日本古代史覚え書き(20160529)
「
文明の衝突」
サミュエル・P・ハンティントンの同名著書に”日本文明は2世紀から5世紀において中華文明から派生して成立した文明圏であり、日本一国のみで成立する孤立文明”とある。
「
白村江の戦い」
歴史上、日本初の全面敗戦となった”663年(天智2年)8月に朝鮮半島の白村江(現在の錦江河口付近)で行われた、倭国・百済遺民の連合軍と、唐・新羅連合軍との戦争”のこと。
「
大化の改新」
”飛鳥時代の孝徳天皇2年(大化2年)春正月甲子朔(西暦646年)に発布された改新の詔に基づく政治的改革”のこと。
白村江の戦いはこの後、しかも当事者は”倭国”であり”大和朝廷(日本)”ではない。つまり唐に完全敗北したのは”倭国”。
一説では「白村江の戦い」敗北で”倭国”が滅亡したらしく、
”大和朝廷(日本)”は”倭国”の後方支援をしていたとのこと。
白村江の戦いで唐の捕虜となった”倭国の将”の帰還は、
690年に筑後国上陽郡(上妻郡)の住人大伴部博麻、707年に讃岐国の錦部刀良(にしごりとら)、陸奥国の生王五百足(みぶのいおたり)、筑後国の許勢部信太形見(こせべのかたみ)ら、とのこと。
ところでこの「
陸奥国」とは表東北つまり今日の宮城仙台平野を中心とする岩手/青森の太平洋側地域のことであり、同地域の主だった者が”倭国の将”として白村江で唐と戦った。
当時の大和朝廷(日本)が蝦夷を制圧するため、軍事的拠点として松島丘陵の南東部分である塩釜丘陵上に設置したのが
多賀城であり、この創建は724年とされる。
663年には陸奥国は倭国として白村江に派兵参戦しているので、唐に破れた後、倭国の一地方としての陸奥国は弱体化し、多賀城以降、大和朝廷に飲み込まれていったのだろう。
この”倭国滅亡”を目の当りにした日本(大和朝廷)は、
新たな戸籍(庚午年籍:670年)を作った上で日本初の律令法典である近江令を施行(671年)し、国土防衛を中心とした国内制度を整備した。
つまりこの西暦600年当時、日本列島には古くからの”倭国”と、比較的新しい大和朝廷(後の日本)の2国家が存在していたのだ。
一方で日本の国号が確認出来るのは『
続日本紀』における記述であり、「
702年(大宝2年)に32年ぶりで唐を訪れた遣唐使は、唐側が「大倭国」の使者として扱ったのに対し「日本国使」と主張した」というのが最古の公式記録らしい。
唐に対して「自分達は倭国ではなく日本なのであり、一緒にしないでくれ」と公式に宣言したとのこと。
倭国と日本の違いがこの記録からもハッキリと判る。
また公用文字について、倭国と大和朝廷は共に漢字も使っていたらしいが、九州から陸奥国まで広く存在するペトログラフ(古代文字)の分布から、倭国は古代文字を常用し、大和朝廷は607年の隋の煬帝に宛てた聖徳太子の手紙や公文書記録から、公用文字として漢字を常用していたようだ。
更に大和朝廷の中枢は秦の始皇帝の部下だった
徐福一行の子孫ではないかとの指摘もある。
この徐福は紀元前3世紀頃に不老不死の妙薬を求めて男女の子供3000人と技術集団を連れて他国に旅立ち消息不明になったとのこと。
この御一行が大和朝廷の礎となったとの説は、大和朝廷の漢字常用性をより深く暗示する。
その後、新生日本(大和朝廷)の公用文字は漢字のままであったが、話し言葉としての日本語表音記号として
仮名文字が日本の古代文字を参考に作られていったらしい。
つまり、新生日本(大和朝廷)が日本列島を掌握した後、”倭国”の古代文字を一掃し、秦朝以降の漢字に統一したのだろう。
ただ、古代より続く倭国文明および倭国文化そのものは消し去る事が出来ず、日本各地の遺跡/神社のペトログラフや神話、そして日本語の表音文字としての
カタカナに日本古代文明の記憶が遺されていったのだろう。
日本の古代史学会では古代日本には文字はなかったとされているが、日本の遺跡に現に見つける事が出来るペトログラフを完全に無視する古代史学会の科学的姿勢には世界中から批判が集まっている。
事実、
大分県でも
国東と
安心院が有名で、その他数多くの日本各地の遺跡や古い神社にペトログラフ(古代文字)が現存しているのだから、その存在そのものを否定し続ける姿勢が批判されるのは至極当然。
滅んだ倭国の常用文字だっただろう
古代文字がカタカナとして日本語の表音記号に残された。
この古代表音記号の一つが「
豊国文字」。
これはwindowsやmacでも使う事が出来、
648円のシェアウエアとしてVectorから販売されている。
例えばこの
フォント、
釣り場の秘密の記録なんかに役立つかもしれない(^^