先週行くはずだったが天候に恵まれず、延び延びになっていた念願の現在も地形図に載っている礼文華山道(昭和41年まで利用されていた旧国道)を歩いてきた。
長万部側の入口(国道37号線の最高地点)にMTBをデポし、豊浦側の入口(森林公園手前)からスタートして、7.8kmを歩き、MTBで国道を下り、スタート地点へ戻った。
上記の2冊は、平成16年に仕事の関係で、著者の三浦宏氏(道路雑学研究家・北海道開発局OB)から直接いただいていたものだが、それによると、今日歩いた明治27年に開通した旧国道以前の「礼文華山道」は、「猿留山道」「雷電山道」とともに蝦夷地の三大難所のひとつに数えられていたとのこと。
明治になって、「札幌本道」を建設する際も、森~室蘭間を海路で繋ぐことにしたのは、この山道のあまりの峻険さに改修を諦めて見送ったことに因る。安政年間に松浦武四郎は3度、明治11年にイザベラバード女子も歩いて、それぞれの著書にこの道のことを書いている。当時の山道のほとんどは、まだ山に埋もれたままになっているらしいが、一ヶ所だけ200mほど「礼文華峠古道」として復元されていた。
この山道の本格的な改修が始まったのは明治23年で、それから4年後に完成した。これが、今日歩いた「礼文華山道」で、昭和41年に国道37号線が別ルートで開通するまで利用された道路である。
これらの詳しい歴史については、三浦氏の著書をPDFにして掲載されている下記でも読むことができる。
http://www.hokuhoku.ne.jp/rmec/05pdf/05-4041.pdf
今日、途中で道路の草刈りをしていた地元の方の話によると、「この道路も昭和年代にだいぶ改修されている。最近、古道ブームで、小幌駅や小幌海岸とセットでこの道を歩くツアーもあるが、この道を昔の礼文華山道と勘違いしている人が多い」とのこと。
豊浦側の入口・礼文華の森林公園手前・・・立て札は今年になって立てられたようだ。
現在、峠から南に延びる林道の改修工事中とのことで、山道のイメージがなくなっていた・・・ちょっとガッカリ!
途中一部200mほど、昔の山道が「礼文華峠古道」として復元されていた部分があって、うれしかった
その出口に「相撲取り場」というところがあったが・・・なぜ、こんなところに?
途中の標識はここだけで、地図にも載っている「礼文華峠」にも標識はなく、ちょっと広くなっていただけ・・・。
「相撲取り場」から右手に見えた国道37号線と昆布岳と羊蹄山山頂部
峠から南に別れる改修工事中の林道分岐を越えたら、グチャグチャの轍が2本残るだけの道になっていたが、反対側から、地元の人たちが草刈りをしていた。
この人たちは、この山道の管理と昔の山道の探索と歴史的研究をしているグループで、詳しい話を聞かせていただいた。
眼下に見える国道37号線の礼文華橋と噴火湾を挟んで見える駒ヶ岳・・・松浦武四郎は『東蝦夷日記』に駒ヶ岳の遠望の記述いくつも見られるとのこと
長万部側の入口に立つ立て札と待っていてくれたmyMTB
この後、国道をMTBで下ったが、礼文華トンネルと礼文トンネルには1.5m程の幅の歩道があるが、怖かった。
今日歩いたこの礼文華山道は、旧国道だったので、これまで歩いた江戸時代から明治時代の人馬だけの古道を復活した「様似山道」「猿留山道」「濃昼山道」と違って、かなり物足りなかった・・・。
このブログをアップ後、6月初旬に歩いた岳友・低山大好きさんからコメントをいただき、森林公園から途中の「森林公園まで1600m」の標識の所までの自然観察道路も「礼文華古道」だったことが判明し、上掲の地図に記入した・・・近々歩いてみなくては・・・。
もう少し詳しい記録は下記からどうぞ!
http://sakag.web.fc2.com/rebungesando.htm (アップ完了)
このブログを書いている最中に、来春オープン予定の「層雲峡・大雪山写真ミュージアム」の館長になる山岳写真家の市根井孝悦氏から電話が入って驚いた・・・。
特に用事はなく、「函館から来たと言うと、坂口さんに間違えられることが多くて、驚いている」とのこと。インターネットの威力の凄さにビックリしていること、こちらの体のこと、山のこと、ミュージアムの開館準備のことなど、諸々お喋りをした。最後に、「開館のメドが付いたら、坂口さんのHPで、ミュージアムの宣伝もしてくださいよ」とのことで終わった。
長万部側の入口(国道37号線の最高地点)にMTBをデポし、豊浦側の入口(森林公園手前)からスタートして、7.8kmを歩き、MTBで国道を下り、スタート地点へ戻った。
上記の2冊は、平成16年に仕事の関係で、著者の三浦宏氏(道路雑学研究家・北海道開発局OB)から直接いただいていたものだが、それによると、今日歩いた明治27年に開通した旧国道以前の「礼文華山道」は、「猿留山道」「雷電山道」とともに蝦夷地の三大難所のひとつに数えられていたとのこと。
明治になって、「札幌本道」を建設する際も、森~室蘭間を海路で繋ぐことにしたのは、この山道のあまりの峻険さに改修を諦めて見送ったことに因る。安政年間に松浦武四郎は3度、明治11年にイザベラバード女子も歩いて、それぞれの著書にこの道のことを書いている。当時の山道のほとんどは、まだ山に埋もれたままになっているらしいが、一ヶ所だけ200mほど「礼文華峠古道」として復元されていた。
この山道の本格的な改修が始まったのは明治23年で、それから4年後に完成した。これが、今日歩いた「礼文華山道」で、昭和41年に国道37号線が別ルートで開通するまで利用された道路である。
これらの詳しい歴史については、三浦氏の著書をPDFにして掲載されている下記でも読むことができる。
http://www.hokuhoku.ne.jp/rmec/05pdf/05-4041.pdf
今日、途中で道路の草刈りをしていた地元の方の話によると、「この道路も昭和年代にだいぶ改修されている。最近、古道ブームで、小幌駅や小幌海岸とセットでこの道を歩くツアーもあるが、この道を昔の礼文華山道と勘違いしている人が多い」とのこと。
豊浦側の入口・礼文華の森林公園手前・・・立て札は今年になって立てられたようだ。
現在、峠から南に延びる林道の改修工事中とのことで、山道のイメージがなくなっていた・・・ちょっとガッカリ!
途中一部200mほど、昔の山道が「礼文華峠古道」として復元されていた部分があって、うれしかった
その出口に「相撲取り場」というところがあったが・・・なぜ、こんなところに?
途中の標識はここだけで、地図にも載っている「礼文華峠」にも標識はなく、ちょっと広くなっていただけ・・・。
「相撲取り場」から右手に見えた国道37号線と昆布岳と羊蹄山山頂部
峠から南に別れる改修工事中の林道分岐を越えたら、グチャグチャの轍が2本残るだけの道になっていたが、反対側から、地元の人たちが草刈りをしていた。
この人たちは、この山道の管理と昔の山道の探索と歴史的研究をしているグループで、詳しい話を聞かせていただいた。
眼下に見える国道37号線の礼文華橋と噴火湾を挟んで見える駒ヶ岳・・・松浦武四郎は『東蝦夷日記』に駒ヶ岳の遠望の記述いくつも見られるとのこと
長万部側の入口に立つ立て札と待っていてくれたmyMTB
この後、国道をMTBで下ったが、礼文華トンネルと礼文トンネルには1.5m程の幅の歩道があるが、怖かった。
今日歩いたこの礼文華山道は、旧国道だったので、これまで歩いた江戸時代から明治時代の人馬だけの古道を復活した「様似山道」「猿留山道」「濃昼山道」と違って、かなり物足りなかった・・・。
このブログをアップ後、6月初旬に歩いた岳友・低山大好きさんからコメントをいただき、森林公園から途中の「森林公園まで1600m」の標識の所までの自然観察道路も「礼文華古道」だったことが判明し、上掲の地図に記入した・・・近々歩いてみなくては・・・。
もう少し詳しい記録は下記からどうぞ!
http://sakag.web.fc2.com/rebungesando.htm (アップ完了)
このブログを書いている最中に、来春オープン予定の「層雲峡・大雪山写真ミュージアム」の館長になる山岳写真家の市根井孝悦氏から電話が入って驚いた・・・。
特に用事はなく、「函館から来たと言うと、坂口さんに間違えられることが多くて、驚いている」とのこと。インターネットの威力の凄さにビックリしていること、こちらの体のこと、山のこと、ミュージアムの開館準備のことなど、諸々お喋りをした。最後に、「開館のメドが付いたら、坂口さんのHPで、ミュージアムの宣伝もしてくださいよ」とのことで終わった。