現実への重ね合わせと知的空間7(20240814)
今、子供たちは、夏休みの宿題に追われているという。
そんな8月は、一年で一番短い月かもしれない。
梅雨が明け、朝からのカンカン照りに外出を躊躇い、気付くと一日が終わっている。
お中元のやりとりを済ませ、お盆の準備を整える。
そのお盆中、職場の仕事量も人出も減り、時間だけがただぼんやりと過ぎていく。
ヤバい、こんなことに時間を費やしている場合ではない。
私自身の「夏休みの宿題」締め切りがガンガンに迫り、非常にマズい状況なのだ。
何がマズいといって、やる気にならないのが一番ヤバい。
もっと他に楽しいことがありそうで、同じ時間を使うなら、全然違う別のことをしていたい。
でも今は、まず「夏休みの宿題」をやり遂げねばならない。
やる気にならない、など、いってられないのだ。
ではどうするか。
現実へ私の物語を重ね合わせるのだ。
締切ある「夏休みの宿題」が現実空間の「現実」、それを仕上げるのが知的空間の「私の物語」。
この現実空間に知的空間が重なり合う時、否応ない感動が生まれる。
現実へ私の物語がピッタリハマる瞬間、良いも悪いも関係ない想いが生まれ、それが感動。
大変さも辛さも退屈さも億劫さも、全く関係ない感動。
その感動が、現実へ私の物語がハマるかぎり続く。
ウェットフライも同じ。
川の流れに、私のラインと鈎が入り、それが私の思うように流れ、とめどない感動が、全ての時間に満ちていく。
嫌な仕事大変な仕事辛い仕事こそ、そこに「私の物語」を重ね続けることが大切。
感動のみが、その作業の原動力になってくれる。
さあ取り掛かろう、私の物語を、「夏の宿題」という現実に重ね合わせる。