癌春(がんばる)日記 by 花sakag

2008年と2011年の2回の大腸癌手術
   ・・・克服の先に広がる新たな春を生きがいに・・・

9日目 下諏訪宿~30.塩尻宿~31洗馬宿,~32,本山宿~33,贄川宿~34,奈良井宿〈計37km〉

2016年06月01日 | 登山・旅行
 昨日までで当初の計画を1日分詰めることができた。このペースで行くと、木曽路までなら、もう1日詰まり、あと4日で終わりそうだ。

 今日も1時半に目が覚めて眠られず。今日は宿の関係で、奈良井宿までの37kmの上に塩尻峠越えがあるので、4:40にスタートした。天候は良かったが、最高気温は17℃と涼しかったので汗はあまり掻かなかった。

 途中でコインラドリーで1時間以上過ごしたが、15:30には宿に到着。
 

 下諏訪宿の中には、家と家の間を通るようなところもあった。
 

 下諏訪宿を抜けて塩尻峠へ向かう手前には、峠越えに備えて殿様や明治天皇が休憩した今井家小休本陣跡があった。


 塩尻峠の登り口の「右中しもすは、左しほじり峠」の道標。
 ここから道幅は狭くなり、鋪装はされているが、物凄い急な坂道だった。距離は短いが、予想以上の辛さだった。


 峠を登り切ったところには、いろいろな石碑が立っていた。うっかりして展望台に寄らずに下りに入ってしまった。
 下りも急で、昨日の和田峠の長い舗装道路の下りに引き続いてなので、すねの筋肉が痛くなった。昨日も書いたが、舗装道路の下りは苦手だ。

 
 塩尻峠を下る途中の柿沢集落には構えや造りの立派な家が多かった。中に数軒、初めて目にした「雀踊り」という飾りを屋根に付けた家もあった。


 塩尻宿の手前にあった永福寺観音堂。この旅で初めて目にした茅葺きの入母屋造り


 塩尻宿の幕末の華やかな旅籠建築といわれる国の重要文化財の小野家住宅。もとは上級旅籠「銀杏家」。

 「塩尻宿」は、中山道、松本経由の善光寺街道、岡崎に至る三州街道の3つの街道が交差する交通の要衝だった。そのために旅籠が70軒もひしめく中山道一の宿場として栄えた。しかし、明治時代の大火で、大部分が失われている。


 塩尻の町からはずっとまだ雪を抱いた御嶽山が見える。


 塩尻宿を抜けて畑の中を進む。平出地区はずっとブドウ畑が続く。幹の太さと枝の長さにびっくり。


 やがて、洗馬宿へ入って行くと、中山道と善光寺街道の分岐がある。

 この「洗馬(せば)宿」は、中山道と善光寺街道の追分で、板橋宿、追分宿とともに3宿場だけ、荷物貫改所が置かれたという。家数は幕末で150軒ほどもあり、大きな旅籠をもつ宿場として栄えた。しかし、本陣、脇本陣の庭園は鐵道の開通で失われ、昭和7年の大火でほとんどの建物は焼け落ちたらしい。


 本山宿の出桁造りの川口屋、若松屋、池田屋の旧旅籠。この向かいに本陣跡。
 この「本山宿」は、そば切り発祥の地で、江戸時代の頃までそばがきや焼きそば団子として食べられていたそうで、大名や旅人がここで今の細切りのそばを賞味して、全国に広まったと言われている。

 どこの宿場にも1861年の和宮降嫁の記録は残っているが、ここに本人が宿泊したときには、従者のほかに、京方、江戸方、松本藩の警備など総勢8万人が4日にわたって通行し、仮小屋は洗馬宿まで続いたという。


 「贄川宿」の手前から木曽路に入る。入口に大きな石碑が立っていた。


 贄川宿が近づくと両側から山が迫ってきて、川沿いの狭い中を国道とJRと旧中山道が平行して走っている


 木曽路の北境として、贄川関所が置かれた。ここも昭和6年の大火でほとんどが焼失したという。

 ここから奈良井宿までは、昨秋に北アルプスから南アルプスへの移動日の9/29にあちこち寄りながらじっくり見ている。まさか2年続けて来ることになるとは…。

 昼食は、贄川駅前の手打ちそばやでとろろざるそばを食べた。


 贄川の樹齢1000年のトチノキ。これは、昨年は見落としている。旧街道歩きのおかげ。  


贄川宿と奈良井宿の間に「間の宿」の平沢がある。ここは、800mほどの間にびっしりと漆器店が並んでいる。聞いたら120軒あるそうだ。総生産額では会津に負けるが、実用的な製品では日本一だそうだ。


 木曽楢川工芸館に陳列されている漆工芸品の一部


 昨年も印象的だった総檜造りの塩尻市立楢川小学校

 このまま歩くと、14:00前に宿に着いてしまいそうなので、平沢駅前のコインラドリーに寄って1時間以上の調整ができた。


 15:30、今日のゴールの「奈良井宿」に到着。

 この宿場は、木曽路最大の難所と言われた鳥居峠を控えていたこと、さらには、曲物や漆器工芸が盛んだったかともあり、往時は「奈良井千軒」と呼ばれるほど繁栄した。
 宿場時代を色濃く残した約1kmにわたる家並みは、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。
 建物の6割は、江戸末期から明治初期と言われている。


 今日の宿は、その中の「民宿しまだ」
 当初の計画では、この宿場に泊まる予定ではなかった。しかし、贄川宿に宿がなかったので、ここまで足を延ばすことができて念願が叶った。
 ちなみに、ここには旅館と民宿は8軒あるが、観光協定価格で?どこも8000円以上になっていた。


 玄関を入ったところの様子。この宿場の建物はどこも間口は狭いが奥行きが長い。

 楽しみだった夕食

メインディッシュは牛肉の蒸し焼き

あとで出てきた馬刺


【歩数計】55573歩、多分今回の旅の最高記録になるかも?

【諸経費】ドリンク類280円、コンビニコーヒー180円、コピー40円、昼食950円、コインラドリー1000円、宿泊費+瓶ビール+消費税9390円〈計〉11540円

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10 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
いよいよ… (田舎おじさん)
2016-06-01 21:06:33
 いよいよ私が体験した木曽路に入ってきましたね。
 贄川関所、懐かしいです。奈良井宿も…。
 私も奈良井宿に宿をとったのですが「民宿 ながい」というところでした。
 宿の様子が良く似ているように思います。

 ところで毎日の費用にコピー代というのがありますが、それはガイドブックからその日の行程分をコピーして持ち歩いているということなのですね。
 つまらない質問でした。
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Unknown (箱館人)
2016-06-01 21:49:52
本領発揮で、計画がどんどん狂ってきました。この勢いでは京都まで行けそう。

明日はすぐ鳥居峠。私は途中土砂降りの雨に会い(予報通り)偶然に休憩小屋があり、1時間程度雨宿り。
そこにウオーカーの記載ノートがあり、内容は忘れたが何かを書いた。。
鳥居峠は、アスフアルト道路を1時間半程度で歩けます。
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田舎おじさんへ (sakag )
2016-06-02 03:02:35
平沢の漆器店が軒を連ねる様子、奈良井宿の同じような出桁造りの家並みは壮観ですね。

コピーは、その日のコース地図部分だけをコピーしています。いちいち本を手に持ったり開いたりは面倒ですので。
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箱館人さんへ (sakag )
2016-06-02 03:19:50
ブログに費やす時間も歩けば、もっともっと歩けるのですが、これも楽しみの内ですし、体の負担も抑えられているのでしょう。

京都までは無理です。遅くとも6/7までには帰らなければならないので。美濃路と近江路は秋の楽しみに取ったておきます。

昨日書いた舗装道路の嫌いなのは、下りだけてす。なぜか、すねの筋肉が痛くなります。
峠越えは、碓氷峠のような未舗装で、深く掘れていかにも人馬が歩いたという、古道然とした所が好きです。
この先、もうないのでしょうか?
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木曽路 (yama(バタフライ))
2016-06-02 10:11:04
おはようございます。
木曽路、いい響きですね。

馬刺し、美味しそうです。今日の道新に函館マラソンコースの詳細が織り込まれてきました。
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Unknown (箱館人)
2016-06-02 11:02:22
五街道の中でも一番昔を残している(汽車、高速道路等から外された結果)中山道でも、やはり観光対策の一環、あるいは生活の利便上車を走らせる必要な道もあり、そのためこれからの峠もアスフアルト舗装が基本です。
一部に残された未舗装がありますと正直ほっとします。
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yamaさんへ (sakag )
2016-06-02 17:08:38
木曽路という響きが良いと思うのは、yamaさんもですか?私だけでないのですね。なぜなんてしょう?

函館フル、今の歩き旅がトレーニング効果となっていれば良いのですが?
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中山道歩き旅 (てくてく人)
2016-06-02 18:48:54
長久保宿、濱田屋旅館で同宿した者です。その節は楽しいお話をありがとうございました。教えていただいたこのブログを拝見し感心しきりです。今後もフォローさせていただきます。私は6月1日に洗馬宿まで行き帰宅しました。またどこかで邂逅できればうれしいです。
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てくてく人さんへ (sakag)
2016-06-02 19:32:45
わざわざご丁寧にありがとうございます。
旅はいろいろな方々との出合いが楽しみでもあります。
今後ともよろしくお願いいたします。
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箱館人さんへ (sakag )
2016-06-03 02:11:00
返信を書いたつもりでしたが、反映されていませんでした。申し訳ございません。
もともと生活道路を街道として利用したわけですから、そのまま時代が進んで舗装されたことは理解できます。
結局、生活道路でない急で狭く、車が通れないような峠越えの山道がそのまま残っているということなんでしょうね。
 鳥居峠も、そういう意味で、大満足の道でした。
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