昨日42kmも歩いたのに、脛の軽い筋肉痛以外にどこにも痛いところはないし、疲れもあまりない。いつもは3日目が一番辛いのだが、今日も快調に歩くことができた。天気はこれまでで最も良い天気で、ぽかぽか陽気の春の歩き旅を満喫できた。
今日は、歴史上で有名な胆沢城や平泉のほかに、幕末の偉人に関わる史跡も多く、見所満載だった。しかし、平泉の中尊寺や毛越寺などは何度か訪れているし、街道から離れるのでパスした。
今日もロングコースなので早く出たかったが、金ヶ崎へ戻る一番電車が6:10だった。
金ヶ崎宿~水沢宿
6:25昨日のゴール地点をスタート。すぐに繁華街となる。
いきなり、早咲きのサクラのお出迎え。ソメイヨシノではないが。ほっかいどうでは見ることのない可愛い花びらのサクラだった。
家臣団屋敷跡が左手に現れる。案内板によると金ヶ崎城主大町氏の家臣たちの屋敷が小路に並んでいたとのことで、街道から少し奥へ入ると、今もその雰囲気が残っている。
その中から「大沼家侍住宅」を写す。武家屋敷には珍しい土壁の家だった。
金ヶ崎宿を抜けると、北上平野の水田地帯の県道をひたすら歩く。
胆沢川を渡ると、奥州市へ入る。
やがて、左手に鎮守府八幡宮の朱塗りの鳥居と胆沢城址の標柱が立っている。この辺りは広大な胆沢城址の敷地らしい。
胆沢城は、陸奥国胆沢郡胆沢にあった日本の古代城柵。国の史跡に指定されている。 坂上田村麻呂が802年に築き、1083年の後三年の役の頃まで約150年にわたり鎮守府として機能した。
少し進むとやはり左側に胆沢城跡の石碑と胆沢城の全貌を示した案内板があり、遺構を復元した広々とした土塁と芝生が広がっている。平安時代には確かにここに広大な胆沢城があったのだと実感した。歴史で学んだ知識を実際に目にできてイメージが膨らむ。
いよいよ賑やかな水沢宿へと入っていく。「上伊沢代官所跡」がある。
大通りを進み、左手に少し入ると「後藤新平記念館」がある。
後藤信平は、この水沢出身で、台湾総督府民政長官。満鉄初代総裁。逓信大臣、内務大臣、外務大臣。東京市第7代市長、ボーイスカウト日本連盟初代総長。東京放送局(のちの日本放送協会)初代総裁。拓殖大学第3代学長を歴任し、関東大震災後に東京再建に手腕を発揮した。
武家屋敷資料館。
街道から少し入ると、幕府の鎖国政策を批判した蘭学者・高野長英旧宅がある。ここは長英の母の実家で江戸にでるまでの一時期を暮らしたところである。その隣には武家屋敷の高橋家がある。ここの通りは往時は大畑小路といわれた武家屋敷通りだった。
城下町の街道は鍵型に曲がりくねっているので、詳しいガイドマップとにらめっこしながら歩かなくてはならない。水沢宿を抜けたところのコンビニでサンドイッチの朝食を摂る。
水沢宿~前沢宿
水沢宿を出ると、左側に北上平野が広がるのどかな農村地帯の歩きとなる。
「真城上中野の一里塚」の説明板がある。片方残っていると書いてあるのにいくら探しても見当たらない。ふと、下を見ると、朽ちた木の間に一里塚と書かれた小さな標識があった。もともとは3mの高さだったそうだ。
梅が咲き、のどかな農村風景か広がる。
県道歩きだが、時おり旧街道が残っている。その桜並木の並ぶ街道。ソメイヨシノだが、咲くまでにはまだ1週間ほどは掛かりそうだ。
このような豪華な塀と門を兼ねた、いかにも豪農といった農家も目につく。
前沢宿に入る手前に岩手誉の蔵元がある。
その先に進むと門構えのある太田家の大きな屋敷が現れる。この建物は、明治期に建てられた近代和風建築の民家として、岩手県の有形文化財第1号となっていると案内板に記されている。その先では櫺子格子の民家を見つつ進む。宿場の面影はまったくない。
前沢宿~山目宿
前沢宿を抜けると、今回初めての急な登り坂となる。本浄寺坂というそうだ。それを上って進むと、工業団地の中へ入っていく。
その突き当たりに、なぜか「奥州道中」の説明板がある。しかし、その先は私有地で立入禁止の看板が立つ。その先も高速道路のICで寸断されている。右の道からぐるっと遠回りの迂回路を歩き、高速道路の下を潜って、その先の街道に合流した。せめて、その先は寸断されていることと迂回路の説明も書いておいてくれれば良いのに。
迂回路から下りて曲がる地点を間違えて西側へ1kmほど進んで間違いに気づいた。2kmほどの無駄足だった。これも歩き旅には付き物で、面白さでもある。
途中から、昨夏に登った真っ白な焼石連峰が見える。このあと、平泉へ向かう衣川地区でも右往左往した。
衣川の手前の食堂で、遅い昼食の味噌ラーメンを食べる。
その食堂の前の街道を行くと、衣川の堤防にぶつかる。両側に「ころもがわばし」と書かれた欄干が立っていた。
堤防の上を少し下流へ歩き、県道の橋を渡った。
街道の斜面の上にカタクリの群生があった。
中尊寺の入口だけをカメラに収める。
そのそばに、衣川で立ち往生したまま亡くなった弁慶の墓がある。
中尊寺通りと呼ばれる街道を進むと、世界遺産にもなっている無量光院が現れる。広場の案内板には藤原氏三代秀衡が宇治の平等院鳳凰堂を模して建てた寺院があったと浄土庭園の再現絵とともに記されている。今はまだ整備中らしい。
平泉駅前を過ぎて、しばらく進むと一関市になる。
やがて、山目宿へ入っていく。櫺子格子の家の前には「カスリン台風洪水位(昭和22年9月16日)」と書かれた標識がある。一階の軒下にせまる程の水位だったので驚いた。
山目宿の最後の方に配志和神社の鳥居が現れる。本殿までは約1km位あるので訪れるのは止める。鳥居の左手手前には1795年に建てた道標がある。先に進み山目一丁目の右手前に来ると、問屋跡を示す「山目宿問屋・旧上町」」の白い標柱が現れる。これが唯一宿場を示すものだった。
山目宿~一関宿
山目宿を抜けると、次の一関宿までは2kmである。コールは近い。
磐井川を渡ると、右手に芭蕉二夜庵の碑が現れる。ここは1689年5月12日、13日と芭蕉たちが平泉探訪のために宿泊した金森家の場所である。
橋から下って、右折して進むと酒の民族博物館が現れる。世喜の一酒造の酒蔵を活用したもので、この酒造家には幸田露伴や島崎藤村なども滞在したとのことである。
ちょうどお祭りのようなイベントが開かれて、とても賑わっていた。
一番の繁華街の大町となる。先に進むと「大町の由来」という石碑があり「徳川時代の初期から宿場町として栄えて来たところです。その時代は仙台藩主・伊達政宗一門・留守政景が一関城主となり中心街を「大町」と名付け、以来、暦代の一関藩主田村氏に引継がれ今日に至っております」と記してある。しかし街並みは現代化され街道筋の面影はない。
駅前の交差点を駅側に少し入るとそこには「芭蕉辻」碑と「日本の道百選 ”奥の細道”」碑が立っている。「芭蕉の足跡を後世に残すため」と刻まれている。
その目の前が、今日の宿一関グリーンホテルだった。素泊まり4600円。夕食は、近くのコンビニで弁当と適当なもので済ませた。
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今日は、歴史上で有名な胆沢城や平泉のほかに、幕末の偉人に関わる史跡も多く、見所満載だった。しかし、平泉の中尊寺や毛越寺などは何度か訪れているし、街道から離れるのでパスした。
今日もロングコースなので早く出たかったが、金ヶ崎へ戻る一番電車が6:10だった。
金ヶ崎宿~水沢宿
6:25昨日のゴール地点をスタート。すぐに繁華街となる。
いきなり、早咲きのサクラのお出迎え。ソメイヨシノではないが。ほっかいどうでは見ることのない可愛い花びらのサクラだった。
家臣団屋敷跡が左手に現れる。案内板によると金ヶ崎城主大町氏の家臣たちの屋敷が小路に並んでいたとのことで、街道から少し奥へ入ると、今もその雰囲気が残っている。
その中から「大沼家侍住宅」を写す。武家屋敷には珍しい土壁の家だった。
金ヶ崎宿を抜けると、北上平野の水田地帯の県道をひたすら歩く。
胆沢川を渡ると、奥州市へ入る。
やがて、左手に鎮守府八幡宮の朱塗りの鳥居と胆沢城址の標柱が立っている。この辺りは広大な胆沢城址の敷地らしい。
胆沢城は、陸奥国胆沢郡胆沢にあった日本の古代城柵。国の史跡に指定されている。 坂上田村麻呂が802年に築き、1083年の後三年の役の頃まで約150年にわたり鎮守府として機能した。
少し進むとやはり左側に胆沢城跡の石碑と胆沢城の全貌を示した案内板があり、遺構を復元した広々とした土塁と芝生が広がっている。平安時代には確かにここに広大な胆沢城があったのだと実感した。歴史で学んだ知識を実際に目にできてイメージが膨らむ。
いよいよ賑やかな水沢宿へと入っていく。「上伊沢代官所跡」がある。
大通りを進み、左手に少し入ると「後藤新平記念館」がある。
後藤信平は、この水沢出身で、台湾総督府民政長官。満鉄初代総裁。逓信大臣、内務大臣、外務大臣。東京市第7代市長、ボーイスカウト日本連盟初代総長。東京放送局(のちの日本放送協会)初代総裁。拓殖大学第3代学長を歴任し、関東大震災後に東京再建に手腕を発揮した。
武家屋敷資料館。
街道から少し入ると、幕府の鎖国政策を批判した蘭学者・高野長英旧宅がある。ここは長英の母の実家で江戸にでるまでの一時期を暮らしたところである。その隣には武家屋敷の高橋家がある。ここの通りは往時は大畑小路といわれた武家屋敷通りだった。
城下町の街道は鍵型に曲がりくねっているので、詳しいガイドマップとにらめっこしながら歩かなくてはならない。水沢宿を抜けたところのコンビニでサンドイッチの朝食を摂る。
水沢宿~前沢宿
水沢宿を出ると、左側に北上平野が広がるのどかな農村地帯の歩きとなる。
「真城上中野の一里塚」の説明板がある。片方残っていると書いてあるのにいくら探しても見当たらない。ふと、下を見ると、朽ちた木の間に一里塚と書かれた小さな標識があった。もともとは3mの高さだったそうだ。
梅が咲き、のどかな農村風景か広がる。
県道歩きだが、時おり旧街道が残っている。その桜並木の並ぶ街道。ソメイヨシノだが、咲くまでにはまだ1週間ほどは掛かりそうだ。
このような豪華な塀と門を兼ねた、いかにも豪農といった農家も目につく。
前沢宿に入る手前に岩手誉の蔵元がある。
その先に進むと門構えのある太田家の大きな屋敷が現れる。この建物は、明治期に建てられた近代和風建築の民家として、岩手県の有形文化財第1号となっていると案内板に記されている。その先では櫺子格子の民家を見つつ進む。宿場の面影はまったくない。
前沢宿~山目宿
前沢宿を抜けると、今回初めての急な登り坂となる。本浄寺坂というそうだ。それを上って進むと、工業団地の中へ入っていく。
その突き当たりに、なぜか「奥州道中」の説明板がある。しかし、その先は私有地で立入禁止の看板が立つ。その先も高速道路のICで寸断されている。右の道からぐるっと遠回りの迂回路を歩き、高速道路の下を潜って、その先の街道に合流した。せめて、その先は寸断されていることと迂回路の説明も書いておいてくれれば良いのに。
迂回路から下りて曲がる地点を間違えて西側へ1kmほど進んで間違いに気づいた。2kmほどの無駄足だった。これも歩き旅には付き物で、面白さでもある。
途中から、昨夏に登った真っ白な焼石連峰が見える。このあと、平泉へ向かう衣川地区でも右往左往した。
衣川の手前の食堂で、遅い昼食の味噌ラーメンを食べる。
その食堂の前の街道を行くと、衣川の堤防にぶつかる。両側に「ころもがわばし」と書かれた欄干が立っていた。
堤防の上を少し下流へ歩き、県道の橋を渡った。
街道の斜面の上にカタクリの群生があった。
中尊寺の入口だけをカメラに収める。
そのそばに、衣川で立ち往生したまま亡くなった弁慶の墓がある。
中尊寺通りと呼ばれる街道を進むと、世界遺産にもなっている無量光院が現れる。広場の案内板には藤原氏三代秀衡が宇治の平等院鳳凰堂を模して建てた寺院があったと浄土庭園の再現絵とともに記されている。今はまだ整備中らしい。
平泉駅前を過ぎて、しばらく進むと一関市になる。
やがて、山目宿へ入っていく。櫺子格子の家の前には「カスリン台風洪水位(昭和22年9月16日)」と書かれた標識がある。一階の軒下にせまる程の水位だったので驚いた。
山目宿の最後の方に配志和神社の鳥居が現れる。本殿までは約1km位あるので訪れるのは止める。鳥居の左手手前には1795年に建てた道標がある。先に進み山目一丁目の右手前に来ると、問屋跡を示す「山目宿問屋・旧上町」」の白い標柱が現れる。これが唯一宿場を示すものだった。
山目宿~一関宿
山目宿を抜けると、次の一関宿までは2kmである。コールは近い。
磐井川を渡ると、右手に芭蕉二夜庵の碑が現れる。ここは1689年5月12日、13日と芭蕉たちが平泉探訪のために宿泊した金森家の場所である。
橋から下って、右折して進むと酒の民族博物館が現れる。世喜の一酒造の酒蔵を活用したもので、この酒造家には幸田露伴や島崎藤村なども滞在したとのことである。
ちょうどお祭りのようなイベントが開かれて、とても賑わっていた。
一番の繁華街の大町となる。先に進むと「大町の由来」という石碑があり「徳川時代の初期から宿場町として栄えて来たところです。その時代は仙台藩主・伊達政宗一門・留守政景が一関城主となり中心街を「大町」と名付け、以来、暦代の一関藩主田村氏に引継がれ今日に至っております」と記してある。しかし街並みは現代化され街道筋の面影はない。
駅前の交差点を駅側に少し入るとそこには「芭蕉辻」碑と「日本の道百選 ”奥の細道”」碑が立っている。「芭蕉の足跡を後世に残すため」と刻まれている。
その目の前が、今日の宿一関グリーンホテルだった。素泊まり4600円。夕食は、近くのコンビニで弁当と適当なもので済ませた。
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南下するごとに多くの歴史や文化と出会い、楽しみの連続かと思います。その割に自然も残っているようですね。
確かに、南下するにつれて、歴史、文化が濃厚になりますね。
特に昨日は写真の選定が大変で、ブログアップも大変でした。