内郭の五稜郭のほかに、外郭の土塁があったことを示す「箱館亀田 一円切絵図」
※元の絵図は南が上なので、現在の地図と照合するために逆さにした。
去る10/4の北海道新聞に、奈良女子大学の戸祭由美夫名誉教授が、箱館奉行所の外郭に着目した著書を出版した。戸祭名誉教授は、外郭内部の面積が約1平方キロに及ぶ規模の大きさの特異さも強調。現在は樹林地や草地になっている外郭跡地も含めた保護や保全の必要性を訴えている。という記事が載っていた。
上の絵図の五稜郭の内郭と現在の地図の内郭を同じ大きさにしてトレースしたのが、上の地図である。ほぼ現在の道路と重なるかそれに面していることが分かった。
その外郭跡地としてはっきり残っているのが、市立函館高校敷地南側の柏が丘通りに面した樹林地と垂直に繋がる大妻高校敷地の西側の樹林地である。現在はどちらも国有林となっている。(※緑色で囲んだ部分~この幅で続いていたものと思われる。果たして土塁だったのか?)
この地図を基に、ウォーキングがてら、その外郭に沿った道路を歩いてみた。丸数字は下載の写真の番号である。
① 外郭の亀田川手前の北端の地点。松が植えられた土塁のような地形が残る。ここから現在の行啓通りへ続く。
② 行啓通り~この道路か道路沿いに外郭の土塁があった?
③ 五稜郭病院前の道路。柏が丘通りの樹林帯へ続くとすれば、右側にあったと思われる。
④ 市立函館高校敷地南側の柏が丘通りに面した樹林帯(国有林)
⑤ 大妻高校校門から敷地の西側に続く樹林帯を写す。
⑥ 大妻高校の裏から続く「五稜郭風致・保健保安林」。
この説明板には、「安政5年、五稜郭城が築城されたころ、城郭を隠す目的で五稜郭の裏一帯に、七飯町で育てた赤松を植栽したと言われる。」と記されている。 ※土塁があったようなことは記されていない。
⑦ ⑥と同じ位置から北側を眺める。樹林帯はスーパー魚長の奥に延びていたものと思われる。
⑧ 大谷短大東側の交差点
⑨ 外郭の北端付近の道路。この先の交差点は江戸時代からあった道路へ繋がる。
歩いてみて思ったことは、外郭は土塁となっているが、道路や宅地にするときに削られてしまったのか?果たして土塁だったのか?今となっては分かりようがない。
地理院に「函館弁天砲台之図亀田五稜郭之図」というのがありました。
https://kochizu.gsi.go.jp/items/245?from=category,16,index-table
(このURLで行けない時は地理院のサイトの古地図から入ってください)
やはり南北逆転ですが、上部に端切れのように写っている部分が・・・ナンカ・・・それっぽい??・・・まぁ、秀吉の京御土居くらいのスケールなら残るのでしょうけど、かなりの突貫工事でしたでしょうしねー・・。
最初のアクセスで部分的にしか見えなかったので勘ちがいしました。
これは内院(本陣?)部分の図ですね、このくらいす誰でも知っている・・・笑。
ついでに、岩崎さんなどとの水無温泉絵図を見て、この秋の再挑戦を画策中です。(今春の訪問時は荒天で水没しておりました・・・泣)
それとも、病院から?
教えていただいた古地図には、外郭は見当たりませんね。
歩いてみて、本当に土塁だったのか疑問が残りました。
時間を調べて入ると良いでしょう。
周りが滑るので、くれぐれもご注意を!
せっかくですので、今月下旬の恵山の紅葉と合わせておいでいただければ良いかと。
私も先日、函館まちせんの古地図展、観て来ました。
そのときは、この外郭のことは忘れていました。
堀周りの周回路の外側には今でも松が植えられた土塁が残っていますが、この外郭には、私が実際歩いてみた感じでは、土塁はなかったのではないかと思っています。
函館古地図見学者さんのご見解のように、本州に残る古代柵ほどではないにしても、柵程度だったか、今でも残っている樹林帯だったように思います。
ですから、そのほとんどは、のちに道路として利用できたのではないかと思います。