癌春(がんばる)日記 by 花sakag

2008年と2011年の2回の大腸癌手術
   ・・・克服の先に広がる新たな春を生きがいに・・・

岩雄登(イワオヌプリ)硫黄鉱山跡探訪ほか

2012年10月07日 | 登山・旅行

<岩雄登(イワオヌプリ)硫黄鉱山跡一帯を見下ろす>

 今日のメインは、江戸末期から昭和12年まであったという岩雄登硫黄鉱山跡の遺構探しだった。そのついでに、早朝の鏡沼探訪と小イワオヌプリ登頂も果たした。

 この硫黄鉱山跡は、江戸時代から採掘はされていたようだが、明治初期に10年ほど函館の商人が二人で開坑し、会社を興している。その後、三井物産に譲渡され、昭和12年まで続いた。最盛期は大正6~7年で、工事関係者も含めて300人ほどの関係者が働き、学校も診療所もあったという。

 場所は、イワオヌプリから大沼への登山コースを下って行くと硫黄川に出るが、その川沿い一帯。


 最初に登山道から硫黄川を遡ってみた。すると、洞窟状の中へ入っていく。潜ってみたら、中に丸太が組み立てられていた。当初は坑道かと思ったが、先で抜けていたので、川のトンネルのようだ。多分、その先でも採掘が行われていたので、川底が低くなり、穴を開けて流すようにしたのではないかと思われる。

 
その川の下の方に石垣が組まれているところがあった。
これは人工的な川だったのでは?
同じ興味を抱いて、探索していた倶知安町の方がいた。


 登山道より下流へ行くと、あちこちにレンガが敷き詰められたところがあった。


 下流に向かって行くと、手水鉢とその奥に建物の遺構があった。


 これも、明らかに建物の遺構らしい。
これらのほかにもたくさんの遺構の写真を撮ったので、HPの方へアップ予定

 
最盛期のころの鉱山の写真



○早朝の鏡沼

湖面に姿を写すニセコアンヌプリ


池とうと湿原


○小(ポン)イワオヌプリ

イワオヌプリとのコルから微かな踏み跡(画像右側の尾根)を辿って登頂


頂上の岩に残っていた唯一の人工物~直径5cmほどの鉄輪。何に使っていたのだろう?


 午前中で五色温泉へ戻り、汗を流す。その後、現地で会った方から「この鉱山のことは倶知安風土館に行けば分かる」と教えられ、そちれへ。係員から「倶知安町百年史」を見せていただく。それには、昨日訂正を載せた松浦武四郎の羊蹄山のことも書かれていた。

 これから、ニセコ町に一昨年建てたHYML仲間の大魔人山荘での観楓会へ招待を受けているので、そちらへ向かうことに・・・。

2 コメント

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鉄の輪 (も~さん)
2012-10-09 05:10:03
ニセコに鉄の輪があったんですね。
実は函館山の岩場の上に9個の全く同じ様な鉄の輪があるんですよ。
岩から身を乗り出す際、落ちないように足を縛ったのに使った修行用のものではないかと思ったのですが、ニセコも岩場の上でしたか?
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も~さんへ (sakag)
2012-10-09 07:35:39
確かに岩の上でした。
本州の山で、身を乗り出す修行用のものを見たことがありますが、それよりかなり小振りです。あの大きさ(直径5sm)と太さ(5mm)では人の体を支えるにはちょっと不安です。
ニセコの山と修行はちょっと結びつけにくいですが・・・?
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