癌春(がんばる)日記 by 花sakag

2008年と2011年の2回の大腸癌手術
   ・・・克服の先に広がる新たな春を生きがいに・・・

奥州街道(松前道)歩き旅・8日目

2018年11月23日 | 登山・旅行
《17金田一宿~18福岡宿~19一戸宿~小繋集落入口(29km)8時間30分》※丹野旅館(沼宮内)

 昨夜の雨が雪に変わったようで、うっすらと雪景色になり、午前中は道路はブラックアイス。滑って怖かった。一度転倒した。これまでで一番の厳しい寒さだった。

17金田市宿~18福岡宿(二戸)

 三戸駅から電車に乗り、金田一駅を6:50スタート。路面はツルツルで慎重に歩く。

    
 金田一宿の中心は良くわからないまま県道になっている街道を進む。現在の町の中心は国道の方らしい。
 街道を進み、長瀬橋を綿って県道274号へ出る。昔はもっと手前に渡船場があったそうだ。

    
 家並みが混んでくると、福岡宿が近い。福岡宿は今の二戸町である。

    
 宿場内には街道筋の趣のある家やこのような立派な構えの家が非常に多い。

    
 その向かいの村井ホテルの敷地の隅に「明治天皇御駐輦の地」の碑が現れる。宿場内には街道筋の趣のある家もある。
 この辺りが宿場の中心だったのだろう。

    
 県道の交差点の橋の袂に標識が見えたので行ってみた。追分石だった。「右 もり岡 左 白とり」と刻んである。元は坂下の白鳥川に沿った白鳥道との追分にあったものだ。白鳥道は白鳥を経て九戸氏発祥の地、九戸村に通じる道である。

    
 その細い昔の街道の坂道を下っていくと、白鳥川に架かる橋の下に岩谷観音堂がある。11面観音菩薩像と阿弥陀如来像の2体が納められ、百年に一度のご開帳とのことである。
 
    
 左手に九戸城址の案内板がある。今まで同様ここもパス。二戸に九戸城、さっぱり分からない。
 そもそも、「のへ」の付く地名の由来もその数字の並び方もまったく分からない。

   
 福岡宿の外れに来ると、左手に二つの道標がある。「末の松山波打峠従是三十丁」という刀剣状の石碑と、「右浄法寺、左一戸道」と刻まれた追分石である。

18福岡宿~19一戸宿 
    
 県道から山越えの街道へ入るところに、今では珍しい火の見櫓がある。

   
 山を越えて県道に出て少し進むと、左側に浪打峠への街道が続く。
 この街道にあじさい街道という名前の標識があったが、一戸の出口まで、道沿いにあじさいがずっと植えられていた。街道の文化財を辿るハイキングコースとしても、整備されているようだ。

    
 この先の浪打峠での明治天皇の野立に使われた御膳水となった山下水の石碑。

    
 坂を上りきると浪打峠の広場に出る。街道の両側には交叉層という1500万年前の海底の堆積層が露出している所で、海岸のような雰囲気をかもし出している。それで浪打峠と言われてきたとのことだ。ここには明治天皇御野立之碑があり、休憩用の東家もある。

      
 浪打の一里塚。切り通しとなって道が下げられているので、一里塚がだいぶ高い所にある。左右とも健在だ。

    
 峠から一戸町になるのか、このような立派な案内表示があちこちに立てられていて非常に助かった。次の文化財までの距離も書かれていた。
  
     
 やがて、高速道路の上を通り、国道4号を2回潜って、一戸の郊外の街道沿いの家並みの中を進む。

    
 その先で県道に合流し、一戸宿へと入っていく。

    
 今は営業していない造り酒屋もあり、このほかに街道の賑やかな雰囲気を残す立派な建物も多い。

    
 このような白塀を回した旧家も。

    
 役場近くの商店街。この辺りが宿場の中心地らしい。

 ちょうど昼になったので、目にした食堂で、温かいかしわそばをたべた。体が暖まる。

    
 県道からトンネルを潜って、今日2回目の山越えの道に入る。

19一戸宿~小繋集落入口

    
 坂を上っていくと展望が開け、百姓一揆集結の地の碑と案内板が現る。1836年、凶作に苦しんだ百姓達がここに集結して一揆をおこし、一戸へ向かったが暴徒化して失敗。首謀者の三名は関屋川原で打ち首になったとある。当時の農民の悲惨な歴史に胸が痛む。合掌!

    
 駕籠立場所碑と明治天皇御野立所碑が右手に現れる。野立は峠の見晴らしの良いところで行われているようだ。

 県道へ出て、小鳥谷の1kmほどの直線道路を進む。昔の街道はまっすぐなことはない。あとで県道建設の時にそのようにしたのだろう。

    
 右手に野中一里塚跡の案内板と馬頭観世音が現れる。そこにあった太い松と檜はつい最近切られてしまったようで切り株だけになっていた。

    
 小鳥谷集落の外れに大きな屋敷が現れる。由緒ある家なのかと見ていたら「明治天皇御小休所跡」の標柱が立っている。なるほどなと納得して先に進む。
 やがて、3度目となる山越えの道を進む。

     
 山道を進んでいくと奥州街道の道標が現れる。その手前に五月舘の追分石の案内板が現れる。街道の左手の土手の上にその追分石があり、「右ハ山道 左ハもり岡」と刻まれている。一戸方面からきた旅人に対する道しるべで、盛岡方面は左の道だと告げているものだ。

    
 山道から高屋敷集落を通る。ここには、馬継場があったようだ。また、当時使われていた共同井戸を3箇所復元していた。

    
 再び山道となり、川底一里塚が現れる。左右とも健在だ。ここは盛岡から13番目の塚だと案内板に記されている。
 以前は、道なき道を登っていって一里塚にたどり着いたらしいが、今は随分と整備されているようだ。

 その先で街道は通行止めになり、国道のトンネル口へ下りるように道が付けられた。

 そのまま、国道を進み、今日のゴールの小繋集落への入口をめざす。かなり気温が下がって、小雪が舞ってくる。トラックが通過する度に冷たい風が襲う。

    
 15:15、今日のゴール、小繋集落入口に到着。明日小繋駅からここまで戻らなくてはならない。

 さらに、25分ほど歩き、15:40小繋駅に到着。16:02の電車で、今夜の宿のある沼宮内駅へ。沼宮内駅は東北新幹線の駅と同じなので、その立派さに驚いた。
 16:35、駅から10分ほど歩いて、丹野旅館に到着。

    
 この宿は食事の評判が良い。期待通りの美味しい夕食だった。2食付きで6900円。寒いので外に出なくて済んだのがうれしい。

  

2 コメント

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Unknown (箱館人)
2018-11-23 20:34:30
今での街道歩きでは遭遇しなかった雪で、若干行動に影響が感じられますが、しかし30キロを確実に歩かれるのは流石です。

見るべきものが少ないようですが、当時の参勤交代で街道を利用したのは松前藩ほか数藩のみすから宿場の規模も小さく、また街道の整備も他の五街道と比較すると見劣りするのはやむを得ませんですね。

明治天皇の御関係の物が目立ちます。、
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箱館人さんへ (sakag)
2018-11-23 20:49:43
寒かったです。しかし、道産子として、雪と戯れている以上、止めるとはいかず、あと2日がんばります。
ほかの街道のように、せめて、宿場の中心がらかるような表示だけでもほしいです。
その点、山道に入るといろいろ残っています。
明治天皇ばかり目立ちすぎです。これも街道だった証拠ではあるのですが…。
松前藩主の泊まったところや休んだところは、記録に残っていないのでしょうね、
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