なかなか釣りに行けない

なかなか実釣出来ず、稀の釣行を夢見て、机上の空論を重ねる備忘録です。

知的空間3(20240802)

2024年08月02日 12時33分35秒 | 日記

知的空間3(20240802)

知的空間はものすごく広く感じるけれど、実は残念なほど狭い。
生まれる前から死んだ後まで、地平線をはるか超え宇宙にまで飛び出していける、そんな知的空間。
でも実は驚くほど等身大でこじんまりした世界なのだ知的空間とは。
その理由。
現実空間はこの今にしかないけれど、そのかわり私が居る居ないに関わらず存在し、私の都合によらず進行し続け、私の幸不幸を一顧だにせず突然全てを変えてしまう。
しかし知的空間は、この今の瞬間の知覚とそのリアクションのみで構成され、それ以外の要素は入らない。
今この瞬間と乖離した思い付きとそのリアクションからなる知的空間には、かなりのリスクがある。
健康で安全な知的空間は、必ず現実空間に続く今この瞬間の知覚とそれへのリアクションのみで構成される。
でも「現実空間に触発された今この瞬間の知覚」のバリエーションは、どれほど多彩だろう。
たぶん思うほど多くの情報を私たちに与えない、たとえ五感をもってしても。
なぜなら、この瞬間に感じ取れる知覚が次の反応を必ず支配するので。
その反応が次の知覚と共に、さらに新しい反応を生む。
こう書くと無限にどんどん進み広がるように感じるけれど、実は確実に時系列上に乗っていて、まるで鈍行列車のように、その反応速度は以外なほど遅々としている。
好きなことに没頭する時間があっという間に過ぎてしまう理由は、ここにある。
知的空間の反応速度は、期待するほど速くないのだ。
知的空間の限界はここにある。
でもそれをカバーできる方法がひとつだけある。
それは、日々コツコツ努力することだ。
そうすれば知的空間の反応速度の遅さをカバーできる。
つまり知的空間で過ごす場合、今この瞬間に接する知覚がその直後の反応を決めるのであり、しかもその反応速度は残念なほど遅いので、今この瞬間の知覚に接し続ける必要がある、その知的空間で過ごし続けるためには。

TVゲームで考えると分かりやすい。
スティック操作する、画面が反応する、その変化にさらにスティック操作を追加する、そしてまた画面が反応する。
この繰り返しが知的空間の全てであり、そこに感動があるから、そのTVゲームを続けることが出来る。

これを日常生活、ことアウトドアに当てはめる。
野外を歩く、景色など五感が感受した美に対して感動が生じる、そしてまた新しい五感の受容がある、それへまた新しい感動が引き起こされる、そんな流れが延々と続く、アウトドアにある間は。
つまり五感からの知覚に乏しいときは知的空間での知覚の役割が大きくなり、逆に野外などで五感が豊かなときは知的空間の役割は小さくなる。
現実空間からの知覚は生存に必要だけれど、これと知的空間からの知覚が不整合を生じ不適応となれば、やはり生存が脅かされる。
現実空間と知的空間の知覚の整合性は個体の生存に必須なのだ。
とすると、現実空間から知的空間への入力が円滑である必要がある。
その円滑さを妨げるのは、過去の追憶による希望願望や、未来への理想妄想。
つまり、この今に即さない、今この瞬間の現実空間と乖離した情報の入力が、私たちを貶めていく。
なので日々の生活において、希望願望や理想妄想を排し、今この瞬間に得られる知覚を全開放の全肯定で受け入れ続ける方向修正つまり努力が大切になる。

そう考えると、やはり釣れなくても河畔を辿り続けるのは正解だし、ディスクワークで私自身の感動に耽溺し続けるのも正解となる。
その中で、現実空間と知的空間の整合性さえ確かなら。
ところでこの整合性とは、個性そのものかもしれない。
現実空間と知的空間の整合性にそのヒトの個性がある。
そう考えると、また新しい日常が見える気がする。

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ウェットフライの利点(20240802)

2024年08月02日 08時28分38秒 | 机上釣

ウェットフライの利点(20240802)

なにより一点を凝視しない。
集中不要で開放だけでよい。
鈎のバリエーションが単純かつ少なくて構わない。
同じ鈎を何度でも使える。
ものすごい大河でも藪沢でも釣りになる。
携行物品が少ない。

周囲の景色を楽しめる。
トレッキングやハイキングとほぼ同じ感覚。
水中との交わりが楽しい。
ゆっくりな動作で疲れない。
自然との一体感を得やすい。
技を出せばそこそこ釣れる。
何かしら釣れる。
なんなら釣れなくてもよい。

そんなところが、ウェットフライの利点だと思う。

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ヒトならでは(20240802)

2024年08月02日 08時17分24秒 | 日記

ヒトならでは(20240802)

今日は奥と娘が岡山に出発、今晩は私が独居、どう過ごすか考えてしまう。
今日の日中は午後にちょっとデューティがある程度で暇、何なら有給休暇を取れる一日。
でもディスクワークもあり、こんな日にこそ進む仕事もある、なかなか釣りに行けないでいる。

生きていることを考えると、ヒトも野生動物も全く同じ。
いつの間にか生まれ、自分の知らないうちに死んでいく。
私たち生物はその始まりも終わりも自覚できない、その意味で私たちの命は主観的に終わりなく、永遠だとすら言い切れる。
なぜなら私たち生物は自分の死を知りえないから。

野生動物目線で考えると、いつの間にか生まれ、いつしか終える命のなかで、彼らは何を感じ、何を想い、どう過ごしているのか。
日々の時間、身体の感覚、内なる想い、それがどうなのか。
野生動物は同種がそばに居れば相和し安穏と過ごすように見える、それはネズミや鳥や魚や虫たちですら。
たぶんだけれど、確認しようがないけれど、心地よい毎日を送っているのだ、この現実空間から受ける五感(眼耳鼻舌身)に満たされながら。
第六根の意(心)はヒト以外の野生動物では大脳表面積が少ないからあまり重要な役割を持たないだろうけれど、それでも社会活動は野生動物とて営むのだから、間違いなく「日々の心地よさ」を感じているはず。
そこはヒトも同じで、何も考えること心配なこと気掛かりなことがなければ、この現実空間から受ける五感(眼耳鼻舌身)の心地よさのみに素直に暮らしていける、まるで純真無垢な野生動物のように。

でもヒトは大きな知的空間を現実空間の他に持っている、その脳に正確に比例して。
その知的空間での作業が現実空間に作用し、これを大きく変えていく、例えば大河に橋を掛け大山脈に穴を穿ち七大洋を飛び越え進むような。
ヒトの知的空間が自然界の現実空間を凌駕し支配する、そんな一面がある。
でもそのヒトも自然界の一員、ただの野生動物の一種でしかなく、その命の営みの場は自然界のなかにしかない。
なのでヒトは、知的空間と現実空間の乖離を避けなければならない、自然界の野生動物の一員として。
ではどうすればよい?

私たち生命の最大の尊さは「日々の心地よさ」で間違いなく、逆にそれ以外の尊さを生命一般に見出すことは出来ない。
そして「日々の心地よさ」から見直せば、現実空間においては五感(眼耳鼻舌身)の受容と充足が、知的空間においては第六根(意(心))としての感動の受容と充足が、それにあたると考えられる。
つまり、五感と感動の全開放と全肯定こそ、自然界野生動物の一員たるヒトの真骨頂なのだ。
そう感じる。

8月末、宮城入りしてまたヒトに会う、それが主目的だから。
なので釣りする時間はあまり取れないかもしれない。
でも五感の全開放と全肯定は日頃と変わらないとして、感動の全開放と全肯定がキーポイント。
これまでなら荒雄川や江合川の釣りでそれを満たしていたけれど、ヒトに会う以外での感動の全開放と全肯定をどう設定するか。
仙台の街を歩く、在来線に乗る、広瀬川江合川白石川の河畔や三陸の海沿いに居るだけでも、感動の全開放と全肯定はある。
何も特別なことは要らない、内に籠らず、とにかく外へ出掛けることが大切。
東北宮城の自然の中で、現実空間と知的空間を、全開放し全肯定する。
たぶんそれだけで充分な気がする。

で、釣具はどうするか?
一応全部、持っていく。
DHウェットフライタックルをコンパクトにまとめて身につけて。
ウェットフライは私の身体の一部、それはまるで衣服であり鱗であり毛髪であり皮膚なのだ。
分離不能、とにかく常時携帯するのは間違いない。
まあ、そういうところがアレやで、ということか。

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8月初日の食アタり(20240802)

2024年08月02日 05時47分21秒 | 日記

8月初日の食アタり(20240802)

7月末の昼食に売れ残り半額惣菜パンを買い、夕に食べたら傷んでいたらしく、8月初日の午後から下った。
しかも37度の発熱あり、暑さのせいか分からないものの、大事をとりキャス練しなかった。
以前も半額弁当にアタったことあり(20210724)、気を付けていたつもりが、また繰り返し。
どうしても「半額モノ」に釣られてしまうのは、私の性(サガ)かもしれない。
道端に「半額」札が落ちていたら拾うかもしれず、そこが私の弱点、重々用心。

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