癌春(がんばる)日記 by 花sakag

2008年と2011年の2回の大腸癌手術
   ・・・克服の先に広がる新たな春を生きがいに・・・

漁村の思い出

2009年12月21日 | 日常生活・つぶやき
今年も活きたホタテが届いた。
もう27年間も続いている義理堅いお心遣いである。

新卒以来函館市内で17年勤務し、初めて市外へ転勤したのが、当時の南茅部町大船(現函館市大船町)だった。
自分は農村育ちだったので、漁村の生活も経験したかったことや、二人の子供を幼少期は田舎で育てたかったことなどからの希望だった。

昆布の養殖が主で、獲る漁業の他にホタテの養殖などが盛んな地区だった。
初めて経験する漁村の生活は、驚きの連続だった。
特に驚いたのは、いわゆる漁師気質という奴である。
海で穫れるものをいただくことが多く、その量が半端でない。
こちらでちょうど良い量は、彼等にするとくれた気がしない量らしい。

一番先に地元の人に言われたことは、「ける(あげる)と言うものは何でももらわねばダメだ。一回遠慮したら、めんこぐんぇから、もう、けねって言われるど・・・」だった。

引っ越した翌日に、見ず知らずのお宅からきれいに捌いて料理するだけになった数種類の魚が届いてビックリ・・・。
「町から来る奥さんだもの、魚なんかちょせねべぇ」というそのお宅のおばあちゃんの心遣いだった。
当たらずとも遠からずだったが、出刃包丁や刺身包丁と大きなまな板は新調していったので、そのことを話すと、それからはいろいろなお宅から漁箱で届くようになった。

たまに、港から電話が入る・・・「持っていげねぇから、取りに来てけさい」・・・漁箱でドーンと渡される。
冷凍庫はいつも満杯。当然処理仕切れないので、小分けして函館へ車で走り、手当たり次第にあちこちに配る。

一度は、私が泊まりがけの忘年会でいないときに、タラコの入ったメスだけ選んだスケソウダラが2箱も届いた。
配ることができないので、当然、その日の内に処理しなくてはならない。
亡妻は、最後には涙を流しながら、真夜中まで掛かってタラコを取り出し、身の方は寒干しにした。
その夜は異常に冷えたので、そのときの寒干しタラがこれまでで一番旨かった。

活きたままのタコをもらって、大鍋にお湯を沸かして、暴れるタコと格闘したこともある。
最近になって価値が見いだされて高い値段で取引されているガゴメ昆布を一抱えももらったことがある。
処理の仕方が解らないので、数時間掛けて全部ミキサーで粉末にした。
今なら数万円もする量だったのでは?
今は時効になっているから書けるが、漁業権のないカニや1日の一軒当たりの水揚量が決まっていて外に持ち出せないウニなども「どこからもらったと言わないでけれ」とか「殻は穴掘って埋めてけれ」と頼まれながらいただいたことも懐かしい。

特に沖止めになる年末の日などは大変だった。
初めのうちはうれしかったが、そのうちに、家の前にトラックが停まる音がすると背筋が寒くなるほどだった。
数軒からのホタテだけで360パイになったこともある。
今になってみれば、どこかの魚屋さんと提携しておけば良かったと思うほどである。

不思議な縁で、3年の間を置いて再び管理職でまた同じ職場に勤務し、延べ7年間住んだが、その間、海産物は買ったことがなかった。
函館に戻ってからは、スーパーで値段を見た亡妻は、しばらくは魚などを買うのが怖かったらしい。