知的空間2(20240801)
もう8月になった。
床屋さんが「あと5ヶ月しかない」という。
そうですね、8月もあっという間に過ぎますね、お盆もありますから、1年は経つのが本当に早い
いつものくせで、つい言葉数が多くなる。
「そうですね」だけで十分なのに。
ここは要注意、相手の呼吸に合わせるのは本当に大切。
ここ数日の続きで、知的空間を考えている。
現実空間は五感(眼・耳・鼻・舌・身)で、知的空間は意(心)で、それぞれ捉える。
野生動物の知覚では現実空間>知的空間だが、ヒトではたぶん同じか逆向き。
野生動物に比べヒトの知的空間は非常に広い。
そこで私たちは何をしているのか。
その知的空間が心地よいのは、自分自身が開放できているからで、それこそ「好きなこと」に没頭する時間と空間。
その心地よい知的空間あるものは、追い求める興味と、それを手に収める体験。
それがヒトによっては音楽、映像、ゲーム、ファッション、スポーツだったりして、一般的にそれは趣味に括られる。
またそれは仕事とは区別され、生産性のない遊びとされる。
それは知的空間が他人から見えないという意味で、完全にプライベートで自由なのだけれど、だからこそ一定のルールが要る。
そのルールとは何か。
欲望充足の上に、善いもの尊いものを置くべき。
その善いもの尊いものとは何か。
それが感動だ。
ではその感動の源は何か。
それが美だ。
ではその美は何か。
感動を呼び起こす全てだ。
ではその感動を呼び起こす全てとは何か。
それが善いもの尊いものだ。
結局は、自分のルールの中でグルグル回っているだけ、なのだけれど、実はそれこそ、知的空間の全てかもしれない。
尊さと下衆さを行き来しながら、それぞれの美とその感動に浸る。
そう考えると、では次に、知的空間と現実空間との接点はどこか、となる。
それこそ野生動物とヒトの境界というべきところ。
それは、この今瞬間の私の感覚だ。
五感(眼・耳・鼻・舌・身)で感ぜられるところと意(心)で感じるところ、この二つが今瞬間の私そのもの。
私の中で六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)がそのまま今の私。
アウトドアでは五感(眼・耳・鼻・舌・身)>第六根(意)、ディスクワークでは五感(眼・耳・鼻・舌・身<第六根(意)。
脳の使う部分が違うから当然そうなるけれど、その全てが私自身、その全てが仏教でいう六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)。
その六根に私の全てを開放し、その六根から得るもの全てを受け入れる。
こと知的空間において、私自身のルールとしての美を追い求め、その感動に耽溺し続けることが、実はヒトという野生動物の一匹として正しいのだ。
もちろん、私自身の美に耽溺することで生じる自己責任は私自身が負う絶対条件として。
自分はこう思うけれど周囲はどうだろう、とか、自分はこう判断したけど相手はどうだろう、とか、私一人で解決出来ず、周囲や相手への確認が必要な事案は、今回の思索(知的空間と現実空間)の中で扱わない。
今回はあくまで、野生動物の一匹たる私の、知的空間と現実空間の区別だけを考えた。
その他のことは、また後日。
最新の画像[もっと見る]
- 久しぶりの夕方キャス練(20240912) 20時間前
- 夜明け(20240909) 4日前
- 夕方キャス練(20240907) 6日前
- 夕方キャス練(20240905) 1週間前
- スペイ勉強と新しいライン(20240904) 1週間前
- スペイ勉強と新しいライン(20240904) 1週間前
- スペイ勉強と新しいライン(20240904) 1週間前
- 荒雄川キャス練(20240901) 2週間前
- 荒雄川キャス練(20240901) 2週間前
- 荒雄川キャス練(20240831) 2週間前