まずは、昨日残した大泊から熊野市街地を抜けて、花の窟神社まで4.7kmを歩いた。そこから、熊野本宮大社を直接目指す本宮道へ入った。最後は風伝峠を下りて国道の一番近い後地バス停でゴールとした。
今日も同じ宿に戻って連泊するので、余計な荷物を預けて、6:30に宿を出た。熊野市駅から大泊駅まで電車で移動。
7:00、昨日のゴール地点をスタート。大泊の町並みを右に見て、海岸の堤防の上を歩く。
国道とぶつかった所に、これまで目にしなかった茅葺きの立派な民家を見つける。まだ新しい感じである。
5分ほどで松本峠への入口へ。このころから雨がパラついてきたが、傘だけで歩いた。
この後進む本宮道は本街道ではないので、ひょっとすると最後の石畳の道かと思いながら心して歩いた。
峠には、建ったその日に妖怪と間違えられて、足下に鉄砲傷がついてしまったという大きな地蔵が出迎えてくれた。
峠から下る途中から、新宮まで25kmも続く七里ヶ浜と山並みが見えた。
やがて、熊野市街地端の大本地区へと下りていく。
古い家並みが続く熊野市街地の商店街を抜ける。
世界遺産にも登録されている獅子岩。高さ25m。
ここも世界遺産に登録されている、高さ45mの巨巖をご神体とする日本最古の神社として有名な花の窟(いわや)神社を見上げる。神殿はなく、自然崇拝の太古の遺風を伝えている。
根元に祀られた燭台
神社横の交差点に建つ「右くまのへ」と彫られた道標。
ここで、新宮にある熊野速玉大社までの伊勢路本街道と別れて、直接熊野本宮大社を目指す本宮道と別れる。
ここから先の浜街道と呼ばれる本街道は、新宮の速玉大社から那智大社を経て本宮大社へ詣でる人や、西国三十三ヶ所の1番札所である青岸渡寺を目指す巡礼者が歩いた。一方、本宮道は直接本宮大社へ向かう人や、熊野三山詣でを終えて帰る人たちが通った道である。
産田神社は、イザナミノミコトが火神カグツチノミコトをこの地で産んだことに由来。さんま寿司発祥の地の標柱も立っていた。
天保の大飢饉で亡くなった人たちの供養碑。この辺りで雨が強くなってきたのでカッパを着た。
神木の集落の中の国道を歩いていると、国道の上に横垣峠への標識があった。ここまで熊野古道の標識がほとんどなかったので助かった。
入口に「地滑りで通行禁止」のようなことが書かれた看板があったので、すぐそばのなかよしステーションのおばちゃんに聞いたら、みんな行っているとのこと。
水壺地蔵とも呼ばれる地蔵の横に弘法大師が杖で穴を開けて水を出したという伝説の湧水がある。似たような伝説は西日本にはあちこちにある。
登りは自然道で石段の段差がないので普通の登山モードの歩きができて助かった。
峠には、大きな石に「横垣峠」と彫られた石が立っていた。峠の前後にも立ち入り禁止の看板が立っていたが、危険な所はなかった。
下りになったら、神木流紋岩の石畳。流紋岩は濡れると非常に滑るので、なるべく石畳の横を歩いた。
地滑りで立ち入り禁止の地滑りは、峠から林道への出口だった。踏み跡を辿って、滑って転んで泥んこになったが、林道へ下りることができた。
林道を下って、阪本の集落へと入っていった。しかし、国道へ下りる道が良く分からないので、人家に立ち寄って教えてもらった。そのすぐ先に「熊野古道」と彫られた道標があった。
阪本から国道を歩き、尾呂志へ入っていったが、標識がまったくなく、次の風伝峠への道がまた分からなくなった。あちこちうろうろして無駄な歩きをした後、また人家に寄って聞いたら、すぐその先だった。
教えられた道を進んだら、道標があってひと安心。峠道に入ると、ハイキングする人が多いのか、細かに距離まで書かれた標識が設置されている。やがて、石畳の道が続く。
広い風伝茶屋跡から舗装された林道を進むと、「風伝峠」と、彫られた石柱だけが立っていた。豊臣秀吉等の奥熊野攻めなどの様々な歴史的事件の戦略の拠点となったところらしい。
峠から滑る石畳に気をつけながら下って国道に出た。さらに進むと後地バス停があった。ここは、明日古道を外れて丸山千枚田に寄る近道なので、14:00、このバス停をゴールとした。7時間の歩きだった。熊野市駅へ向かうバスを1時間ほど待った。
熊野市駅まで戻って、宿のチェックイン時刻まで隣の図書館でブログを打った。雨降りなので、あちこち出歩くのも嫌で、コンビニで夕食を買って宿に入った。
夕食を食べていたら、オーナーが味噌汁を持ってきてくれた。若いのによく気の回るオーナーだ。
ブログも打ち終えたので、近くのコインランドリーで洗濯をして、銭湯に入って寝るつもり。
今日も同じ宿に戻って連泊するので、余計な荷物を預けて、6:30に宿を出た。熊野市駅から大泊駅まで電車で移動。
7:00、昨日のゴール地点をスタート。大泊の町並みを右に見て、海岸の堤防の上を歩く。
国道とぶつかった所に、これまで目にしなかった茅葺きの立派な民家を見つける。まだ新しい感じである。
5分ほどで松本峠への入口へ。このころから雨がパラついてきたが、傘だけで歩いた。
この後進む本宮道は本街道ではないので、ひょっとすると最後の石畳の道かと思いながら心して歩いた。
峠には、建ったその日に妖怪と間違えられて、足下に鉄砲傷がついてしまったという大きな地蔵が出迎えてくれた。
峠から下る途中から、新宮まで25kmも続く七里ヶ浜と山並みが見えた。
やがて、熊野市街地端の大本地区へと下りていく。
古い家並みが続く熊野市街地の商店街を抜ける。
世界遺産にも登録されている獅子岩。高さ25m。
ここも世界遺産に登録されている、高さ45mの巨巖をご神体とする日本最古の神社として有名な花の窟(いわや)神社を見上げる。神殿はなく、自然崇拝の太古の遺風を伝えている。
根元に祀られた燭台
神社横の交差点に建つ「右くまのへ」と彫られた道標。
ここで、新宮にある熊野速玉大社までの伊勢路本街道と別れて、直接熊野本宮大社を目指す本宮道と別れる。
ここから先の浜街道と呼ばれる本街道は、新宮の速玉大社から那智大社を経て本宮大社へ詣でる人や、西国三十三ヶ所の1番札所である青岸渡寺を目指す巡礼者が歩いた。一方、本宮道は直接本宮大社へ向かう人や、熊野三山詣でを終えて帰る人たちが通った道である。
産田神社は、イザナミノミコトが火神カグツチノミコトをこの地で産んだことに由来。さんま寿司発祥の地の標柱も立っていた。
天保の大飢饉で亡くなった人たちの供養碑。この辺りで雨が強くなってきたのでカッパを着た。
神木の集落の中の国道を歩いていると、国道の上に横垣峠への標識があった。ここまで熊野古道の標識がほとんどなかったので助かった。
入口に「地滑りで通行禁止」のようなことが書かれた看板があったので、すぐそばのなかよしステーションのおばちゃんに聞いたら、みんな行っているとのこと。
水壺地蔵とも呼ばれる地蔵の横に弘法大師が杖で穴を開けて水を出したという伝説の湧水がある。似たような伝説は西日本にはあちこちにある。
登りは自然道で石段の段差がないので普通の登山モードの歩きができて助かった。
峠には、大きな石に「横垣峠」と彫られた石が立っていた。峠の前後にも立ち入り禁止の看板が立っていたが、危険な所はなかった。
下りになったら、神木流紋岩の石畳。流紋岩は濡れると非常に滑るので、なるべく石畳の横を歩いた。
地滑りで立ち入り禁止の地滑りは、峠から林道への出口だった。踏み跡を辿って、滑って転んで泥んこになったが、林道へ下りることができた。
林道を下って、阪本の集落へと入っていった。しかし、国道へ下りる道が良く分からないので、人家に立ち寄って教えてもらった。そのすぐ先に「熊野古道」と彫られた道標があった。
阪本から国道を歩き、尾呂志へ入っていったが、標識がまったくなく、次の風伝峠への道がまた分からなくなった。あちこちうろうろして無駄な歩きをした後、また人家に寄って聞いたら、すぐその先だった。
教えられた道を進んだら、道標があってひと安心。峠道に入ると、ハイキングする人が多いのか、細かに距離まで書かれた標識が設置されている。やがて、石畳の道が続く。
広い風伝茶屋跡から舗装された林道を進むと、「風伝峠」と、彫られた石柱だけが立っていた。豊臣秀吉等の奥熊野攻めなどの様々な歴史的事件の戦略の拠点となったところらしい。
峠から滑る石畳に気をつけながら下って国道に出た。さらに進むと後地バス停があった。ここは、明日古道を外れて丸山千枚田に寄る近道なので、14:00、このバス停をゴールとした。7時間の歩きだった。熊野市駅へ向かうバスを1時間ほど待った。
熊野市駅まで戻って、宿のチェックイン時刻まで隣の図書館でブログを打った。雨降りなので、あちこち出歩くのも嫌で、コンビニで夕食を買って宿に入った。
夕食を食べていたら、オーナーが味噌汁を持ってきてくれた。若いのによく気の回るオーナーだ。
ブログも打ち終えたので、近くのコインランドリーで洗濯をして、銭湯に入って寝るつもり。