山本丘人という画家にみなさまはどんなイメージをお持ちでいらっしゃいましょう?
魂の抒情詩
など、丘人の展覧会には必ず似たようなサブタイトルが付きます。そして、その作品は誠に優しく、抒情的です。
以下丘人の図録にこんな記載を見つけましたので抜粋させていただきます。
丘人自身の言葉
「それにしても、私は従うより外れて、こわしていく方だった。研究会の集まりの日が、あまりにも窮屈だから、『先生、タバコを吸っていいですか?』と言い出し、『ああ、いいよ』なので、タバコを取り出して吸った。そんなことはめっそうもないとタバコを口にせぬ先輩たちは一斉に白い目で私をみる。おかまいなしに次は、『あぐらをかいてもいいですか』と言うと、『よろしい』であったから、並み居る正座の人たちの間で、私はあぐらになった。
末席ながら、或いは末席だから、多めに許してくれたのか。私がそうしても、威儀を正している先輩諸氏は、私に同調はしない。私は異端児というわけである。」
師・松岡映丘と丘人
松岡映丘の家での集まりで、取り巻きの弟子たちがおべんちゃらを使っているので面白くなく、丘人はお膳をひっくり返して部屋を出ていってしまった。
松岡が、「おい、ちょっと心配だから、だれか追っかけて、見てくれ」というと、ひとりが「なぁに、山本なら、放っといたってだいじょうぶですよ」と言った。すると松岡は「君なら放っといたって大丈夫だろうが、あいつだけはガラス細工みたいな作りの人間だから。。」と言った。
以上
作家の生い立ちと作品に深い結びつきがあることは
私は100%認めています。けれど、作品鑑賞に作家の生い立ちの知識は必要ないと感じています。
作品とそれを目前に鑑賞している私との対峙。
日本近代日本画、洋画ともに、個と個のこうした深い繋がりを求めていると思うからです。
上の記述に、
あらためて丘人という人の苦悩、迷い、そして深い悲しみを感じます。
そして、多くの優秀な画家を弟子として抱え、それぞれの心の奥を見抜くことのできた松岡映丘という人の懐の深さを思わずにはいられません。丘人という画家が自身を高く作品に昇華できたのは、映丘という師をはじめ、多くの深い優しい心に触れることができたからだろうと思えます。
丘人の大好きな佐橋とともに、また皆さまと共に
丘人という画家の作品を、長く鑑賞し続けていきたいと願っています。
そして、どちらかで丘人作品をご覧になった時、佐橋美術店のことを少し思い出してくださればこんな光栄なことはありません。
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