもの。
私の中で六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)がそのまま今の私。
アウトドアでは五感(眼・耳・鼻・舌・身)>第六根(意)、ディスクワークでは五感(眼・耳・鼻・舌・身<第六根(意)。
脳の使う部分が違うから当然そうなるけれど、その全てが私自身、その全てが仏教でいう六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)。
その六根に私の全てを開放し、その六根から得るもの全てを受け入れる。
こと知的空間において、私自身のルールとしての美を追い求め、その感動に耽溺し続けることが、実はヒトという野生動物の一匹として正しいのだ。
もちろん、私自身の美に耽溺することで生じる自己責任は私自身が負う絶対条件として。

自分はこう思うけれど周囲はどうだろう、とか、自分はこう判断したけど相手はどうだろう、とか、私一人で解決出来ず、周囲や相手への確認が必要な事案は、今回の思索(知的空間と現実空間)の中で扱わない。
今回はあくまで、野生動物の一匹たる私の、知的空間と現実空間の区別だけを考えた。
その他のことは、また後日。


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