「2021/9/05 日曜日に」の記事に佐橋がコメントを寄せております。
よろしければ、お読みください。またできましたら、皆様もこの記事にコメントをお残しいただけませんでしょうか?
佐橋の為にということではございません。
皆様に、「コメントをお残しください」とお願いするときは、私がブログを書くという行為自体に迷いを感じている時です。
どんなに些細なことでも皆様からのご意見がいただきたいと思っている時です。
ヒントをいただくというよりも、皆様と同じ位置にいることを確かめたい。そんなわがままに気持ちからです。
お許しいただけますなら、コメントをお残しください。
「コメントに」と最初にお書きくださいましたら、短いメールをいただいても結構です。私がコメント欄に転送いたします。
佐橋にお見舞いのお言葉は不要ですので、お好きな絵のお話や最近飾られていらっしゃる作品の感想などお聞かせください。
お願い致します。
メール先 sahasi 2009@castle.ocn.ne.jp
sippi@docomo.ne.jp
漱石の指摘は、どうでしょう、案外大観の二面性に触れているような気もしますが。私には難しいです。
ここで指摘されている(フェノロサや天心のいうところの)明治時代の教養は西洋から入ってきた教養と無関係ではないでしょう。
西洋での教養は例えばギリシャの哲学や神話に精通しているということになりますが、それの日本バージョンは「古事記」「日本書紀」でしょうか。あるいは「万葉集」や「古今和歌集」、「源氏物語」などなど挙げたらきりがありません。
画題はどこから来たのか。なぜこの絵を描いたのか。背景は何か。鑑賞する側にもそれなりのものを求められるのが、ざっくりといえば芸術一般について言えることです。
私の好きなバロック音楽でも同じで、この時代は大概「表題音楽」になります。鳥のさえずりから、時計、作曲家仲間、偉大なルイ14世まで音楽で様々な物事を表現しようとしました。
結局、根幹は皆同じだと思うのです。それをキャッチしてそれぞれに愉しめれば(曲者は愉しければいいってもんじゃないってよく言いますが、それはそれとして)芸術はその役割を十分に果たしていると思います。
現在、その在り方が変わってきているのだとすれば、それはニーズが変わったという事でしょうか。かつて以上に一瞬のインパクトが重要視される時代になりました。
例えばYouTubeの長い動画よりも、tiktokのような1分以内のものが受けが良いようです。
でも世間なんでどうでもいいじゃないですか。
結局、個々にとって大切なものはそれぞれに違うはずなのですから。
「でも世間なんでどうでもいいじゃないですか?結局、個々にとって大切なものはそれぞれに違うはずなのですから。」
まさに、そこですね。私の幼かった昭和の時代には、大切な物は案外みんな一緒だったように思います。
お家を建てて、応接間を設けて、テレビを置き、絵の一つも飾る。その時流の中に、あの「銀座に画廊500店」の存在がありました。
それをご存知のお客様がまだ全国にいらして、今迄私達もそのおこぼれに預かり商いをさせて頂いて参りましたが、いよいよその方達もご高齢になられました。
漱石の大観評の中の二面性ではありませんが、結局、より芸術的なものか?より大衆的なものか?に私たちの商いもその二つのどちらかを選択をして行かなくてはいけなくなるのかとずっと思っていましたが、今回をきっかけにそうではないように思い始めました。最近扱わせて頂いた棟方などもそうですが、大衆に広く受け入れられた作家の一握りの作品には必ずキラッと輝く芸術性が潜んでいるのですね。そこをきちんと押さえていきたいと思います。
そんなお話をこれから少しづつ書かせていただきたいなぁと思っていた所です。Kさんにはいつも刺激をいただきます。ありがとうございます。
絵がステータスである時代を知っている人達と、そんなことを知らない中年、若年層の選ぶものは同じでなくて当然のような気がします。
しかし、作品そのものに何かが宿っている場合、背景を知らなくても「何故か惹きつけられる」ということが起こる可能性も十分ありえると思います。
その作品が、人の生活に少しでも潤いをもたせていたら、十分役目を果たしていると言えるのではないでしょうか。
自分の目で購入される、比較的若いお客さんの話も聞きます。そういうお客さんがいるというところにも佐橋さんの個性を感じます。
なにはともあれ、今後ともブログ楽しみにしております。
追伸
武山の「白鷺」。額装になって魅力が上がりましたね。
観山の「寿星」は、真なる名品なので、いうまでもないです。
波光の「蟹ときす」は、個人的にとても惹きつけられます。