◎東海道後半の部<桑名~草津>
今回は、春に残した42桑名から51の草津まで歩いてゴールとした。草津をゴールとしたのは、昨年の中山道の時に、草津で合流する東海道部分の京都三条大橋まで踏破済みだったからである。
わずか3日間だけの歩きだったが、東海道にしては珍しい歴史的建造物保存地区として町並み保存活動に取り組んでいる関宿が印象的だった。中山道の奈良井宿、妻籠宿、馬篭宿のように、観光ずれしてなく、その古い町並みの中で、日常の生活が普通に営まれていることが非常に新鮮だった。
峠越えは、「東の箱根 西の鈴鹿」と言われた鈴鹿峠だけだったが、こちら側からの登りが急できつかっただけで、下りは民家が続く緩やかな道で、特にきついとは思わなかった。
あと、面白かったのが、石部宿~草津宿間にあった2ヶ所の天井川である。道路の上を川が流れていて、川の下のトンネルを潜ったことだ。草津の東海道と中山道の合流地点に抜ける中山道側の草津トンネルも、昨年は気付かなかったが、天井川のトンネルだった。上がって見たら、今は川は流れておらず、川を埋め立てた公園になっていた。
<東海道全般に通しての印象>
5街道の中で一番昔の面影を残しているのが中山道と聞いたので、先に中山道を歩いてみた。しかし、東海道も予想していたよりずっと素晴らしかった。どちらかというと中山道は内陸部の道なので、自然が豊かな感じだった。それに比べて東海道は国道1号に絡んだ都会の中に残る街道といった感じだった。ただ、中山道に比べると、宿場の雰囲気を残しているところは少なかったような気がする。
旧街道が国道や県道にもっともっと吸収されてしまっているのではないかと思っていた。しかし、中山道もそうだが、昔からの集落のあるところは昔の街道の狭い道幅のまま家並みが残されていることだった。それだけに朝の通勤時の車が怖かった。
国道や県道に吸収されているところは、集落のないところが多かった。それだけに予想以上に昔の旧街道の面影を満喫することができた。
また、中山道同様、現在の歩き旅の人に対する標識が充実していた。歩き旅は、ガイドマップを持っても、迷ったり間違ったりすることが多い。それも振り返ってみれば、歩き旅の楽しみでもあるのだが・・・。たまたま自分のGPSの地図には東海道の道に色付けがされていて、それを辿れば良かったので、非常に助かった。
また、東海道本線に絡んだ街道でもあり、私鉄も充実しているので、宿が街道沿いで取れなくても、それらを利用して移動することができて便利だった。
これで、5街道のうちメインの2街道を踏破したことになる。ほかに、甲州街道(日本橋から八王子、甲府を経て、下諏訪で中山道に合流する43次)、日光街道(日本橋から、宇都宮、今市を経て、日光までの21次)、奥州街道(日本橋から宇都宮まで日光街道(重複区間)を経て、宇都宮より陸奥・白河までの27次)があるが、どうするかまったく考えていない。
◎伊勢街道
東海道の日永追分から別れ、伊勢神宮までのいわゆる「お伊勢参り」の街道である。昔は、東海道を旅する人は、こちらへ向かう旅人が多かったようだ。
街道の雰囲気は東海道の延長といった感じだが、東海道からこちらへ入った途端に、現在の歩き旅の人に対する標識はほとんど見当たらなかった。GPSの地図も特別扱いをしていなかった。しかし、非常に詳しいガイドマップを持ったので、それが分かりやすくとても助かった。ただし、昔のお伊勢参りの人に対する古い道標やあちこちに設置されている常夜燈が充実していた。昔の旅人はそれらを頼りに歩いたのだろう。
こちらもずっと家並みが続く平坦な道が多かった。中山道や東海道同様、昔からの集落のあるところは旧街道がしっかり残っていた。街道沿いには、しっくい壁、虫食い窓、連子格子の古い家が非常に多かったという印象だった。
伊勢神宮は、観光も含めてこれで2度目だったが、特に内宮の方は、人出がも凄かった。内宮までの両側のびっしりと並ぶ土産物屋や食べ物屋も凄い。昔はもっともっとにぎやかだったものと思われる。
◎熊野古道伊勢道
熊野古道伊勢路は、伊勢神宮と熊野三山の2大聖地を結ぶ参詣道で、西国三十三ヶ所巡礼の1番札所である那智山・青岸渡寺への巡礼道でもある。
これまでに中辺路と小辺路も歩いたが、中山道や東海道とは、まったく趣を異にする。旧街道というよりは名前通り、まさに連日登山モードの古道歩きが続くと考えた方が良い。リアス式海岸の入江にある集落を結ぶ道や紀伊半島の山中に向かう道なので、アップダウンの多い峠越えの道がほとんどである。
今回の伊勢路は8日間で、花の窟神社からは直接熊野本宮へ向かう本宮道を歩いたこともあるが、峠越えのない日は1日もなかった。合計18ヶ所もあった。標高の一番高い八鬼山越えもあったが、自分的には、翌日の1日で6つも峠越えが続き、ほとんど石畳と石段の坂道を歩いてばかりいた日だった。昔の旅人はこれを往復したのだから、凄いパワーだと思う。
古道の石畳と石段は、雨の多いこの地域ならではの雨から土砂崩れや土砂流れを防ぐ工夫だが、その当時の労力を考えるだけでも大変だったろうと思う。
峠の途中から眺めるリアス式海岸の入江の集落や山中の峠越え前後の山村風景なども印象深い景観だった。
宿が思うようになく、その日のゴール地点から宿への往復が大変だった。その移動も海岸線以外は鉄道が通っておらず、バスだけで、それも本数が少ないので思うように距離を稼げなかった。
熊野本宮大社は、観光も含めて昨年を除いた5年間で5回も行ったことになる。来年で創建2050年を迎えるという。そのころから参詣道だった熊野古道があったということを考えると、凄い歴史である。
今回は、春に残した42桑名から51の草津まで歩いてゴールとした。草津をゴールとしたのは、昨年の中山道の時に、草津で合流する東海道部分の京都三条大橋まで踏破済みだったからである。
わずか3日間だけの歩きだったが、東海道にしては珍しい歴史的建造物保存地区として町並み保存活動に取り組んでいる関宿が印象的だった。中山道の奈良井宿、妻籠宿、馬篭宿のように、観光ずれしてなく、その古い町並みの中で、日常の生活が普通に営まれていることが非常に新鮮だった。
峠越えは、「東の箱根 西の鈴鹿」と言われた鈴鹿峠だけだったが、こちら側からの登りが急できつかっただけで、下りは民家が続く緩やかな道で、特にきついとは思わなかった。
あと、面白かったのが、石部宿~草津宿間にあった2ヶ所の天井川である。道路の上を川が流れていて、川の下のトンネルを潜ったことだ。草津の東海道と中山道の合流地点に抜ける中山道側の草津トンネルも、昨年は気付かなかったが、天井川のトンネルだった。上がって見たら、今は川は流れておらず、川を埋め立てた公園になっていた。
<東海道全般に通しての印象>
5街道の中で一番昔の面影を残しているのが中山道と聞いたので、先に中山道を歩いてみた。しかし、東海道も予想していたよりずっと素晴らしかった。どちらかというと中山道は内陸部の道なので、自然が豊かな感じだった。それに比べて東海道は国道1号に絡んだ都会の中に残る街道といった感じだった。ただ、中山道に比べると、宿場の雰囲気を残しているところは少なかったような気がする。
旧街道が国道や県道にもっともっと吸収されてしまっているのではないかと思っていた。しかし、中山道もそうだが、昔からの集落のあるところは昔の街道の狭い道幅のまま家並みが残されていることだった。それだけに朝の通勤時の車が怖かった。
国道や県道に吸収されているところは、集落のないところが多かった。それだけに予想以上に昔の旧街道の面影を満喫することができた。
また、中山道同様、現在の歩き旅の人に対する標識が充実していた。歩き旅は、ガイドマップを持っても、迷ったり間違ったりすることが多い。それも振り返ってみれば、歩き旅の楽しみでもあるのだが・・・。たまたま自分のGPSの地図には東海道の道に色付けがされていて、それを辿れば良かったので、非常に助かった。
また、東海道本線に絡んだ街道でもあり、私鉄も充実しているので、宿が街道沿いで取れなくても、それらを利用して移動することができて便利だった。
これで、5街道のうちメインの2街道を踏破したことになる。ほかに、甲州街道(日本橋から八王子、甲府を経て、下諏訪で中山道に合流する43次)、日光街道(日本橋から、宇都宮、今市を経て、日光までの21次)、奥州街道(日本橋から宇都宮まで日光街道(重複区間)を経て、宇都宮より陸奥・白河までの27次)があるが、どうするかまったく考えていない。
◎伊勢街道
東海道の日永追分から別れ、伊勢神宮までのいわゆる「お伊勢参り」の街道である。昔は、東海道を旅する人は、こちらへ向かう旅人が多かったようだ。
街道の雰囲気は東海道の延長といった感じだが、東海道からこちらへ入った途端に、現在の歩き旅の人に対する標識はほとんど見当たらなかった。GPSの地図も特別扱いをしていなかった。しかし、非常に詳しいガイドマップを持ったので、それが分かりやすくとても助かった。ただし、昔のお伊勢参りの人に対する古い道標やあちこちに設置されている常夜燈が充実していた。昔の旅人はそれらを頼りに歩いたのだろう。
こちらもずっと家並みが続く平坦な道が多かった。中山道や東海道同様、昔からの集落のあるところは旧街道がしっかり残っていた。街道沿いには、しっくい壁、虫食い窓、連子格子の古い家が非常に多かったという印象だった。
伊勢神宮は、観光も含めてこれで2度目だったが、特に内宮の方は、人出がも凄かった。内宮までの両側のびっしりと並ぶ土産物屋や食べ物屋も凄い。昔はもっともっとにぎやかだったものと思われる。
◎熊野古道伊勢道
熊野古道伊勢路は、伊勢神宮と熊野三山の2大聖地を結ぶ参詣道で、西国三十三ヶ所巡礼の1番札所である那智山・青岸渡寺への巡礼道でもある。
これまでに中辺路と小辺路も歩いたが、中山道や東海道とは、まったく趣を異にする。旧街道というよりは名前通り、まさに連日登山モードの古道歩きが続くと考えた方が良い。リアス式海岸の入江にある集落を結ぶ道や紀伊半島の山中に向かう道なので、アップダウンの多い峠越えの道がほとんどである。
今回の伊勢路は8日間で、花の窟神社からは直接熊野本宮へ向かう本宮道を歩いたこともあるが、峠越えのない日は1日もなかった。合計18ヶ所もあった。標高の一番高い八鬼山越えもあったが、自分的には、翌日の1日で6つも峠越えが続き、ほとんど石畳と石段の坂道を歩いてばかりいた日だった。昔の旅人はこれを往復したのだから、凄いパワーだと思う。
古道の石畳と石段は、雨の多いこの地域ならではの雨から土砂崩れや土砂流れを防ぐ工夫だが、その当時の労力を考えるだけでも大変だったろうと思う。
峠の途中から眺めるリアス式海岸の入江の集落や山中の峠越え前後の山村風景なども印象深い景観だった。
宿が思うようになく、その日のゴール地点から宿への往復が大変だった。その移動も海岸線以外は鉄道が通っておらず、バスだけで、それも本数が少ないので思うように距離を稼げなかった。
熊野本宮大社は、観光も含めて昨年を除いた5年間で5回も行ったことになる。来年で創建2050年を迎えるという。そのころから参詣道だった熊野古道があったということを考えると、凄い歴史である。